Kagaku to Seibutsu 59(4): 201-208 (2021)
トップランナーに聞く
サントリーウエルネス株式会社取締役専務執行役員/健康科学研究所長 柴田浩志 氏
Published: 2021-04-01
サントリーウエルネス株式会社は,ウイスキーを始めとする酒類や飲料のトップメーカーであるサントリーホールディングス株式会社の傘下にあり,健康機能性素材や機能性食品の開発などで健康分野の市場を牽引する企業です.今回は,京都府相楽郡精華町にあるサントリーワールドリサーチセンター内の健康科研究所の柴田浩志所長を訪ね,ご自身のご経験に加えて,サントリーでの研究開発の内容や,学会への提言,学生へのメッセージなどをお話いただきました.(新しい研究所を訪問したかったのですが,実際は新型コロナ感染拡大の影響によりリモートでのインタビューになったのが残念でした)
(取材日:2020年12月4日.所属・役職は当時のもの)
© 2021 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2021 公益社団法人日本農芸化学会
—— 最初にご自身の経歴をお願いいたします.
柴田 サントリーウエルネス取締役専務執行役員兼健康科学研究所の所長,また,全社のR&Dにかかわるサントリーホールディングスのフェローという役割を担っています.
私は奈良県出身で,今の新しい研究所のすぐ近くで大学までずっと過ごしていました.1987年,大阪大学大学院理学研究科博士後期課程を修了(理学博士取得)後,サントリーに入社して30年以上経過しました.実は2020年3月の農芸化学会で学会に参加している学生向けに話をする予定でしたが,中止になってしまいました.「想像すれば“夢”は必ず実現する」を信条として,常に夢をもってお客さまに感動と喜びを与えることを考えながら研究開発をしております.
—— 若い頃はどのような研究をされていましたでしょうか.
柴田 私がサントリーに入社した年に基礎研究所ができました.これが健康科学研究所の前身となります.当時の基礎研究所では,健康分野の研究をはじめ,「青いバラ」に代表される花の研究,お酒や飲料の美味しさの研究,微生物による発酵の研究等,数多くの基礎研究が活発に行われていました.そのころから,21世紀には必ず心と健康の時代がやって来るという長期ビジョンがあり,21世紀のサントリーはどうあるべきかという議論が数年前からなされていて,まさに今のサントリーウエルネスの事業につながる健康機能性素材の探索研究がここからスタートしました.
たとえば,私は甜茶に関する研究テーマを与えられました.このころの甜茶は,中国にしか自生していないまだ門外不出の薬用植物でした.この研究のために,わずか入社3年目の1989年に上海経由であの有名な桂林まで飛行機で飛び,そこから汽車に乗り,7時間かけて中国南西端に位置するベトナムとの国境付近の南寧にある現地の研究所に向かいました.段ボールに詰め込んだ数10 kgにも及ぶ研究資材を自ら持ち込み,甜茶の商品開発をすることを夢見て現地研究員にHPLC分析の指導をしたり,日夜得られたデータの議論をしていました.今振り返ると結構無茶なことやってましたね.
その後も天然素材の探索をしていたのですが,1992年には部署ごと医薬事業の研究所に移り,医薬品の探索研究に従事しました.そこでは,医薬品開発の候補となるリード化合物をいくつか見つけることができました.7年半後の2000年には再び基礎研究所に戻って,それ以降は基本的には特定保健用食品や健康食品に関する研究開発を行い(途中約3年間,品質部門を担当する),2018年より今の立場に至っております.2001年に基礎研究所から発展的に健康科学研究所ができたときには,すでに「セサミンE」というサプリメント商品はありましたが,ダイレクトマーケティングへのビジネスモデルの転換に伴い,R&D部門とマーケティング部門が一体になってウエルネス事業を一気に加速させていきました.
—— 最近,精華町に研究所が統合されたところですが,それまでは山崎の方におられたのでしょうか.
柴田 ウイスキーでよく知られているサントリー山崎蒸溜所のすぐ近くにあった大阪府三島郡島本町水無瀬の研究所にいましたが,2015年にけいはんな学研都市にある今のサントリーワールドリサーチセンターにサントリーのすべての研究拠点が結集することになりました.
