Kagaku to Seibutsu 59(11): 581-582 (2021)
追悼
山田康之先生を悼む
Published: 2021-11-01
© 2021 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2021 公益社団法人日本農芸化学会
京都大学名誉教授・奈良先端科学技術大学院大学名誉教授・学士院会員・文化勲章受章者・農芸化学会名誉会員の山田康之先生(1)1) 学士院:会員情報 山田康之,https://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/6/yamada_yasuyuki.htmlが2021(令和3)年8月15日ご逝去された.1931年(昭和6年)10月31日大阪府生まれ,89歳であった.山田先生のご業績は,自らご執筆された本誌文書館(2)2) 山田康之:化学と生物,49: 795 (2011).,奈良先端科学技術大学院大学大学(NAIST)のHP(3)3) 山田康之:元学長の記録,http://www.naist.jp/japanese/kigyo_kenkyu/staff/yamadayasuyuki/main.htmlあるいは,文化勲章受章記事(4)4) 佐藤文彦:化学と生物,51, 616 (2013).に詳しく記載されているので,参照していただけると幸いである.ここでは,恩師山田先生の思い出を中心に先生のご逝去を悼みたい.
山田先生は研究遍歴(3)3) 山田康之:元学長の記録,http://www.naist.jp/japanese/kigyo_kenkyu/staff/yamadayasuyuki/main.htmlの中で記載されているように,1957年京都大学農学部卒業・同大学院進学,1960年同博士後期課程中途退学後,奥田東研究室(肥料学・植物栄養学)の助手となられた.この間,植物栄養素の葉面吸収の研究において,単離クチクラ膜での解析に成功し,その成果を持って,1962年から3年間米国ミシガン州立大学Wittwer研究室に留学された.山田先生は英語を身につけるために教会で独学されるとともに,フルブライト研究生に採択され渡米され,3年間に6報の原著論文を発表された.米国の生活環境が良く,帰国を躊躇されたとのことであるが,奥田先生の京都大学総長就任に伴う研究室再編のために,愛妻パトリシア様とともに帰国され,1967年助教授に着任された.帰国に際し,従来の植物栄養学ではなく,より根源的な細胞培養研究に取り組まれ,本誌に「化学の窓(根が出る,葉が出る,花が咲く)」(5)5) 山田康之:化学と生物,6, 556 (1968).を執筆されるなど,我が国の植物細胞培養の先駆けとなられた.また,当時,困難とされていた単子葉植物(イネ等)の組織培養,個体再生に成功された(6, 7)6) O. Carter, Y. Yamada & E. Takahashi: Nature, 214, 1029 (1967).7) T. Nishi, Y. Yamada & E. Takahashi: Nature, 219, 508 (1968)..その後,より基礎的な細胞分裂と分化やプロトプラスト培養に取り組まれた.この間,大学の枠を超え,細胞培養に必要な植物ホルモン研究者である田村三郎先生や高橋信孝先生などと親交を深められた.同時に,英語教育の重要性を関西セミナーハウスで講習されるとともに,意欲ある学生に直接,語学・進路指導されたとお聞きしている.また,研究継続が困難であった学園紛争の時代,バリケードを突破して実験室に入っていったともお聞きした.とにかく,志に満ちた行動と研究への情熱が周りの方々を巻き込んでいったと言える.一方,研究室主任教授との年齢差はわずかであり,教授昇進が難しい状況であったが,多くの先生方のご支援により1982年植物を主体とした生物細胞生産制御実験センター(略称;細胞実験センター)が10年の時限付きで設立され,山田康之教授の活躍が始まった.
当時,より実学的な光独立栄養細胞や二次代謝産物を産生する細胞の選抜と培養が研究対象となっていたが,基本は基礎(細胞機能発現)の追求であった.選抜は親交の深かった山田秀明教授の微生物育種の概念に繋がるものであり,植物培養細胞集団のヘテロ性の認識と細胞選抜が後の研究基盤となった.一方,山田康之先生が取り組まれたプロトプラスト融合は千田貢教授の電気融合技術の開発,また,山田研助教授となった森川弘道博士らの電気融合装置,さらには,物理的遺伝子導入技術の開発につながっていった.このように,農芸化学という多様な科学を推進する研究者がお互いに切磋琢磨し,交流することにより,学際的な研究が発展していった.また,当初,細胞育種と培養生産の2部門で発足したセンターは,植物DNA組換え,細胞物理,遺伝子資源(外国人客員)部門に拡充され,国際的な研究発展がなされるとともに,1990年農芸化学科に拡充改組された.
