巻頭言

イノベーションについて考えたこと

Marie Nishimura

西村 麻里江

農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)本部

Published: 2019-09-01

昨年まで産業系のファンディングエージェンシーに出向していた.巻頭言をと言うお話を頂戴したので,当時考えていたことを書かせていただくことをお許しいただきたい.

最初に,ここ数年で一番考えさせられた有名な小咄を一つ紹介したい.

「宇宙空間ではボールペンが使えない.そこでNASAが宇宙でもどこでも使えるボールペンを一生懸命開発した.やっとできたそのボールペンをアメリカの宇宙飛行士が宇宙ステーションに持っていったとき,ソ連の飛行士は鉛筆で書いていた.」

この小咄を人から聞いたときには,研究開発のあり方の弱点を突かれたような気がしたのを覚えている.ある課題の解決のために高額なハイテク研究が行われている,しかし視点を変えればローテクでも社会ニーズには十分だったというありそうな話だ.昨年,ある国際会議に出席した際にもこの小咄を思い出した.その会議での展示品として,有用なタンパク質源として昆虫(コオロギ)を加工利用したペットフードや食材などが展示されていた.農業廃棄物などで昆虫を飼うことができるためフードロス対策としても優れており,日本国内でも報道されることが多くなっているのでご存じの方も多いと思う.昆虫利用をローテクとすると,対するハイテクは「培養肉」ではないだろうか.報道でシャーレに詰まったミンチ肉が映し出されることが多かったので,こちらもよくご存じだろう.昆虫食も培養肉も,将来の食糧危機,ひいてはエサ不足による畜産業の危機に向けて考え出されたものだが,どちらが社会普及しやすいだろうか?

近年,新聞などで「イノベーション」という単語を頻繁に目にする.イノベーションは「技術革新」と訳されていることが多く,インターネットが好例として挙げられることが多い.それもあってか,一般的にイノベーションは,漠然と「“すごい”新技術や新発見」という意味だと受け取られているという印象がある.さて,ここでイノベーションの意味を再確認してみた.三省堂辞書“10分でわかるカタカナ語”では「刷新,技術革新のこと…経済成長の原動力となる革新…」(1)1) 三省堂編修所:10分でわかるカタカナ語 第43回イノベーション,https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/%e7%ac%ac43%e5%9b%9e-%e3%82%a4%e3%83%8e%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3, 2006.とある.平成29年度科学技術白書ではさまざまなイノべーションの定義が述べられているが,その中でも「技術の革新にとどまらず,これまでとは全く違った新たな考え方,仕組みを取り入れて,新たな価値を生み出し,社会的に大きな変化を起こすこと」(2)2) 文部科学省:平成29年版科学技術白書,http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa201701/detail/1388436.htm, 2017.というものが一般的かつわかりやすい.いずれにしても,ある新しい事柄(科学技術に限らない)がイノベーションと呼ばれるためには,経済や社会に変化をもたらすことが必要であり,逆に,「“すごい”新技術や新発見」であっても,社会で使われてなければイノベーションではないということになる.そういう意味でNASAのボールペンは,培養肉は,昆虫食はどうなのだろうか?

国や研究機関のイノベーションを生み出す力は,論文の質と数,そして特許数から評価することが多い.この方法で評価すると日本のイノベーション創出力は確かに低下している.しかし論文と特許が増えればイノベーション創出力が上がるかというと,それほど単純ではないように思える.むしろ,論文や特許の先にある社会への還元をどれぐらい個々の研究者が認識しているかといったことが大事なのではないか.農芸化学会員の半分弱は企業の方と聞いている.学会員同士がつながれば社会還元が可能,すなわちイノベーションが生み出せるのが本学会の強みになると考えている.

さて最後になりますが,今年度から編集担当理事を拝命致しました.ご指導のほどよろしくお願い申し上げます.

Reference

1) 三省堂編修所:10分でわかるカタカナ語 第43回イノベーション,https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/%e7%ac%ac43%e5%9b%9e-%e3%82%a4%e3%83%8e%e3%83%99%e3%83%bc%e3%82%b7%e3%83%a7%e3%83%b3, 2006.

2) 文部科学省:平成29年版科学技術白書,http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpaa201701/detail/1388436.htm, 2017.