—— そういう形で移られて,やっぱりみんな集まってやったほうがいいというメリットは出てきたんでしょうか.
柴田 そうですね.それまでは研究拠点が3つに分散されていたのですが,研究拠点が一つになったことによって知の交流,タイムリーな意見交換ができるようになりました.いろいろな分野の研究をしている人間がいるので,刺激を受けあい,研究が活性化されています.
サントリーワールドリサーチセンターには,健康食品や化粧品等の研究開発を行っているサントリーウエルネス(株)健康科学研究所,新しい素材の探索や基盤技術を研究し,イノベーションを起こして事業の新しい価値を創出するサントリーグローバルイノベーションセンター(株),最先端の評価技術によって製品の安全性を保証するサントリーMONOZUKURIエキスパート(株)安全性科学センター,生命科学の学術的な研究を行っている公益財団法人サントリー生命科学財団の3つの会社と一つの財団が入居しています.
—— それでは今お話に出ていた部分はありますが,事業内容とか特徴にいついてお話しいただいてよろしいでしょうか.
柴田 サントリーグループにはお酒,飲料,健康食品,花等,多くの事業領域があり,企業理念としての「人と自然と響き合う」という使命のもとに,「水と生きる」という社会との約束の中で企業活動をしています.
サントリーウエルネスでは,「セサミンEX」が事業としてのフラッグシップ商品です.このサプリメントを中心とした健康食品,さらには「エファージュ(F.A.G.E.)」,「ビトアス(vitoas)」といったスキンケア化粧品を中心とした化粧品の事業を行っています.ビジネスモデルは他のサントリーグループと大きく違い,通販ビジネスというお客さまからのお電話や直接Webで商品をご購入頂くダイレクトマーケディングビジネスです.
企業理念は,「健やかに美しく.そして,心豊かな毎日へ.」.一人でも多くのお客さまのウエルネスを実現するというのがわれわれのミッションになります.大切にしていることは,お客さまとの絆.われわれが開発している商品を一人一人のお客さまへお届けし,お客さまに健康になっていただく,もっと大きな概念としてのウエルネスになっていただくために,お客さまとの絆を大切にし,お客さまには美感遊創という世界観を体感・感知していただきたいと考えています.美感遊創とは,生活の中で出会うさまざまな美しさに感動し,遊び心を失わず,豊かな毎日を自ら創造していくという生き方です.それを応援する伴走者がわれわれサントリーウエルネスなんです.その手段がサプリメントや化粧品ということで,すべてはお客さま起点での研究開発であり,サービスやコミュニケーションであると考えています.
そのなかで,健康科学研究所は2001年の設立以来一貫して「食と生活を通じて健康と美を支える」をビジョンとして掲げ,これからもそれは受け継いでいきたいと思います.
—— 柴田先生はどのような研究をされてこられたのでしょうか.
柴田 先ほどお話ししたように,入社後まもなくして甜茶の研究をはじめました.今では甜茶は花粉症に悩む多くの方々に役立つものとして知られていますが,当時の研究目的は,ノンカロリーの高甘味度甘味料の開発でした.甜茶は甘いお茶という意味があり,甜茶葉には低カロリー飲料等に配合されているステビアと同じジテルペン骨格をもったルブソシドという成分が多く含まれていることがわかっていました.このルブソシドを原料にして砂糖と同じ味質の高甘味度甘味料の開発ができれば,当時は肥満や虫歯が問題になっていた時代だったので,大きな事業貢献ができるのではないかと考えたのです.
しかし,目的とする方策は見つかったもののコストが見合わず,この研究はお蔵入りしてしまいました.ただ,努力したことに対する神様の恵みではないかと思えて仕方がないのですが,ちょうど90年代に入ると日本では花粉症が社会問題になってきました.今では日本の現代病のように言われていますが,実は甜茶の研究をしている中で,甜茶に含まれる特徴的なポリフェノール(GOD型タンニン)に抗アレルギー作用があることがわかってきて,その後の臨床研究でもよい結果が出たことから,甜茶が花粉症対策素材として一大ブームになりました.ある意味,失敗の中から新たな価値を生み出したというか,転んでもただでは起きないサントリー魂というか,そういうドラスティックな経験をすることができました.