細胞実験センターでは,多くの有用物質産生細胞株が育成され,大量培養されるとともに,その生合成系の解明が進んだ(2)2) 山田康之:化学と生物,49: 795 (2011)..特に,橋本隆(現奈良先端科学技術大学院大学教授)らによるヒヨス培養根を用いたトロパンアルカロイド生合成系の解析,ヒヨシアミンからスコポラミンの変換に至るエポキシ化酵素の単離と遺伝子単離,さらには,生合成遺伝子を用いた遺伝子操作によるスコポラミン高生産ベラドンナの確立(8)8) D. J. Yun, T. Hashimoto & Y. Yamada: Proc. Natl. Acad. Sci. USA, 89, 11799 (1992).という画期的成果は,有用物質生産を細胞培養から代謝工学へと大きく転換させた.この時,山田先生は,常に研究への強い熱意を持ち,最適と考えられる方法を模索し実践されていた.こうした成功は,オウレンを用いたイソキノリンアルカロイド生合成系の解析にも生かされた.特に,連携していた企業からの生合成基質の提供は,その後の研究に大きく貢献することになった.山田先生のお話は非常に熱情に溢れ,魅力的で,人の気持ちを前向きにさせるものであった.時代がバブル景気に沸いていたということもあり,多くの企業からの研修生で研究室は常に活気にあふれていた.
このように様々な研究成果が達成され,1986年から2年間文部省科学官として,学術行政にも参加されることとなった.この間,大学院大学創設構想に参加され,1994年からの奈良先端科学技術大学院大学の設立の土台を作られた.科学官としての幅広い人脈は,さらに,多くの科学研究プロジェクト,例えば,未来開拓研究などのミレニアムプロジェクトの設立にも大きく貢献したと思われる.また,学術振興における省庁の壁を超えた連携の重要性の認識は,農林水産省のイネゲノムプロジェクト・理化学研究所に設立された植物科学センターとの連携として,オールジャパンでの研究連携,さらには,その後の植物科学の発展につながっていったと実感している.これらの研究推進・ネットワーク構築は,まさに,山田先生の真骨頂であった.人(研究者)が夢を実現する上で,人と人とのつがなりが不可欠であり,出会いを大切にしておられた先生であったと強く感じる.また,国際的にも幅広いネットワークを持っておられた.こうした研究成果ならびに幅広い功績により,農芸化学会賞,日本学士院賞等多くの賞を受賞されるとともに,米国科学アカデミー外国人会員に選出され,さらには,2012年文化勲章をご受章されている.
山田先生は,いつも,「明日のこない夜はない」「自分がやらなくて誰がやる」と志高く生きてこられた.不幸にして京都大学を退官される直前に進行性の前立腺癌であることがわかったが,この時も,様々な先端治療を受け,大学学長等の要職をこなしてこられた.この間の座右の銘として新訳聖書のローマ人への手紙の一節「艱難は忍耐を生み出し,忍耐は練達を生み出し,練達は希望を生み出す」という言葉を何度もお聞きした.このように,我々の輝かしい希望であった先生を失ったことは大きな悲しみです.ご遺族の皆様に心よりお悔やみ申し上げますとともに,山田先生の御冥福をお祈りします.
(佐藤文彦)
Reference
1) 学士院:会員情報 山田康之,https://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/6/yamada_yasuyuki.html
3) 山田康之:元学長の記録,http://www.naist.jp/japanese/kigyo_kenkyu/staff/yamadayasuyuki/main.html
4) 佐藤文彦:化学と生物,51, 616 (2013).
6) O. Carter, Y. Yamada & E. Takahashi: Nature, 214, 1029 (1967).
7) T. Nishi, Y. Yamada & E. Takahashi: Nature, 219, 508 (1968).
8) D. J. Yun, T. Hashimoto & Y. Yamada: Proc. Natl. Acad. Sci. USA, 89, 11799 (1992).