セミナー室

昆虫のフェロモン1-2その農業利用と新しいフェロモンカテゴリ

Jun Tabata

田端

農業・食品産業技術総合研究機構

Mamoru Takata

高田

京都大学大学院農学研究科

Yuki Mitaka

三高 雄希

京都工芸繊維大学生物資源フィールド科学研究部門

Published: 2019-11-01

はじめに

フェロモンは,同種他個体の行動や生理に変化を引き起こす物質の総称で,これまで昆虫をはじめ,動物や微生物などさまざまな生物種から報告されている.フェロモン研究は,単にフェロモンの化学構造を解き明かすことにとどまらず,その生物学的意義の理解,生合成や受容メカニズムの解明,生物進化におけるフェロモンの役割,農業現場での実用化など多岐にわたる.もちろん,前回のとおりフェロモン研究に化学合成が果たす役割も大きく,まさに“化学と生物”そのものであろう.なかでも昆虫のフェロモン研究は,化学生態学の中心的なテーマであり,その発展を担ってきた.本稿でも,昆虫フェロモンに焦点を絞り,前回の化学合成とは異なる視点からその現状と将来を考えたい.昆虫フェロモン研究は,化学コミュニケーションから昆虫の生活史を理解することにとどまらず,害虫防除の観点から世界中で精力的に研究が進められている.農業害虫を多く含むガ類では実用化されているフェロモンを含め,特に研究が盛んで,円熟期を迎えているといってよいだろう.一方,われわれがまだ知らないだけで,昆虫の生活史においてフェロモンが介在すると考えられる現象は存在し,今後も新しい昆虫フェロモン研究が発展する余地は十分にあると考えられる.そういった観点から,本稿では,昆虫フェロモンの農業利用とこれまでの分類にあてはまらない新しいタイプのフェロモンの発見について概説する.

植物保護における昆虫フェロモン利用のこれまでとこれから~スマート時代の総合的害虫管理に向けて~(田端 純)

昆虫のフェロモンの多くは非常に強力な活性をもつので,害虫による食害から農作物や森林資源などを守るためにこれを活用しようとする発想はごく自然なものだろう.過去60年以上にわたって数多くの研究が展開され,ガ類を中心とした主要な害虫のフェロモンの化学構造はおおむね解明された(1)1) 桐谷圭治,鎮西康雄,福山研二,五箇公一,石橋信義,国見裕久,久野英二,正木進三,松村正哉,守屋成一ほか:日本応用動物昆虫学会誌,55, 95(2011)..一方で,これらの天然化合物を応用した植物保護技術の開発・普及はそれほど進んでいないと言わざるを得ない.本稿では,植物保護における昆虫フェロモンの利用価値やその特性を紹介するとともに,これから必要とされる研究や技術開発について考えてみたい.なお,昆虫にはさまざまな機能のフェロモンが存在することが知られているが,ここでは性誘引フェロモンに焦点を絞って議論する.性誘引フェロモンは,離れた場所から異性個体を誘き寄せ,配偶活動のトリガーとして機能するため,繁殖に直接関与する重要な代謝産物である(図1図1■合成したフェロモンを含浸させたゴムキャップに反応するハマキガのオス).そのため,害虫防除資材としてのポテンシャルが高く,実際に昆虫フェロモンの活用事例の大半を占める.以下では,性誘引フェロモンを単にフェロモンと表記して筆を進めるが,ほかの機能をもつフェロモンにも実用性の高いものが含まれることを付記しておく.

図1■合成したフェロモンを含浸させたゴムキャップに反応するハマキガのオス

1. 植物保護におけるフェロモンの利用価値

昆虫のフェロモンの最も重要な特徴の一つは,その高い種特異性であろう.フェロモンは,同種の異性同士の出会いを促すと同時に,近縁他種に対しては逆の作用を発揮しなければならない.そのため,フェロモンには強い選択圧が働いており,種間差が助長され,化学信号として驚くほど多様化している.この特徴ゆえに,フェロモンベースの資材は原則として対象の害虫だけを標的にすることが可能で,ミツバチなどの送粉者やテントウムシなどの天敵に代表される有用生物への影響を懸念する必要がない.当然,人畜魚毒性も無視できるので,環境調和型の農業を実践するうえで,重要なツールとなりうる.フェロモンは昆虫自身が生産し,繁殖に必要不可欠な物質なので,これを感知しない個体が出現する可能性は低く,化学合成農薬で問題となる抵抗性が生じにくいと考えられることも,フェロモンを活用した資材のメリットと言える.