また,サントリーでは1981年に缶入り烏龍茶を発売していますが,その当時から烏龍茶はなぜ健康によいのか? という研究を中国4000年の歴史を紐解きながら進めていました.90年代に入って,緑茶のカテキンに虫歯の予防効果があるということが学会で発表され,ならば半発酵の過程で複雑な化学反応により特有のポリフェノールが生成するウーロン茶ポリフェノールではどうか? ということで,大阪大学の歯学部の先生方と共同研究を進めた結果,ヒトでの虫歯予防効果やそのメカニズムを解明することができました.この研究成果をきっかけに,ウーロン茶ポリフェノールが原料化され,大手食品メーカーの板ガムのほぼすべてに「歯に安心.サンウーロン配合」というキャッチフレーズもつけて採用していただきました.そこで得た利益を他の基礎研究にどんどん投資することができたことは,特に今のわれわれの事業の根幹をなす「セサミン」の研究開発にとっても大きな追い風になりました.
その後,医薬事業から基礎研究所に戻り,2001年から健康科学研究所になってはじめた研究テーマの一つが「黒烏龍茶」の開発研究です.健康科学研究所では,健康食品の研究をする一方で,食品事業の機能性飲料開発に向けた研究も支援していました.
この「黒烏龍茶」の開発において重要な指針を与えたのが,先ほどの甜茶や烏龍茶の研究です.どちらもその機能性成分はポリフェノールであり,その作用は酵素阻害等のタンパク質との相互作用によるものでした.「烏龍茶で脂を流す」という中国の食文化や脂肪の体内吸収に消化管でのリパーゼの働きが重要だということを考えると,われわれが見いだした烏龍茶に特有のウーロン茶重合ポリフェノールに,食事由来の脂肪の吸収を抑制し,体外に排泄する作用が期待できるのではないかという仮説が浮かびあがりました.その仮説は見事的中し,ヒトでの検証を経て,トクホ「黒烏龍茶」が発売されることになります.
こういう研究を積み重ねていく中で,ポリフェノール研究がサントリーのコアサイエンスとして位置づけられるようになり,その後のトクホ「特茶」の開発においても,体内の余分な脂肪を分解するために,ホルモン感受性リパーゼに着目し,ケルセチン配糖体というポリフェノールでそれを解決することに成功しました.
基礎研究所から健康科学研究所初期のころは私自身このような研究を行っていましたが,今は所長として,セサミンをはじめ健康食品や化粧品の研究開発をトータルでマネジメントしています.
—— ありがとうございます.サントリーさんというとポリフェノールの分野に強いなというのを思っていたんですけれども,初期のころに烏龍茶とか甜茶というのにそれが含まれていて,それを発展させていったというところがやっぱり基礎研究が大事だなというのを感じました.
柴田 そうですね.そういう意味では,もともとわれわれはウイスキーやワイン,ビール,烏龍茶等で美味しさという価値をお客さまに提供してきたわけですが,実はその根底にある美味しさの品質維持は非常に大事で,この研究をしているなかでポリフェノールが一つのキーになっているということがわかっていました.ここで,品質維持を健康維持と置き換えれば,これらポリフェノールが実際に体の中でどう作用しているのだろうか? という疑問が湧いてきて,深く研究しているうちに抗酸化作用があるということがわかってきた.ならば,このようなポリフェノールに代表される自然の力をしっかりとサイエンスすれば,言い換えると,食の文化・歴史から食品素材の機能性を研究していけば独自の健康食品事業を立ち上げることができる,成長させていけるのではないかと考えました.セサミンも体の中で代謝されてポリフェノールの形になって作用することがわかってきました.
—— 研究で成果を出すのと,事業化という部分は全く次元が違うような感じがするのですが,そこをすごく上手に素材を見つけて,成分を見つけて,それを事業に展開していったというところがやっぱりトップランナーだという感想をもちました.
