巻頭言

1÷0=∞

Toru Nakayama

中山

東北大学大学院工学研究科バイオ工学専攻

Published: 2021-07-01

実学とは,人類の福祉に役立つことを旨とする学問のことである.私は,農芸化学系の学部や大学院で教育を受け,その後,民間企業(食品会社)で8年,私立大学(栄養学部)で4年,国立大学(工学部)で23年と,いずれも実学指向の高い研究環境で研究生活を送ってきた.私がさまざまな実学領域の科学者や研究に接してきたなかで,そうした領域を超えて,これが「実学としての農芸化学の特色」なのではないかと思ってきたことが一つある.それは,農芸化学では,他のさまざまな領域の実学と比べると,科学的発見や謎解きを出発点としている研究の割合が多いということである.

言うまでもなく,「すでに知られているものの改変や組み合わせ」であっても,そこに知恵と工夫が反映され不可能が可能となったのであれば十分に立派な研究成果である.そういう研究は農芸化学にも多いが,農芸化学では,それに加えて,それまでに知られていなかった科学的事象や仕組みを明らかにして,それを人類の福祉に役立てようと試みる研究の割合が,他の実学に比べて大きいと思う.オリザニンの発見,ジベレリンの発見,うまみ成分としてのグルタミン酸ナトリウムの発見,グルタミン酸発酵微生物の発見と応用,アミノ酸の代謝制御発酵などはそのよい例だ.他にも,異性化糖やアクリルアミドの酵素的工業生産,スタチン,タクロリムス,イベルメクチンの発見など,枚挙にいとまがない.すでに知られているものの改変や組み合わせによって不可能を可能にする研究を「1を10や100にする研究」とするならば,それらは「ゼロを1にする」研究と言い換えてもよい.農芸化学でこうしたタイプの研究が多いのは,農芸化学が,「生物」という複雑で依然として未知の部分が多いものを研究対象とするためかもしれないが,それにしても,生物を取り扱う他の実学系の学会に比べてもその割合が大きいと感じられる.これは,探索研究を重視してこれを奨励してきた日本農芸化学会の伝統と風土によるものだろう.

上に述べた「ゼロを1にした」研究成果には,わが国の企業の貢献なくしては語れないものが多い.一方,科学的発見の歴史が示すように,真に新しい発見は運(セレンディピティー)に支配される部分がある.割り算をしてみればわかるように,「ゼロを1にする」研究の方が,実現したときの波及効果が大きい代わりに,達成のための困難さもリスクもまた大きい.そのせいか,最近では,農芸化学系であっても多くの企業が「ゼロを1にする」研究に手を染めなくなり,効率化やコストダウンを目的とした「1を10や100にする研究」の方が主流になっているように思われる.企業はその立ち位置も社会的使命もアカデミアとは異なっており,それはそれでやむを得ない部分もあろう.しかしながらリスクの伴わない研究からは,わかりきった結果しか生まれない.科学の発展のためには「ゼロを1にする」研究はやはり不可欠である.そしてそれは企業よりもむしろアカデミアにおいてこそさらに積極的に取り組まれるべきであろう.

真に新しい発見は運に支配される部分があると述べたが,ルイ・パスツールは,幸運は準備された心のみに宿る,とも述べている.そしてその「準備された心」は,試行錯誤を繰り返しながら進める日々の研究によって培われる.このことに関連して,筆者が深刻な問題であると感じているのは,わが国において現在,巨額の研究資金がゴールの明確な(予定調和的な)研究課題にもっぱら投入され,また少人数の科学者に数億円の国費を投じるような研究費配分も行われる一方で,すべての科学者に等しく必要な,研究の基礎体力に相当する基盤的な研究経費——探索的ないしは萌芽的研究にも費やせる財源——がアカデミアに措置されていないことである.国立大学ではかつて,積算校費がそうした研究の財源として機能していたと思うが,これに代わる現在の運営費交付金はそのような状況にはない.探索的・萌芽的な研究申請に適していると考えられる科研費の挑戦的萌芽研究は,その採択件数がきわめて限られている.農芸化学に限らず,科学の発展に必要な探索的・萌芽的な研究がアカデミアの社会的使命として課されるのであれば,その財源は科研費のような競争的資金ではなく,研究基盤経費として,かつての積算校費のようなかたちでアカデミアのすべての科学者に均等に措置されるべきである.より多くの科学者に対して幸運の女神が微笑むチャンスが増え,より多様な「ゼロから1」が生まれるはずである.