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ハイドロゲルの船底防汚塗膜への応用含水樹脂塗膜の使用による航行燃費の低減化

Yoji Hirasawa

平沢 洋治

株式会社エステン化学研究所

Published: 2020-08-01

船舶の船底にはフジツボなどの海棲生物や海藻類などの植物が付着する.付着すると航行時の大きな抵抗となりスムースな航行ができなくなる.このため船底には海水中の動植物の付着を防止するため,“船底防汚塗料”が塗布されている(1)1) 北野克和:化学と生物,57, p. 352 (2019)..現在市場で使用されている船底防汚塗料には,防汚剤(一般的には亜酸化銅)が含有している.船底防汚塗料の塗膜は,海水中で表面より少しずつ溶解し,亜酸化銅が海面に露出する.海面に露出した亜酸化銅は海水に溶けて銅イオンを生成し,防汚性を発現する.この塗膜を溶解させて亜酸化銅を海面に露出させて防汚剤イオン(銅イオン)を生成,防汚性を発現する方法は画期的で数年間にわたり動植物の付着がない.一方で,昨今の石油価格の上昇や排出する炭酸ガスの低減化のため,船底塗料には防汚性に加えて低燃費航行を可能にする塗膜が求められている.このため市場では凹凸の少ない塗膜開発,すなわち表面を滑らかにする塗膜開発が主に検討されている.しかしながら,航行時の抵抗は塗膜界面で生じる“乱流”が原因であることが解明(2)2) 笠木信英編:“乱流工学ハンドブック”,朝倉書店,2009, p. 402–447.されており,凹凸の少ない塗膜では自ずと限界があることが理論的に指摘されている.そこで着目されているのがハイドロゲル塗膜である.ハイドロゲル塗膜は摩擦を低減できること,また,適当な防汚剤を含有させれば防汚効果が得られること,さらには塗料の水性化が可能であり,まさに船底防汚塗料として利用するには理想の素材である.塗料の水性化については,大気汚染を防ぐ目的で20世紀後半より検討され多くの塗料分野で成功しているが,船底塗料の市場ではいまだに成功していない.ハイドロゲル塗膜は水・アルコール系を溶剤として形成されることから,船底防汚塗料分野に水性化をもたらすことが期待される.本稿では,筆者らがこれまでに行ったハイドロゲルを塗膜として利用する船底防汚塗料開発について紹介する.

ハイドロゲルは水には溶けない高分子化合物であって水を含んで膨潤した状態の物体(3)3) 山内愛造:“有機高分子ゲル”,学会出版センター,1990, p. 3.であり,幅広い機能を有している.ハイドロゲルの大きな機能の一つとして海水中で水との摩擦抵抗を低減できることが挙げられる.これは,ハイドロゲル塗膜の表面に物理的に結合(水素結合)している“水の層”があり,摩擦抵抗を低減する潤滑の作用をするといわれている(4)4) P. G. Jian et al.: Soft Matter, 10, 5589 (2014)..マグロ,イルカなどが高速で泳げるのは,体表面にハイドロゲルを有しているからと考えられている.これまでに筆者らが行った検討において,ハイドロゲルの摩擦抵抗は,塗膜の膨潤度(含水率)と相関性のあることが見いだされている.具体的には,膨潤度50%の塗膜であれば膨潤していない塗膜よりも摩擦抵抗が17%減少することを明らかにしている.今後ハイドロゲルの改良によって,膨潤度を現行の50から70%まで高められればおよそ25%の摩擦抵抗が低減できる(最大時速80 kmで遊泳するマグロの体表面は膨潤度60%のハイドロゲルである).摩擦抵抗の低減は航行燃費の低減になり,燃費の低減は船主さんにとってコスト面で助かるだけでなく,排出される炭酸ガス量も大幅に減少するため大気汚染の改善に貢献することも期待される.なお,具体的なコスト削減効果については,過去の本誌を参照していただきたい(1)1) 北野克和:化学と生物,57, p. 352 (2019).