—— サントリーが大きく変わろうとしていたところに入社されてという話から始まったんですけれども,確かにお酒から始まって今すごくいろいろなヒット商品が出ていますよね.御社は,本当に先見の明があったんだなというのを感じますね.それで甜茶のポリフェノールからいろいろなことを展開された話がありましたけど,そのような展開はどのような過程を経て生まれるのでしょうか.私も研究者として自分がやっている研究をどう展開していこうかといつも考えるんですが,何かご教示いただけますか.
柴田 サントリーの歩みはまさに挑戦と創造の歴史の繰り返しそのものですが,無謀な挑戦では事業としては破綻してしまう.だけどそこに技術の革新があったり,新たな学びがあったり,それらをどのように組み合わせて展開していくかが重要ですね.そして,そのときにわれわれが必ず立ち戻る原点は,やっぱりお客さまを理解することだと思います.これからどの方向に市場が伸びていくのだろうか,今の社会課題は何なんだ,消費者は何に悩み,何を期待するようになるんだろう,と考えます.
また,企業なので差別化がポイントですね.自分たちの技術でそれらを解決することができないだろうかと深く考えるんです.そこのところのベースを固めたうえで研究開発をスタートさせます.技術の差別化では,われわれにはお酒で培った発酵技術があります.また,お酒を造るには元原料をしっかり厳選しなくてはいけません.原料品質は極めて重要です.それによって天然物を見極める力が育ちました.われわれがポリフェノールに着目して,将来の健康科学につなげようとした着想もそこからきています.
どんな研究成果をビジネスに生かすかではなく,ビジネスを持続的に成長させるためには企業の視点でどんな研究をすればよいのか.そこがたぶん発想の起点になっていると思います.そのために仮説を立ててはじめるのですが,仮説どおりにいかなければ素直にあきらめるということも大事です.仮説がうまくいったときにはさらに発展させようとしますし,さっきの甜茶じゃないですけれども,やっていくなかで違うところに着想をもっていて,本当のお客さまのニーズに研究戦略を転換する,そういうやり方で仕事をしてきたと思います.
—— 先ほど虫歯の話があって,ガムに,烏龍茶から虫歯に効果があるだろうというような成分を入れて,それで資金を得て,セサミンの研究に持っていったというようなお話があったかと思うんです.うまくいっている部分を使って,次のものを引き出すというのは,非常に発想が自由だし,思い切ったことをされているなというふうに思ったんですけども,社風としてやっぱりそういうものがずっとあったということなんでしょうか.
柴田 何か新しいことをはじめるとき,サントリーには心の支えとなる言葉があります.それが,「やってみなはれ」なんです.サントリーの創業の精神とも言える「やってみなはれ」の志,フィロソフィーを大切にしながらやってきました.
基礎研究所のときは,新しい事業,新しい価値を創るところだったので,烏龍茶の研究をしている研究者,私みたいに甜茶の研究,セサミンの研究をしている研究者も,みんな同じ大きなビジョンを共有するチームのようなものでした.サントリーに健康という新しい事業の柱を創るんだという想い,執念があって商品開発に結び付けることができました.
また,仲間として,セサミンってすごいなという憧れのようなものがありました.花の世界では青いバラがフラッグシップだったわけですが,健康食品事業を目指す研究者にとっての青いバラはセサミンだったわけです.セサミンは,研究をすればするほど面白くていろいろなデータが次々と出てくる.でも,1993年に発売しながらセサミンのよさがなかなか伝わらない.そのもどかしさはずっとありました.そのときに発想の転換で,そんなによいものだったら直接お客さまに伝える手段,すなわちこれまでサントリーがやったことのないダイレクトマーケティングに変えてみてはどうか.それによって少しずつ「セサミン」に対する理解が深まり,「セサミン」がよい商品だからこそお客さまに続けて飲んでいただける.そこから売上が,倍,倍,倍と伸びていきました.まさに最後まで諦めずに「やってみなはれ」を事業全体で体現してきた象徴的なことではないでしょうか.
—— 素晴らしいですね.
