セミナー室

昆虫のフェロモン1-1:フェロモンの化学合成フェロモン作れば虫が来る

Kenji Mori

謙治

東洋合成工業(株)感光材研究所

Published: 2019-09-01

はじめに

フェロモンは「1個体から外界へ分泌されて同種のほかの個体により受容され,特定の発育過程や行動などで特異な反応をひき起こす物質」と定義される.フェロモンの存在はフランスのFabreによって1914年に初めて示唆されたが,カイコ蛾(Bombyx mori)の雌が放出して雄を誘引する物質の化学構造が確定したのは,1939~1961年の20年以上にわたるドイツのButenandtの研究によってである.この研究に従事したHeckerがButenandtとともに経過を述べた貴重な総説がある(1)1) E. Hecker & A. Butenandt: Bombykol Revisited Reflections on a pioneering period and some of its consequences, In “Techniques in Pheromone Research,” ed. by H.E. Hummel & T.A. Miller, Springer-Verlag, 1984, pp. 1–44..ボムビコールと命名されたカイコ蛾雌の性フェロモンは,50万頭のカイコ蛾処女雌から誘導体として12 mg得られた.

図1図1■カイコ蛾雌の性フェロモンであるボムビコール(1)の構造に示すボムビコール[(10E,12Z)-10,12-ヘキサデカジエン-1-オール(1)]の2個の二重結合に由来する4個の異性体はすべてButenandtらによって化学合成され,そのなかで10位の二重結合がトランス(E)で12位がシス(Z)の配置をもつ異性体だけが,10−12 µg/mLという超低濃度で雄のカイコ蛾を興奮させる強力なフェロモン活性を示した.1961年のことである.

図1■カイコ蛾雌の性フェロモンであるボムビコール(1)の構造

二重結合を有するフェロモンでは,そのE/Z異性はフェロモン活性と密接に関係する.(E)-異性体がフェロモンとして有効で(Z)-異性体は無効という場合や,その逆がある.アルケンのトランス(E),シス(Z)を作り分ける技術(2)2) 安藤香織:“アルケンの合成.どのように立体制御するか”,共立出版,2018.が重要なゆえんである.

フェロモンの構造研究の最終段階では,推定された構造を有する化合物を入手して,それがフェロモンとしての活性を示すことを証明しなければならない.そのためには化学合成という手段が必須だ.以下,フェロモン研究の各局面において,化学合成がどのように役立っているかを概説しよう.

構造決定のための合成

フェロモンは通常μg量しか自然界から入手できない.虫は必要最低量しか普通作らないからだ.そのうえ化学構造の研究は質量分析法で行われることが多く,きれいなNMRスペクトルのデータが1H,13Cともに得られることはまれである.そこでフェロモンの化学構造決定は通常平面構造の確定で終わるから,絶対立体配置の決定はしばしば未完の問題となる.時には,平面構造の確定にすら至らない場合がある.キクイムシの一種で欧米のモミの木などを食害するTrypodendron lineatumの雌の放出するフェロモンは1977年にアメリカのSilversteinらにより研究されたが図2図2■キクイムシのフェロモンであるリネアチン(2)の構造決定のための合成2なのか2′なのかわからなかった.われわれは図示のようにiiiとの[2+2]光環化反応を鍵反応としてiiiiii′の混合物を作ったが,両者は分離不能だった.しかしiviv′は分離可能であり,それぞれの1H NMRスペクトルから構造が明らかになった.ivから合成された2は天然フェロモンと同じ1H NMRスペクトルを示し2′のそれは明らかに異なっていたのでリネアチンの構造は2だと判明した(4)4) K. Mori: The Synthesis of Insect Pheromones, In “The Total Synthesis of Natural Products, Vol. 4,” ed. by J. ApSimon, Wiley, 1981, p. 86.

図2■キクイムシのフェロモンであるリネアチン(2)の構造決定のための合成

立体構造の確定が困難で間違った構造が提出されるのは日常茶飯事である.貯穀害虫であるオオツノコクヌストモドキ(Gnatocerus cornutus)の放出する集合フェロモンは日本の手林らにより研究され1998年に図3図3■貯穀害虫の一種のフェロモンである3の構造決定のための合成に示す(1R,4R,5S)-(+)-アコラジエン(3′)という構造が与えられていた.われわれは図示のようにGrubbs I型触媒を用いる閉環メタセシス反応でvviに環化させることを鍵反応として3′を合成したら,その1H NMRスペクトルは天然フェロモンのそれと異なっていた.viの立体構造はX線結晶解析で確認していたから,合成品3′の立体構造に間違いはない.3′の有する3個の不斉炭素原子(C1, 4, 5)のどこの絶対立体配置が天然フェロモンと違うのかを決めるのに紆余曲折があったが,天然フェロモンのNMRスペクトルはわれわれの合成した(1S,4R,5R)-(+)-α-アコラジエン(3)のそれと一致した.3の合成ではviiをアルカリ処理してアルドール反応を起こさせて閉環させることが,鍵反応となっている(5)5) K. Mori: Top. Curr. Chem., 239, 28 (2004).

図3■貯穀害虫の一種のフェロモンである3の構造決定のための合成

フェロモン活性を調べるために両鏡像体を合成する

オリーブミバエ(Bactrocera oleae)は,地中海沿岸のオリーブを食害する害虫である.その雌が放出するフェロモンは,図4図4■オリーブミバエのフェロモンであるオレアン(4)の両鏡像体の合成に示すオレアン(4)である.オレアン(4)には,不斉炭素原子がない.したがって点不斉は起こり得ない.しかし2種の鏡像異性体(R)-4と(S)-4が存在する.それは軸不斉と呼ばれる現象だ(6)6) 森 謙治:“有機化学II”養賢堂,”1988, pp. 329–330.

