巻頭言

農芸化学とAgricultural Chemistry

Hisashi Miyagawa

宮川

京都大学大学院農学研究科応用生命科学専攻

Published: 2019-12-01

勤務する大学が新しい学部向け留学プログラムを始めた関係でアジアの高校生に説明に出かける機会が増えた.とある国でのこと.相談コーナーに「大学で化学を勉強したいのだけれど,理学部と工学部とどちらがいいでしょうか?」と尋ねてくる高校生がいた.「化学のどの部分に興味があるのかにもよるけれど,農学部でも化学が学べるよ,Agricultural Chemistry」と説明すると,「Agriculture?」と怪訝な表情をする.先端科学にあこがれるアジアの気鋭の若者にとって農業は魅力的ではないらしい.「農学部と言っても,実際には生命や環境を研究対象としているんだよ.たとえばうちのApplied Life Science(応用生命科学の英訳)は化学を学ぶ学科だよ」などと説明しても,字面からは化学を学ぶところのように見えないので「ああそうですか」とちょっと不満げな様子.彼らにとって高校で興味をもった化学はいわゆる「純正化学」なので農業と化学という組み合わせは正統な化学としてすぐにはイメージできないのかもしれない.また農業と化学と聞いて,化学肥料や合成農薬のことを思い浮かべ,ネガティブなイメージをもってしまう高校生もいるのだろう.実際,日本でも同じような事情で多くの大学から「農芸化学」の名前が消えていったという歴史がある.

説明会でAgricultural Chemistryという学問があると聞いた高校生が,もう少し調べてみようとググってみたとしよう.まず出てくるのはやはりウィキペディアの項である.「Agricultural Chemistryは農業生産,生産物の食品への加工,環境モニターや修復にとって重要な化学と生化学である(筆者訳)」という定義で始まり,「Sciences」の節を読み進んでいくと,「農業の発展に貢献するすべての科学は何らかの形で化学に依存する,したがってAgricultural Chemistryとはある特定の学問分野を指すのではなく,遺伝学,生理学,微生物学,昆虫学などの農業につながるさまざまな科学を結ぶ共通の糸である」と書かれている.調べた高校生はこれを読んでどう思うだろう.なんとなくとりとめのない印象を受けるのではないだろうか.

学会のHPによれば,Agricultural Chemistryは明治の初めに日本に入ってきて,農業化学,農用化学などと訳された.しかし化学を農業生産に限らず幅広く応用する学問として,技術・芸術を意味する「芸」の文字を使うことにより,匠を愛でる気分や日本独特の自然観が溶け込み,その奥深さに魅了された多くの先達がすぐれた成果をあげた結果,化学と生物に関する基礎から応用までを幅広く研究するわが国有数の学問分野「農芸化学」が発展した.ウィキペディアが言うように,特定の学問というより,化学と生物を結びつける糸がさまざまに織りなす美しさを味わう一種の「精神」に近いと言ってよい.しかし今,農芸化学を海外向けに単にAgricultural Chemistryと訳すと,この「芸」に込められた気持ちが伝わらない.言われた相手方にとってはやはり「農業化学」だ.特定の学問ではなくもっと奥の深い精神のようなものだと言われてもとまどうことだろう.

もともと海外から入ってきたものが,日本で独自に発展を遂げたものは多い.ワールドカップで注目されるようになったラグビーの「ノーサイドの精神」もその一つだそうだ.「農芸化学の精神」もたぶんにそのような要素を含んでいるように思われる.これから農芸化学を海外に発信していくにあたっては,その独特の発展を支えた日本の「農芸化学精神」を理解してもらう注意と工夫が必要だ.とりあえず英語訳をAgro-artistic Chemistryとしてみては?(笑)