柴田 飲料のように,ヒット商品が出ても,次の年にはまた新しいヒット商品を出すというサイクルではなく,健康食品の場合は,お客さまの健康にために一度商品を出したらそれを提供し続ける.お客さまが必要とする限り,その商品を出し続けることが約束だと思っていて,そのためにも商品価値の進化に力を入れています.「セサミン」でいうと,実は蓄積された研究成果をもとに約10年おきにバリューアップしてきています.1993年発売以降,セサミンとの相性のよい素材を探し続け,2003年,2012年に新しく生まれ変わっています.今の「セサミンEX」には,ゴマのセサミン,大豆のビタミンE,さらに玄米成分等が配合されていますが,よくよく考えてみると,人類は今までの長い歴史の中でまさに体によい食材を取捨選択して生きながらえてきた.それが食の文化となり,われわれはただそれをサイエンスして,サプリメントという形でお客さまに提供しているだけとも言えるのではないでしょうか.
—— 成功例ばっかりじゃなくて失敗談的なものも伺っているんですけれども,何かそういったお話はございますか.
柴田 その意味ではさっき出てきた甜茶ですね.高甘味度甘味料の開発では,酵素の働きを利用してルブソシドを配糖体化し,砂糖と同等の味質で甘味度は砂糖の300倍以上という物質を作り出すことに成功したのですが,これはあくまでも実験室での結果で,事業的には全くコストが合わなかったということで失敗談的なものになると思います.ビジネスと研究というのは全然捉えるべき要素というか,ポイントが違うんだなということをまざまざと痛感しました.私は大学で博士課程まで行ったので,ある意味,基礎研究への理解はあるものの,その経験しかしてこなかったので,最初にそういう失敗に出会えたことが今の自分にはとっても良かったと思っています.
また,これは私の経験ではありませんが,実は失敗というよりも本当は事業創出の救世主と言った方がよいかもしれませんが,あのセサミンも実は実験の失敗から発見されました.基礎研究所設立時の重要テーマの一つ,サントリーの強みである微生物発酵技術を利用した機能性油脂の製造・開発の研究において,今の「オメガエイド」というサプリメントに配合しているアラキドン酸を大量に合成する微生物が発見されました.その生産性を上げる研究をしているときに,ゴマ油がそれを抑制することがわかり,研究としては失敗と決めつけていたところ,共同研究でご指導いただいている京都大学の清水 昌先生から,その原因を突き止めれば何かこれまでにない新しい発見に結びつくのではないか? と叱咤激励され,担当の研究者の熱意で,ゴマ油の中のセサミンという成分が微生物の脂質代謝に影響を与えていることを突き止めました.さらにこの知見をもとに,九州大学の菅野道廣先生との共同研究で栄養学的に検証していくと,セサミンにはさまざまな健康機能があることがわかってきました.まさにセレンディピティそのものだと思います.
さらに興味深いことには,このときはまだアラキドン酸も何に使えるのかわからない状況でしが,母乳に含まれる成分として乳幼児の栄養にも重要だというのがわかってきて,われわれが開発したアラキドン酸がベビーミルクに配合されるようになってきました.また,人生100年時代の超高齢社会において認知症に対する不安が大きくなっていますが,魚油のDHAとともにアラキドン酸は脳にも多く含まれ,それが認知機能の一部である注意機能の維持に有用ということで,「オメガエイド」は機能性表示食品として受理されています.
こうしてポリフェノールと必須脂肪酸がサントリーウエルネスの2つの大きな軸になっていったのですが,私が部長になったときに,将来の第3の柱を作ろうと取り組んだのが免疫の研究でした.ちょっと時代が早すぎたのかなと思うところがありますが,将来免疫が非常に大きな軸になると踏んで,乳酸菌の研究に着手し,京都のしば漬けの中からL. pentosus S-PT84株という株を選抜して早速商品を出しました.サプリメント形状でなく,食品形態に近い丸剤として噛んで食べられる商品に仕上げたのですが,全く売れませんでした.これは本当に大失敗でした.ウエルネスの事業ではほとんど終売というのがないのですが,数年でその商品はなくなってしまいました.
ただ,乳酸菌の研究はしっかりと続けていたので,その後,「プロディア」,「ラクテクト」,さらに乳酸菌も脂質代謝に作用することがわかってきて,直近では,いわゆるおなかの脂肪を減らす機能性表示食品として「ラクフィット」という商品を発売することができ,おかげさまでこのS-PT84株の一連の研究に対して,2019年度の関西支部技術賞をいただくことができました.
