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野菜に含まれる硝酸塩は毒か薬か?還元的NO合成経路の研究小史

Hideo Yamasaki

山崎 秀雄

琉球大学理学部海洋自然科学科

Published: 2019-11-01

・野菜の硝酸塩毒性

がん(悪性新生物)・心疾患・脳血管疾患は三大疾患と呼ばれ,今や日本人の疾病による死亡原因のワースト3に数えられている.これら三大疾患の発症は,食生活習慣の影響が大きいことから,日頃からの緑黄色野菜の摂取が推奨されている.ところが一方で,「野菜を食べすぎると,がんや病気になる」との記述や解説が見られることがある.この「野菜毒性説」の容疑者とされているのは,葉野菜に多く含まれている硝酸態窒素(硝酸塩)である.

硝酸塩(NO3)は,植物の窒素同化作用に必要不可欠な無機窒素化合物(栄養塩,無機養分)である.ヒトに対する硝酸塩毒性が疑われるようになったのは,小児科医のComlyが報告した1945年の論文が契機とされている(1)1) 山崎秀雄,渡邊なお子:血管,37,107(2014)..メトヘモグロビン血症は,皮膚や粘膜が青紫色になるチアノーゼが特徴的で,乳児では全身が青くなることからブルー・ベビー症候群として知られている.1940年代当時,メトヘモグロビン血症による乳幼児の死亡率は高く,発症原因は不明であった.Comlyは,井戸水への窒素肥料混入が原因であり,汚染水を使って調理されたミルクによってメトヘモグロビン血症を発症したと考えた(1)1) 山崎秀雄,渡邊なお子:血管,37,107(2014)..その後,北米やヨーロッパでも同様の発症事例が次々に報告されるようになり,硝酸塩毒性に対する社会的不安が拡大していった.1970年代には,亜硝酸塩(NO2)とアミン類との反応によって強い発がん性を有するニトロソアミン類が生成されることが報告され,硝酸塩および亜硝酸塩摂取による健康被害がますます憂慮される事態に至った.硝酸塩および亜硝酸塩は,ヒトにとって不必要な成分だと考えられていたため,無機窒素化合物の生体毒性だけがクローズアップされることになったのである.その結果,米国では1995年に摂取量の上限値が示され,EUでは規制値を基に1997年から野菜の流通制限が行われるようになった.国内では,規制基準値の設定は行っていないものの,安全・安心を求める消費者ニーズを受けて,硝酸塩含量が低い野菜類の開発が行われている(2)2) 農林水産省:食品安全に関するリスクプロファイルシート,http://www.maff.go.jp/j/syouan/seisaku/risk_analysis/priority/pdf/151202_nitrate.pdf, 2015..最近になって,歴史的に忌み嫌われてる硝酸塩・亜硝酸塩が,実は三大疾病および生活習慣病の予防に貢献している「影の立役者」であることが明らかになってきた.

・アルギニン依存性のNO合成機構の解明

ヒトの硝酸塩代謝に関する研究は,今から100年以上前に米国で行われたMitchellの実験に遡ることができる(1)1) 山崎秀雄,渡邊なお子:血管,37,107(2014)..硝酸塩欠乏食を長期摂取しても尿中の硝酸塩が消失しなかったことから,Mitchellは「硝酸塩は生体中で生成される」との結論に至った.彼の先駆的な研究の意義が理解されるようになったのは,それから半世紀以上後のことである.感染症患者の尿中からは高濃度の硝酸塩が検出される.1980年代に入って,白血球の一種であるマクロファージが硝酸塩の生成源であることが特定され,硝酸塩の起源がアミノ酸のアルギニンであることが判明した.さらに,アルギニンから一酸化窒素(NO)が合成されることが突き止められたことにより,アルギニンからNOを経て亜硝酸塩,硝酸塩へと酸化される経路が明らかになった.

1980年にFurchgottらは,血管を弛緩させる物質が血管内皮細胞から放出されていることを発見し,血管内皮由来弛緩因子(EDRF)と名づけた.1987年には,IgnarroとMoncadaらのグループが各々独立に,EDRFの正体がNOであることを報告した.Muradらのグアニル酸シクラーゼおよびcGMP信号伝達系の研究,各種NO合成酵素(NOS)の研究が統合され,血管平滑筋の弛緩メカニズムの概要が明らかになったのである.これらのさまざまな研究課題が一つに結実し,Furchgott, Murad, Ignarroの3名に1998年のノーベル生理学・医学賞が授与された.

