Kagaku to Seibutsu 59(11): 533 (2021)
巻頭言
「おわり」から「はじまり」へ
Published: 2021-11-01
© 2021 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2021 公益社団法人日本農芸化学会
無観客で開催された東京2020オリンピックが8月8日に終了した.この間,新型コロナウィルス感染症による医療崩壊が迫るなかで,日本の科学論文数に関する新聞記事が8月10日掲載されたので以下に紹介する.—「科学技術指標2021」によると,引用回数トップ10%論文数(2017~2019年対象)において,日本はインドに抜かれて世界10位に転落.同時に中国は米国を抜いて初めて首位.日本は1992年まで3位であったが,その後2009年には6位,2014年に9位となっていた.日本の研究者数と研究開発費は今でも米中に次ぐ3位であり,年間論文総数でも4位であるが,諸外国に比べてその数は伸びていない.—今回のオリンピック開催費は3兆円以上に膨らむといわれている.国立大学法人運営費交付金は年間総額およそ1兆円である.日本学術振興会の科学研究費総額は年間0.26兆円である.
「この国は,もう終わったのかもしれない.」
私が入学した1969年は,東京大学と東京教育大学の入試が中止された年である.当時の4年制大学進学率は18歳人口の15.4%(男24.7%:女5.8%)であった.大学院に進学し,1974年開催された日本農芸化学会50周年大会が私の学会発表デビューである.当時の口頭発表は撮影スライドの幻灯機による映写であり,スライド中の「表」は英文翻訳して手動タイプライターで,「図」は雲形定規とロットリングペンを駆使して作成していた.発表図表や論文作成にパソコンを利用し始めたのは1983年頃と記憶している.当時利用したNEC9800シリーズにはマウスがなく,コマンドプロンプトで操作していた.その後,私は国立研究機関に異動し,1993年にApple社のMacintosh Classic IIに出会うことになった.この出会いは衝撃的であり,マウスを用いて自由自在に操作できることに驚いた.しかし1997年四国の国立大学に異動して暫く後,Macintosh Power Bookが不調であったため,Windowsマシンに切り替えることに決めた.なお,学会発表は2000年頃からパソコン接続プロジェクターに変わり,ずいぶんと楽になった.
日本農芸化学会は,英文誌のAgricultural and Biological Chemistry(ABC)を発行していた.ABCは,1975年私が原著論文を初めて投稿した学術誌である.1992年,ABCはBioscience, Biotechnology and Biochemistry(BBB)に名称変更した.私には今でもABCの響きが懐かしい.なお,私の原著論文232報の中で最も被引用数が多いのは,BBBに1998年発表した論文である(被引用数1,502: Google Scholar Citationsより).この論文は米国化学会発行のJournal of Agricultural and Food Chemistry(JAFC)に投稿したが,なぜかあっさりrejectされたため,急遽BBBに再投稿したものである.もしJAFCに掲載されていたら,被引用数はどうなっただろうかと気になる.
日本の大学は,1990年代のバブル崩壊の時期に開始した大学院重点化計画とポスドク1万人計画を経て,2001年の遠山プランおよび21世紀COEプログラムを端緒とする競争的研究資金の導入と拡大,2004年の国立大学法人化と運営費交付金制度の実施等の政策が進められてきた.大学人としての私はその渦中で戸惑っていた.そして今,この「選択と集中」の方針は正しかったのだろうか? と思う.
そこで,1996年に北野武監督が制作発表した映画「キッズリターン」のラストシーンのセリフを引用して,本稿を閉じることにする.
シンジ「マーちゃん,俺たちもう終わっちゃったのかな?」
マサル「バカヤロー,まだ始まっちゃいねぇよ」