—— 冒頭にもありましたけれども,転んでも,ただでは起きないという.
柴田 そうですね.何でそれがうまくいかなかったのかとか,そこの本質をしっかりと見極めていると,ふと新しい社会課題とか,お客さまの悩みとかニーズに出会ったときに,あのときのあれが使えるかもしれないと気づけるのではと思っています.だから私は何でもすぐに失敗だとは思わないようにしています.
—— 私たちも一緒ですよね.実験がうまくいってなくても,そこから何か引き出す.何でうまくいかないのかというのを考えて,次の研究に結び付けるということですよね.
柴田 若いメンバーにもよく言うのですが,無謀に何も考えずに手技が悪くてうまくいかないのは失敗.でも,ちゃんと仮説を立ててきちっとやって,結果としてうまくいかなかったことは失敗ではない.なぜ仮説どおりにいかなかったのかを検証すれば,次につながると思うので.一番いけないことは,出てきた研究の結果がその次につながらないことだと思います.きちっと考えてプロセスも踏んでやった結果については,うまく事業に結び付くか付かないかの違いはでるかもしれないけれど,それは失敗とはみなさない.そうしないと若い研究者のモチベーションが上がらない.そこは一緒になって,結果をどう考察するかという,そこのプロセスというか,思考のところを大切にしています.
—— ありがとうございます.企業における研究とアカデミアとの研究の違いについては,どのようにお考えでしょうか.
柴田 だいぶ融合してきている気がするのですが,企業の研究と大学の研究って,個々の先生方によってもその考え方は違うでしょうから,企業の考え方と重なるところもあれば,重ならないところもあると思うんですね.農芸化学の分野の先生方というのは,農芸化学が実践の化学なので,将来社会にどう貢献するかということを意識しながら研究されている方が多いと思うので,企業研究との重なりは大きいと思います.そのなかでも,大学の先生方は,新しい発見であったり,新しいサイエンスを構築していく,作り上げていくということがメインになると思うんです.一方,企業の研究って,われわれの場合だとお客さまがいかに健康で豊かな生活を送っていただけるかという,そこのビジョンというか,ゴールがあるので,最後の研究の成果の評価はお客さまや市場が決めることになります.自分たちがいくらいい研究をしたとしても,それが本当に社会に貢献するものでなければ,その研究はそこでストップするんです.そういう意味で,意思決定の基準が違うのかもしれませんね.ただ,私は大学の先生方の研究を見て,お客さまの悩みとか社会課題にどう結び付けていくかということをいつも考えてやっています.自らのイノベーションだけを目標にやっていると企業は潰れてしまうと思います.
—— アラキドン酸のお話を聞いているときにすごく,ふわっと思い付いたというか,普段から感じていることがあったんです.サントリーさんって,どちらかというとシーズをうまくニーズにつなげているような気がするんです.私も昔,企業におりましたのでわかるのですが,シーズから始まったものって,なかなか一般の方へのニーズにつなげるところが難しかったりするけれども,サントリーさんの研究所ではシーズからニーズにつなげるところで,研究所がどれくらい介入するという言い方は変なんですけども,かかわっているのか.たとえば研究員の方がニーズの開発のところまでやっていらっしゃるとか,そういうところをちょっと教えていただけるとありがたいなと思います.
柴田 もともとわれわれが機能性素材の研究をはじめたときは,事業部門がなく,21世紀の新しい事業を起こすということが目的だったので,研究者自ら,まさにどのような事業をしていくかということを考えながらやらなければいけなかったというのがあります.なので,シーズからニーズということでは,アラキドン酸だと本当に研究から20年近くかかっていますし,セサミンでも,いわゆるシーズ研究をずっと続けていく中で少しずつビジネスとしての芽が見えてきたというか,ニーズにあった商品として自信をもって売れるようになるまでには10年以上かかっているので,そこまでの忍耐というのが大事だと思っています.シーズとニーズって,なかなかそんなにすぐに結び付くというものではないので.シーズの研究は夢をもって研究をしながら,ここだと思ったときに一気に研究開発を加速させる.われわれのウエルネス事業はまだまだベンチャー的な会社なので,常にマーケティング部門と意見交換するなかで,それならこうしようとか,これとこれを組み合わせて商品を作ろうというのは常にやっています.やはりマーケティング部門の方がお客さまに対するインサイトとかお悩みに敏感なところがあるので頼りにしています.
