巻頭言

分子模型

Kazuhiro Irie

入江 一浩

京都大学大学院農学研究科

Published: 2019-05-01

有機化学は,化学を基盤とする農芸化学分野の学生の教育において重要な位置を占めている.分子生物学を中心とした生命科学が隆盛になり,有機化学系の研究室が減少している時代にあって,有機化学の重要性を学生に理解してもらうべく,講義,学生実験などで20年間孤軍奮闘してきた.

すべての元素のなかで炭素だけが驚くほど複雑な化合物を構築でき,その中には多数の立体異性体が存在する.これらの立体構造を理解するうえで,分子模型の果たす役割は極めて大きい.近年,画面上で分子の三次元構造を簡単に表示できるようになったが,模型を手に取ってその形状を感じることは,生物活性分子の設計においてイマジネーションをかき立てる.

筆者は小学4年生の頃から,自宅で化学実験をしていた.参考にしていた化学実験操作法(南江堂)の折り込み広告で,内田洋行が分子模型(SU-U型)を販売していることを知り,お年玉で購入した.この模型の原子は重量感のある硬質プラスチックでできており,色彩も美しく,化粧合板製ケースに納められていた.原子をつなぐ結合がバネでできている唯一の分子模型であり,結合が振動していることを理解できた.しかしながら,バネは壊れやすく,またさびやすい.大学に入学した頃には,ほとんどのバネが伸び切ってしまい,そのまま自宅に眠ることになった.

大学ではHGS分子構造模型(丸善)が広く使われていた.筆者は最も部品の多いB型セットを購入した.高級感はないが実用的な模型で,シクロヘキサンのコンホメーションや軸性キラリティーの理解に役立った.その後,大学教員になり,本模型のC型セットを長年講義で活用してきた.ところが,2015年,この模型を製造していた会社が業務を停止するというショッキングなニュースが入ってきた.そこで翌年の講義に間に合わせるため,代替品を海外のメーカーも含めて広範に調査したが,適当なものはなく,HGS分子模型の優秀性を改めて感じた.そのとき,幼少期に購入した分子模型の存在を思い出し,内田洋行に連絡したところ,何と約50年前に購入したものと全く同じ模型が販売されていることが判明した.しかも使えなくなったスプリングジョイントだけを購入でき,講義で使用できるようになった.日本のモノ作りの原点を見たような気がした.ただ,これを学生に勧めるのは断念した.半世紀を経て当時の購入価格の約5倍になっていたからである.その1年後,朗報があった.HGS分子模型の復活を望む人々が多かったため,2017年より販売が再開したのである.

小学生のとき,有機化学が何たるかを理解していたわけではなく,ただ分子構造の美しさにひかれて有機化学に興味をもった.筆者は,アミロイドβの毒性オリゴマーの構造研究を行っているが,最近,毒性を示す立体構造を説明するためのペプチドの分子模型を考案した.この模型は2015年,京都大学総合博物館が主催した「研究を伝えるデザイン」という特別展示で公開されるとともに,アウトリーチ活動で活躍している.この模型を見て生体分子の美しさを感じとってくれた子どもたちが将来,有機化学分野の研究者を目指すことを心より願っている.最近,大学教員を志す学生が農芸化学分野でも減少傾向にある.定員削減や任期制の問題,研究環境の悪化などが原因として指摘されている.しかしながら,研究の原点は本人の興味とこだわりであり,真にやりたい研究ができるのはやはり大学しかないと思う.分子模型を購入し,研究者を志したときの気持ちをいつまでも忘れないでいたい.