次に,ハイドロゲルの防汚性発現について説明する.前述のように現在市場にある船底防汚塗料は,塗膜が溶解することによって防汚性が発現する.それに対して,ハイドロゲル塗膜は,海水中で膨潤するが溶解しない.このため,現行の塗膜と違い亜酸化銅は海面に露出しない.それでは,どのようにしてハイドロゲル塗膜の防汚性は発現するのか.ハイドロゲルの防汚性発現の理由として図1図1■ハイドロゲル塗膜の付着防汚メカニズムに示すような防汚機構を考えている.図1図1■ハイドロゲル塗膜の付着防汚メカニズムに一般的な船底防汚塗料の塗膜(以後市場塗膜と呼ぶ),およびハイドロゲル塗膜の防汚メカニズムを示した.市場塗膜は,海水中で塗膜を表面から少しずつ溶解し,亜酸化銅粒子を海水に露出する(図1図1■ハイドロゲル塗膜の付着防汚メカニズム:左側).海水に露出した亜酸化銅は微量に溶解して銅イオンを生成し,防汚性を発揮する.それに対して,ハイドロゲルは海水中で溶解しないが,含水して膨潤する.膨潤塗膜内で亜酸化銅が溶解して銅イオンを生成する(図1図1■ハイドロゲル塗膜の付着防汚メカニズム:右側).生成した銅イオンは界面に移動して,海水中に放出,防汚性を発現する.なお,これまでの実海水浸漬試験の検討から1年以上の防汚性が確認されている.したがって,塗膜を溶解することなく,亜酸化銅が海面に露出しなくとも防汚性を発現することが立証されている.塗膜を海水中に溶解しないことも環境汚染の観点から非常に重要な事項である.

図1■ハイドロゲル塗膜の付着防汚メカニズム

(左)市場塗膜はその表面が溶解して海水中で溶解層(スケルトン層)が生成し,溶解した銅イオンが溶出し付着を防汚する.(右)ハイドロゲル塗膜は海水中で溶解せず,膨潤した塗膜中で銅イオンを生成し,海面に移動して海水中に溶出し付着を防汚する.

一方,船底塗膜として実用化するための大きな課題として,常温で乾燥・硬化する技術開発が挙げられる.キシレンを溶剤とした市場塗膜は,溶剤が乾燥することによって塗膜が形成される.それに対してハイドロゲル塗膜は,塗布時に硬化して塗膜が形成される.この硬化に関しては,空気中の酸素を触媒として硬化する技術が筆者らによって開発されている.なお,これまでの実験室内における検討の結果では,硬化により形成された塗膜の乾燥(水・アルコール系溶媒)は,数時間程度で完了することが観察されている.

以上述べたように,ハイドロゲル塗膜は船底防汚塗料にイノベーションを起こすことが期待される.実際に船底防汚塗料として利用されるには,長期にわたる耐水物性(塗膜の基材からの剥がれやワレおよびフクレなど塗膜の損傷がないこと)や耐摩耗性(耐擦り傷性など)などの力学的強度を有することが必要とされている.一方,防汚剤として用いられている亜酸化銅は,毒性が強く,海洋汚染の原因となっている.そのため,毒性の低い防汚剤(イソニトリル化合物など)(1)1) 北野克和:化学と生物,57, p. 352 (2019).への代替も求められている.筆者らの検討では,イソニトリル化合物をハイドロゲル塗膜に混合すると,亜酸化銅混合時に比べて膨潤度が高くなり海水との摩擦抵抗がより小さくなることが示されている.今後の検討により,近い将来ハイドロゲル塗膜が船底防汚塗膜の主流になり,低炭素化社会実現に大きく貢献すること期待される.

Reference

1) 北野克和:化学と生物,57, p. 352 (2019).

2) 笠木信英編:“乱流工学ハンドブック”,朝倉書店,2009, p. 402–447.

3) 山内愛造:“有機高分子ゲル”,学会出版センター,1990, p. 3.

4) P. G. Jian et al.: Soft Matter, 10, 5589 (2014).