—— なるほど.たとえばアラキドン酸だったら20年間ぐらいの研究開発の期間があったということで,出てきたシーズをポッと市場に出したわけではないというところを今お伺いして,すごく納得しました.十分な調査の時間もあり,お客さまが求めているものが何かということを日々考えながら,長い年月をかけてニーズのほうにつなげているというところで,サントリーさんの戦略というところが今よく理解できました.
もう一つお伺いしたいことがありまして,私のなかでは御社の研究って本当に「やってみなはれ」精神というんですかね,自由度がとても高いように感じているんです.たとえば若い研究者の方がこういうことをやってみたいとかいうことを立案したときに,それがどれぐらいの割合で採択されるというか,結果に結び付いていくものなのかというところをちょっと教えていただいてもよろしいですか.
柴田 若い研究者には,いつも夢をもってやりたいことをしっかりとアピールしろ! と,言ってるんですが,企業なので何でもかんでもやっていいよということはなかなか難しいですね.先ほども言いましたけど,われわれは社会にどう貢献するのか,ウエルネスの場合だとどう健康という新しい価値をお客さまに提供していくのか,これを一つのものさしというか,基準にして提案されたテーマを議論しています.その場ではポジションや年齢等は関係なく,サイエンスでフェアに議論するように心がけています.ただ,やはりマネージャーや先輩の方が経験知があるので,若い人たちの知恵をどうやって商品開発や事業に繋げるか,お互いがお互いの役割のなかで議論を戦わせています.駄目なものは駄目って,すぐに言ってしまいますが.
「やってみなはれ!」には,実は2つあって,楽しく面白くやってみなはれというのと,そこまで言うなら最後まで責任をもってやってみなはれという意味も込められています.
—— 学生とか大学院生に望むことというのを教えていただけませんか.というのも,やっぱり今,学生が就職に関してすごく不安をもっているんですね.このコロナでだいぶ求人が下がっているのがありますから.ですので,社会に出る前に今どんな準備をしておけばいいのかを教えていただけたらと思います.
柴田 たぶん大事なことは,大学でいかに研究に真面目に取り組んできたかということだと思います.その真面目さというのは企業に入っても大事で,着想とか分析とか,そして,それをどう自分で考察するかという考察力,最後はそれを展開する力なんですね,そういうスキルやマインドをいかに大学中に与えられた研究をするなかで自分で考えて学んでくるかということが社会に出てからの差になってくると思います.
私の大学時代の研究は,タンパク質の構造解析でした.当時は分子量2万のタンパク質の構造決定をするのに,そのタンパク質の精製からはじめて数年かかっていました.今だと,微量のサンプルが調製できれば,自動解析装置にかけたらたぶん1カ月もかからないうちに全構造が決まってしまうのではないかと思います.私が入社したときにはもうそういう機器が普及しはじめていて,学位は取得したもののすごい研究をしてきたと偉そうに言える状況ではありませんでした.何年かたって入社してきた学生さんにとっては,もうそんなことは当たり前という感じだったんです.でも,大学での構造解析の研究のなかでいろいろ試行錯誤をし,なぜこの構造が,なぜこのアミノ酸配列がそのような機能を示すのだろうといった,構造と機能の関係について深く考える時間がありました.このことは,会社に入ってから,それがポリフェノールに対象が変わったとしても,その考察力をたとえばポリフェノールと酵素との相互作用はどうなっているか? に置き換えることですごく役に立っているんです.だから,大学で自分に与えられたテーマを広く一般化しながらスキルを磨いていけば,企業でも必ず役に立つと思っています.
—— ありがとうございます.大学での研究もやっぱり出口を用意してあげるというか,自分の研究が何に生かされるのかというところをうまく教育していかなきゃいけないなと思いました.そこがたぶん学生のモチベーションにもなってくるので,そこを意識して学生を指導していきたいと思います.