フェロモンの植物保護における利用方法として最もイメージしやすいのは,トラップと組み合わせた対象害虫の誘引・捕殺であろう.フェロモントラップには,主として2つの用途が考えられる.一つ目は,現時点での害虫の発生状況を把握するとともに,その情報に基づいて将来的な発生を予測する「発生予察」用の資材としての活用である(2)2) L. J. Gut, L. L. Stelinski, D. R. Thomson & J. R. Miller: “Integrated Pest Management—Potential, Constraints and Challenges,” eds. by O. Koul, G. S. Dhaliwal & G. W. Cuperus, CABI Publishing, 2004, pp. 73–122..発生予察を実施し,害虫の発生状況に応じた対策を講じれば,無駄なコストを省いて,効果的に害虫防除を行うことができる.フェロモントラップは,ほかの昆虫捕獲方法と比べ,1)誘引性が強く,対象種だけを狙って捕獲できる,2)電源などは不要で,容易に取り扱うことができる,3)誰でも客観的かつ定量的に調査を行うことができる,などの利点がある.そのため,植物保護に間接的に貢献する有用な資材である.なお,発生予察用のフェロモンは,直接害虫を防除するものではないため,農薬取締法が定める農薬には該当せず,登録の必要もない.

フェロモントラップのもう一つの用途は,大量に対象害虫を誘引・捕殺し,その個体群の増加を直接的に抑制するものである(2)2) L. J. Gut, L. L. Stelinski, D. R. Thomson & J. R. Miller: “Integrated Pest Management—Potential, Constraints and Challenges,” eds. by O. Koul, G. S. Dhaliwal & G. W. Cuperus, CABI Publishing, 2004, pp. 73–122..この手法は大量誘殺と呼ばれ,いくつかの害虫種に対して効果が確認されている.たとえば,さまざまな作物を加害する重要なガ類害虫であるハスモンヨトウに対しては,そのフェロモンを構成する酢酸(Z,E)-9,11-テトラデカジエニルと酢酸(Z,E)-9,12-テトラデカジエニルを有効成分とした製剤が農薬登録されており(3)3) 日本植物防疫協会:“生物農薬・フェロモンガイドブック”,日本植物防疫協会,2014.,トラップと組み合わせることで大量誘殺を実施することができる.また,南西諸島などのサツマイモ害虫として知られるアリモドキゾウムシでは,フェロモン成分であるクロトン酸(Z)-3-ドデセニルと,殺虫成分であるフェニトロチオンの混合物を含侵させたファイバーボードが誘殺に利用されている(3)3) 日本植物防疫協会:“生物農薬・フェロモンガイドブック”,日本植物防疫協会,2014..この場合,ボードに誘引された個体は殺虫成分と接触することにより死に至るため,トラップを設置する必要がなく,広範囲に処理することが可能である.しかし,実際には大量誘殺による害虫防除はそれほど簡単ではなく,ごく限られた種で適用されているに過ぎない.多くの場合,フェロモンはオス成虫だけを誘引するので,メス成虫との交尾確率を下げることによって防除効果が発生する.だが,オス成虫は複数回交尾できることも多いため,十分な防除効果を上げるには相当強力なフェロモン源をいくつも設置しなければならないことは自明であろう.現在,国内で利用できる誘殺を目的とした農薬は,前述の事例も含めて,わずか5製剤しか登録されていない(3)3) 日本植物防疫協会:“生物農薬・フェロモンガイドブック”,日本植物防疫協会,2014.

害虫を大量に誘引・捕殺しなくても,高濃度のフェロモン処理によって害虫の異性間情報交信と交尾行動を撹乱し,その繁殖を抑制できることが知られている.この方法は交信撹乱法と呼ばれ(4)4) J. R. Miller & L. J. Gut: Environ. Entomol., 44, 427 (2015).,現在のところ,最も主要なフェロモンの利用法である.交信撹乱用の製剤は,多くの場合,発生予察や大量誘殺に使用される製剤よりもはるかに大量の合成フェロモンを含むが(3)3) 日本植物防疫協会:“生物農薬・フェロモンガイドブック”,日本植物防疫協会,2014.,トラップなどの追加デバイスは必要なく,定められた用法用量にしたがって均一に製剤を処理すれば効果が期待できるので,比較的容易に使える資材と言える.交信撹乱用のフェロモン製剤には,さまざまな形態のものが開発されているが,国内で流通している製剤の多くは中空の細長いチューブにフェロモンを封入したものである.ほとんどの場合,害虫が発生する前に圃場に設置すれば,シーズン終了まで交換の必要がないことも実用上のメリットであろう(図2図2■交信攪乱用の合成フェロモンを封入したチューブ).交信撹乱の効果は圃場スケールで発揮されるため,その作用機構を実験的に明らかにした研究例は少ないが,製剤が対象の害虫を誘引し,本来のフェロモン源(交尾相手)と競合することで配偶行動のコストを増大させる効果や,誘引せずとも高濃度のフェロモンに曝露することで正常な化学情報処理・応答行動を阻害する効果などが作用していると考えられている.一般に短命な昆虫にとって,僅かに交尾のタイミングがずれるだけでも繁殖に致命的な影響が生じうる(5)5) J. Tabata & M. Teshiba: Biol. Lett., 14, 20180262 (2018)..国内に限定しても,ガ類を中心に20種以上の害虫に対して交信撹乱用フェロモン製剤が利用できる(3)3) 日本植物防疫協会:“生物農薬・フェロモンガイドブック”,日本植物防疫協会,2014.