図4■オリーブミバエのフェロモンであるオレアン(4)の両鏡像体の合成

オレアン(4)は,イギリスのBakerとドイツのFranckeによって,1980年に単離・構造決定された.Francke教授邸でワインを美味しくいただいていた夕方,彼は突然言った.「昆虫は軸不斉によるR,S両鏡像体を区別するだろうか?」と.それを受けて1985年にわれわれは図4図4■オリーブミバエのフェロモンであるオレアン(4)の両鏡像体の合成に示すように(R)-4と(S)-4とを作った(7)7) K. Mori: The Synthesis of Insect Pheromones, In “The Total Synthesis of Natural Products, Vol. 9,” ed. by J. ApSimon, Wiley, 1992, pp. 466–468..6員環化合物では置換基がエクアトリアルな立体配座が優先となる事実と2個の酸素原子間の立体電子効果を利用した合成である.結晶性の合成中間体のixxiのX線結晶解析によって,スピロ炭素の絶対立体配置は疑問の余地なく決定した.ixの両鏡像体の水酸基を還元的に除去すればオレアン(4)の両鏡像体が得られた.

われわれの合成品を用いたフェロモン活性試験がギリシアのHaniotakisによって行われ,(R)-4は雄を,(S)-4は雌を性的に活性化することがわかった.そして雌の放出する天然オレアン(4)は,キラルGC分析の結果R/S=約1 : 1の混合物であることがドイツのSchurigによって見いだされた.フェロモンの両鏡像体の活性が性差と関係している珍しい例である.この事実は,純粋な(R)-4と(S)-4を作ったわれわれの仕事がなければ見つけられなかった.

害虫を実地で誘引するのに最適な薬剤を決めるための合成

フェロモンは農林業での害虫防除に実用化されている.農林産物の生産価格は安いほどよいのだから,作りにくくて高価なフェロモンは,通常商品化されない.そこで,いろいろな合成フェロモンの価格による選択が行われることとなる.

今世紀に入ってクビアカツヤカミキリ(Aromia bungii)が中華人民共和国から日本に侵入し,桜や桃などわれわれになじみの深い樹木に大害を与えて大きな問題となっている.この虫の雄が放出するフェロモンは,日本の安居やアメリカのMillarらによって研究され,図5図5■クビアカツヤカミキリのフェロモンである5の合成に示す6,7-エポキシ-2-ノネナール(5)であることが2017年に判明した.(±)-5は市販のxiiからm-クロロ過安息香酸によるエポキシ化で,一段階で合成可能である.

図5■クビアカツヤカミキリのフェロモンである5の合成

筆者は2018年に,(6R,7S)-5と(6S,7R)-5の両方を図5図5■クビアカツヤカミキリのフェロモンである5の合成のようにHoveyda-Grubbs II触媒を用いたクロスメタセシスを鍵反応としてxiiiからxivxviを経由して合成した(8)8) K. Mori: Tetrahedron, 74, 1444 (2018)..天然フェロモンは(6R,7S)-5であった.両鏡像体のフェロモン活性が安居らによって調べられ,非天然型(6S,7R)-5は天然型フェロモンの活性を阻害しないことが明らかになった(9)9) H. Yasui, N. Fujiwara-Tsuji, T. Yasuda, M. Fukaya, S. Kiriyama, A. Nakano, T. Watanabe & K. Mori, Appl. Entomol. Zool. (2019)..さて,合成の経費は光学活性体合成のほうがはるかにかかる.そこでわが国で実用化されるフェロモントラップには(±)-5が使用されることとなった.天然フェロモンの逆の鏡像体が天然フェロモンの活性を阻害する場合があるので,上記のような検討が実用化の前に必須となる.

おわりに

フェロモンは害虫防除に実用化されている.実用化には経済的優位性がなくてはならない.それだからフェロモンを販売している企業では安価にフェロモン原体を調達することがきわめて重要となる.調達先がわが国だろうが中国やインドだろうが,安価で高純度なフェロモンを作る現場には,必ず合成化学の専門家がいて自分の仕事を忠実にやっているのだ.合成化学者はフェロモンに限らず社会基盤の構築に必須な材料化合物を供給する縁の下の力持ちである.

Acknowledgments

図の作製を手伝ってくださった東京大学の滝川浩郷教授に感謝する.

Reference

1) E. Hecker & A. Butenandt: Bombykol Revisited Reflections on a pioneering period and some of its consequences, In “Techniques in Pheromone Research,” ed. by H.E. Hummel & T.A. Miller, Springer-Verlag, 1984, pp. 1–44.

2) 安藤香織:“アルケンの合成.どのように立体制御するか”,共立出版,2018.

3) K. Mori: Tetrahedron, 72, 6578 (2016).

4) K. Mori: The Synthesis of Insect Pheromones, In “The Total Synthesis of Natural Products, Vol. 4,” ed. by J. ApSimon, Wiley, 1981, p. 86.

5) K. Mori: Top. Curr. Chem., 239, 28 (2004).

6) 森 謙治:“有機化学II”養賢堂,”1988, pp. 329–330.

7) K. Mori: The Synthesis of Insect Pheromones, In “The Total Synthesis of Natural Products, Vol. 9,” ed. by J. ApSimon, Wiley, 1992, pp. 466–468.

8) K. Mori: Tetrahedron, 74, 1444 (2018).

9) H. Yasui, N. Fujiwara-Tsuji, T. Yasuda, M. Fukaya, S. Kiriyama, A. Nakano, T. Watanabe & K. Mori, Appl. Entomol. Zool. (2019).