—— 農芸化学の分野というんですかね,大学に期待していることであるとか,それから農芸化学会とか学会誌への要望とか,その辺りを最後にちょっとまとめてお話しいただいてもよろしいでしょうか.
柴田 農芸化学って実践の化学だと思うんですね.もちろんそのうえでの基礎研究の重要性は極めて大きいと思います.私は,関西支部の副支部長や『化学と生物』の編集委員等もやらせていただいて,いろいろな先生方と意見交換ができたというのはすごく財産になっています.学会に参加しても,基礎研究から社会実装に近いような応用研究まで幅広く研究を知ることができるので,その中から大学との産学連携を模索し,強化していきたいですね.企業の研究は,市場やお客さまのためにというところが先にあるので,そこにつながるような基礎研究に関しては大学の研究に期待する,お互いの役割を尊重しあい,シナジーが発揮できるような形でやっていければと考えています.農芸化学の分野って,それができる非常にいい分野じゃないかといつも思っています.
あとはやっぱり若い研究者の育成ですよね.特に,たとえば学生さんとか,そういう人たちにいかに農芸化学に関心をもっていただくかというのが今後ますます大事じゃないかなと思っています.なので,今でも取り組まれていますが,『化学と生物』でも,高校生向けに「農芸化学とは?」とか,「大学ではこんな研究をしている」みたいな特集号があってもよいのかなと思います.それによって,この大学のこの研究室で研究をしてみたいという具体的なイメージが湧くのではないでしょうか.そして,研究室に入ってみると今度はこの企業とこんな共同研究をしているんだと知り,企業で働いて研究してみようとか,どんどんつながっていくのではと期待しています.
また,今日も女性の先生方がおられますが,女性研究者の活躍というのも重要で,周りを見ても素晴らしい女性研究者の方々がおられます.弊社にも優秀な女性研究者が多くいて,これまでに2名が農芸化学会の女性企業研究者賞をいただき,そのロールモデルを参考に,自分のライフプランを考える若い女性研究者が増えています.
—— 私が思うのは,男子学生はもう突き進むみたいな感じのところはあるんですけど,女性はやっぱりなんかいろいろな触手を伸ばしているのか,これが駄目だったらこうしてもみようとかそういう違いが面白いなと感じます.ただ,男子学生が集中して頑張るってところはやっぱりすごいなと思います.でも,女性は女性なりに違う良さがあって,うまくそれが融合していけばいいなと思います.
柴田 まさに気づかないと新しい発想って出ないと思うのですが,いかに意識的に感性を高めておくかというのが大事で,そうすることで何かに気づき考えることができる.気づき,学び,考えることが本質ですね.男性と女性はアンテナの張り方や行動の仕方が違う場合があり,私もその多様性を大切にしていますが,個性を生かしてそれをうまく融合させる,組み合わせることが,マネージャーとして必要なことかもしれないと考えています.
—— 実は私も企業から大学に出た研究員なんですけれども,やっぱり女性というのは,ライフイベント,特に出産とかが研究を進めるうえでかなり大きなイベント,足かせと言い方はよろしくないですが,問題になってくるので.そういう点では企業のほうがやっぱりいろいろ制度も充実していて,女性が伸び伸びと研究し,ライフとワークをうまく回すには,企業の方がいい環境なんじゃないかと今思っております.大学の場合だとどうしても授業があったり,実習があったりとかで,教員一人が抜けるともう大騒ぎとかいうことになるので.そういう意味でも,企業のほうで活躍できる女性研究者がもっともっと増えることを私自身も祈念しております.
柴田 女性企業研究者賞を受賞した弊社の2人とも,出産と育児を経験して戻ってきて,それぞれのフィールドでリーダーシップを発揮しながら研究してくれています.まさに企業も制度を充実させていかなくてはいけないですし,その中で女性がいきいきと活躍してくれることを私も期待しています.
—— どうも長時間にわたり貴重なお話を頂きまして,ありがとうございました.
柴田 皆さん,コロナに負けないように頑張ってください.
Appendix
聞き手 増村威宏
京都府立大学
江草(雑賀)愛
日本獣医生命科学大学
八波利恵
東京工業大学