巻頭言

ナッジの活用

Hirofumi Tachibana

立花 宏文

九州大学大学院農学研究院生命機能科学部門

Published: 2021-06-01

最近,「ナッジ」という考え方が注目されている.英語でnudgeは「肘で小突く」とか「そっと押して動かす」の意味である.行動科学の知見から,望ましい行動をとれるように人を後押しするアプローチのことを指している.多額の経済的インセンティブや罰則といった手段を用いるのではなく,「人が意思決定する際の自由を残しつつ,自発的な行動変容を促す」のが特徴である.シカゴ大学のセイラー教授が2017年にノーベル経済学賞を受賞したことがきっかけでナッジは大きな注目を集めることとなった.行動変容をそっと促すナッジは,しばしば母ゾウが子ゾウを鼻でやさしく押し動かすようすにたとえられている.「ナッジ」の最も有名な例はスキポール空港の男性トイレの事例であろう.男性用便器の中央に小バエの絵をつけたところ,利用者が小バエを狙って用を足すようになったことで周囲への飛び散りが減り,大幅な清掃費削減につながったそうである.最近では,宇治市が市庁舎の出入口に数歩手前から消毒液へ誘導する矢印を示したイエローテープを貼り付けたところ,消毒薬の使用率が高まったことが記憶に新しい.新型コロナウイルス感染対策として,ソーシャルディスタンスが保たれる距離がわかるよう,地面に線を描くのもナッジの一つである.

図形のみならず言葉によるナッジもある.電気料金などの通知書に,同様の家庭と比べて「過去12カ月での電気代が3万円増加」などと記載を見て節電を心がけた方もいるのではないだろうか.筆者の住う福岡市の食堂では「黙食」という張り紙が貼られ,黙って食べるように呼びかける対応をとっていたが,ここには会話自粛により客を守る目的もあるという.「黙食」と書かれたポスターの配布を行うとSNS上で反響があり,全国の飲食店に「黙食」を呼びかける動きが広がっている.「外食しないで」と禁止を訴えるのではなく呼びかけ方の工夫が肝要であることの好例であろう.気をつけてみると日常のあらゆるところにナッジが潜んでいるのに気づくはずだ.

この原稿を書いている2月中旬,わが国においてもようやく新型コロナウイルス向けのワクチンの接種が始まった.「mRNAワクチン」と呼ばれる全く新しいタイプのワクチンである.新型コロナウイルスのワクチンを巡るこれまでの情報から知る限り,発症予防効果は高く現段階において生命の危険にかかわる副反応の報告が出ていないのは一安心である.一方,このワクチンは1年足らずで実現されたものであり,丁寧に説明されてもどこか無理をしていないかという疑問を抱く人がいても不思議ではない.変異ウイルスもあらわれ有効性に対する不安もある.筆者は現時点でワクチン接種に前向きだが,感染しても軽症だったり発症しなかったりする若年層はどの程度接種するだろうか.

ワクチンはジェンナーが開発した「牛痘」を用いた天然痘ワクチンが世界初とされるが,わが国においてはその6年前に秋月藩の藩医緒方春朔が同様の治療に成功している.当時もすでに種痘は行われていたものの信用されずに普及していなかったが,春朔は説明と同意(インフォームドコンセント)の実施や知見の共有を徹底することで偏見を打破したそうである.春朔の確立した種痘は全国に広がり集団接種を行った藩もあった.

ワクチンは有効な手段ではあるがゲームオーバーにできるとは思われない.さまざまな場面でのナッジに期待したい.