血管平滑筋弛緩に関与するNO合成は内皮細胞に存在する内皮型NOS(eNOS)によって行われる.このほかにも,感染応答に関与する誘導型NOS(iNOS)や,細胞間情報伝達を担う神経型NOS(nNOS)が特定され,NOが極めて多様な生理機能を担っていることが明らかになった(1, 3)1) 山崎秀雄,渡邊なお子:血管,37,107(2014).3) D. Bender & G. Schwarz: FEBS Lett., 592, 2126 (2018)..世界初の陰茎勃起不全(ED)治療薬として知られ,現在は肺動脈性肺高血圧症の治療薬としても使用されているバイアグラ(シルデナフィル)は,上記NO研究の副産物として特に有名である.哺乳類で見いだされたNOSは,その後,さまざまな生物で同定され,動物界におけるNO合成機構の普遍性が明らかになった.ヒトの血清では,硝酸塩が40 µM,亜硝酸塩が0.3 µM程度検出される(3)3) D. Bender & G. Schwarz: FEBS Lett., 592, 2126 (2018)..尿や血液に含まれている硝酸塩および亜硝酸塩は,生体内で合成されたNOの痕跡(酸化生成物)であるとの認識が医科学研究者に広まっていった(図1図1■二つのNO合成経路).

図1■二つのNO合成経路

野菜に含まれる硝酸塩は,口腔内および消化管の常在細菌によって亜硝酸塩に変換される.その後,さまざまな酵素・非酵素反応によってNOに還元され,多様な生理作用を示す1, 3, 8)1) 山崎秀雄,渡邊なお子:血管,37,107(2014).3) D. Bender & G. Schwarz: FEBS Lett., 592, 2126 (2018).8) 山崎秀雄:化学と生物,39,780(2001)..酸化的経路と還元的経路の大きな違いは,関与する酵素の多様性と酸素(O2)の要求性である.虚血状態(低酸素・無酸素状態)でも還元経路ではNOを合成し血管拡張を行うことができる.

・植物NO研究の混乱

NOは,公害ガス(NOx)として知られていたガス状ラジカル分子で,最初に特定されたガス状伝達物質(gasotransmitter)である.後に,一酸化炭素(CO)や硫化水素(H2S)も同様の機能をもつことが明らかになった(4)4) H. Yamasaki & M. F. Cohen: Nitric Oxide, 55–56, 91 (2016)..有毒ガスと思われていた分子が生体内で酵素的に合成され,血圧制御,平滑筋弛緩,感染応答,記憶などのさまざまな生理機能を担っている.これまでの常識を根底から覆したNO研究は,1990年代の生命科学に大きなパラダイムシフトを巻き起こした.植物(野菜)も,哺乳類と同様にNOSが感染応答に関与している可能性が,1998年のNature誌およびPNAS誌に報告され,NOに対する植物研究者の関心が一気に高まった.当時,各種モデル生物のゲノム解読プロジェクトが進行しており,植物には哺乳類型NOSホモログは存在しないことが程なくして判明した.その後も,植物NOSの探索競争は激化し,Science誌,Cell誌,PNAS誌などの有力誌に植物固有のNOS(植物iNOSおよびAtNOS1)があることが報告された.最有力候補の一つと見られていた植物iNOS論文にデータ捏造疑惑が生じ,著者による出版論文の全文撤回というスキャンダルにまで至ってしまった(5)5) J. Travis: Science, 306, 960 (2004)..植物iNOSショックが冷めやらない2006年,英国Royal Agricultural Collegeで開催されたHarden/EMBO合同国際会議“The biological diversity of nitric oxide metabolism and signaling”においてさらなる衝撃が走った(図2図2■Joint 62nd Harden conference/EMBO workshop (2006)).AtNOS1を発見したCrawfordが,「AtNOS1にはNO合成酵素活性が見られない」と耳を疑うような内容の口頭発表を行った.植物iNOSと同様に,AtNOS1にも研究不正の疑惑が浮上してしまったのである.最近,Science誌(6)6) K. Kupferschmidt: Science, 361, 636 (2018).およびNature誌(7)7) H. Else: Nature, 570, 287 (2019).で,生命科学分野における研究不正の現状が報告された.研究不正の社会に与える影響は大きく,時には科学研究自体の進歩を妨げてしまう.残念ながら,植物NO研究は,その例として歴史に刻まれることになってしまった.なお,過去20年間に,植物NOSの存在を支持する証明は得られておらず,該当関連論文は撤回宣言がされないまま現在に至っている.