巻頭言

強烈なインパクト

Yoshitaka Matsushima

松島 芳隆

東京農業大学農芸化学科

Published: 2021-08-01

サークルの先輩の影響で生物学科への進学を妄想していた大学1年の後期,森謙治先生のゼミを受講した.ゼミの初回,スラスラと黒板にジベレリンの構造式を書かれた森先生に魅せられ,「やっぱり自分は有機化学が好きなのだ.自分がやりたいのは有機合成だ!」私の進学先は森研究室のある農芸化学科に決まった.ゼミは「Organic Syntheses」の英文輪読などであったが,その一環でGrignard反応の実験をするため,冬の寒い日に農芸化学科の研究室を訪ねた.実験の内容はぼんやりとしか覚えていないが,実験後の教授室での懇親会は強く印象に残っている.先輩から借りたプロミナをもって行徳にオオハシシギを観に行った帰りだったため,望遠鏡を担いできた奴,と森先生に憶えていただいた.

農芸化学科に進学すると決めたものの「農芸化学」についてはほとんど知識がなく,進学先を決めてから手に入れた本誌「化学と生物」(250号記念号,1984年)などで調べてみた.オリザニンの鈴木梅太郎は知っていたが,足尾鉱毒事件の古在由直,ジベレリンの藪田貞治郎・住木諭介,坂口フラスコの坂口謹一郎,アレスリン合成の松井正直,火落酸(メバロン酸)の田村學造ら高名な先達を知ることができた.歴史と伝統のあるところ,なんだかいろいろおもしろいものが詰まっている学科のようだ.直感で選んだ進学先だが,間違いはなさそうである.その後,じゃんけんで負ける心配もなく初志貫徹で森研究室へ配属された.

当初,この巻頭言が印刷されるころにはコロナ騒ぎが収まっているとうれしい,と書くつもりだったが,現時点(6月中旬)ではまだ先は見えていない.オリンピックを無事開催したいのなら,なぜワクチン接種政策をもっと進めなかったのか,など疑問は尽きない.

昨年度は,本学の場合前期の講義はすべて遠隔,研究室への入室も7月頃まで大きく制限を受けた.後期はごく一部の講義と学生実験(人数制限あり)が対面で実施された.今年度せっかく対面で始まった講義であったが,三度目の緊急事態宣言を受け,半数は教室で受講,半数はZoom受講の交代制となるなど,感染対策も試行錯誤の繰り返しである.現在のところ,研究室での実験には大きな制限がないのがせめてもの救いである.

遠隔講義でも講義の内容や質をしっかり保つことができればいい.本当にそうだろうか.自分が森謙治先生のゼミで受けたような強烈なインパクトを,オンデマンド教材による講義やZoomなどのオンライン講義で学生に与えることはできるだろうか.いや,対面講義であっても自分は学生にこのような積極的な影響を与えることが果たしてできているだろうか.コロナ禍の中,講義の意義ややり方などを大いに考えさせられた.もともと有機化学の自主学習用に開発していた弊アプリは幸い対面でも遠隔でも役立っている.今は究極の在宅学習用教材である教科書を執筆している.

電車に乗って移動しなくても,人と直接会わなくても,オンラインでものごとを進められる.確かにとても便利だし,慣れてしまえば体もとても楽である.所属大学でも教授会などの会議がすべてオンラインとなりおおむねそのまま継続されている.

実際には会ったことがない間柄でも,オンラインでコラボして新しいことができる,素晴らしいことだ.しかし,体も楽で時間が効率化できてうれしいのは,人間関係がある程度確立したわれわれ大人だけの幸せな感想ではないだろうか.エマニュエル・トッドの言うとおり,これから何十年という単位で影響を受けるのは若者である.今は目に見えないその影響が小さくなることを祈るばかりである.