追悼

山田秀明先生を悼んで先生のお言葉を思い返して

小川

Jun Ogawa

J. Ogawa

京都大学大学院農学研究科

Published: 2022-02-01

はじめて山田秀明先生を知ったのは,入学式の日,当時の京大農芸化学におられたもう一人の山田先生(山田康之先生)からの言葉であった.「京大の農芸化学には山田がふたりおる.一人は良い山田で,もう一人が悪い山田のワシや……」.康之先生から「良い山田」と紹介されても,おごった風情ではなく悠々泰然とされておられたのが山田秀明先生であった.太い黒縁の眼鏡が強面のイメージをあたえ,厳しい先生との印象を持ったが,今思えば,あのえも言われぬ優しいまなざしをレンズの奥から学生たちに向けていてくれたのだと思う.

学生のころ山田先生からお聞きした3つの言葉をもって先生を振り返ってみたい(本追悼文が,山田先生が京都大学農学部農芸化学科教授(醗酵生理および醸造学講座)を退職される最後の3年間を共にした学生の目線での文章となることを,お許しいただきたい).

「良い菌は取れましたかな?」

山田先生が主宰する京大発酵研に配属となった学生にとって厄介だったのは,そのがっしりした大柄な体格に反して気配を全く感じさせずに,いつの間にか背後にたたずまれることであった.さまざまな重責を担われ,ご出張も多く,実験室に入ってこられることも少なかったが,実験をしている学生が気づかぬうちに背後に陣取り,一言「良い菌は取れましたかな?」と低い声でとつとつと尋ねられるのである.びくりとするが,答えられる訳がない.応用微生物学研究の門をたたいたばかりの学生に何が良い菌なのかもわからないのは,先生も承知であっただろう.「ほっ,ほっ,ほっ」と小さな笑い声とともにその場を去って行かれるのである.学生は,きょとんとするほかない.一瞬の出来事であるが,先生の研究哲学の一つである「良い研究は,良い菌に導かれる」ことを伝えられたかったのだと思う.皆と同じ研究をやっては面白くない.自然界には想像を超えることをやってのける菌がいることを皆に伝えるのが研究者の務めだ,と言うことを伝えられていたのだと思う.先生がいつも卒業生に贈っていた言葉「彊不息」の心得は,まさにこの点にあったと思う.「自然の営み(天行)は健やかである.そのことに身をゆだね,自然から学ぶことに一生懸命取り組むのが研究であり人生ですよ」とおっしゃっていたのだと理解している.実際,自然に学ばれた先生のご研究は個性に溢れていた.

山田先生は,応用微生物学の分野に,最新の酵素科学を持ち込まれた.扱う反応も,当時一般的であった加水分解酵素による分解反応(たとえばヒダントイナーゼによる光学活性アミノ酸生産,ラクトナーゼによるビタミン合成の光学活性中間体生産など)のみならず,加水分解の逆反応や,脱離酵素,酸化還元酵素を用いる,まさに合成の香りがするものであった(ヌクレオシドの位置特異的リン酸化,β-チロシナーゼによるL-ドーパ合成,ニトリルヒドラターゼによるアクリルアミド生産,各種酸化還元酵素による光学活性アルコール生産など).また,微生物酵素研究を物質生産のみならず,臨床分析にも応用された(アミンオキシダーゼ,アシルCoAオキシダーゼ,S-アデノシルホモシステイン加水分解酵素など).さらに,酵素研究を起点に,代謝(エネルギー・還元力産生)と酵素反応をリンクさせたWhole cellでの微生物変換,そして,もっともエネルギーを要する油脂発酵の確立と,微生物生産における新機軸を提示する研究を次々と展開された(油脂発酵は,山田先生とともにこの分野を開拓され,山田先生の後任となられた清水昌先生により,さらなる発展を見せる).これら研究は,個性的であると同時に,それまでになかったものを提示するものであったことから,必然的に最先端研究となり,新たな領域の起点となった.

山田先生は,微生物機能研究に常に最先端の技術を導入することにも躊躇されなかった.時代は遺伝子工学の黎明期であったが,いち早くこの技術を取り入れていた東大醗酵研(別府研)に,当時博士課程の学生であられた現・筑波大教授の小林達彦先生を派遣され,京大発酵研にも分子生物学の息吹を吹き込む尽力をなされた.

京大発酵研の成り立ちは,東大農芸化学から来られた生化学の鈴木文助先生ならびに初代教授となられる片桐英郎先生に端を発する.片桐先生は,欧州留学後,微生物機能を生化学・代謝・酵素化学の観点から研究された.その後を引き継がれた緒方浩一先生は,武田薬品工業に在籍された経験もあり,微生物機能の産業応用に積極的であった.3代目教授となられた山田先生の研究スタイルは,まさにこれらの延長線上に新しいものを積み重ねるものであった.

「伝統というのは,その上に新しいものが乗っかり続けてこそ,初めて本当の伝統になるんですよ」.筆者が京大発酵研を任される折に,山田先生からこの言葉を頂いた.伝統の継承に重責を感じていた筆者は,「新しいことをすればいいんだ」と安堵するとともに,真に身の引き締まる思いがした.

「そろそろスプーンですくえるようになりましたか?」

「良い菌は取れましたか」のステージを経ると,次に学生にかかる言葉が「そろそろスプーンですくえるようになりましたか?」であった.なかなかそのレベルで生産物が得られない状況にある学生は,「能力の高い菌でないと産業化に耐えない」という大前提が「良い菌は取れましたか?」に潜むもう一つの意味であったことに気づくとともに,山田先生の微生物機能の産業応用への情熱を知るのであった.

思い返すと,山田先生の退職が間近となっていた当時の研究室には,国内外から10人に近しい数の企業研究員の方々が在籍しておられた.技術の差別化が生命線である企業の方々が,山田先生の真骨頂であった新規性の高いものを見いだしてくる探索能力を吸収すべく,こぞって30歳前後の伸び盛りの優秀な研究者を送り込まれていたのだ.20代の学生たちは,お兄さん的存在の企業研究員の方々からさまざまな研究手法や人生訓を学んだのであった.そのご縁は,今でも続いている.これも山田先生が仕組んだ巧みな産学連携であり,教育であったと思う.さまざまな人を介して,探索を旨とする山田先生の研究哲学が,研究室に浸透していった.

山田先生は企業の方々や,海外の研究者(日本・ドイツ,日本・スイスなど,二国間のバイオ関連会議を取りまとめておられた)とのお付き合いに際して,常に「mutual respect」という言葉を口にされていた.その象徴が教授室の円卓にあった.この円卓を囲んで行われるミーティングでは,誰もが同等のポジションにあり,すべての方向からの意見を聞き,すべての方向へ意見を述べることができた.その円卓は今も健在である.

「お酒に迷惑をかけてはいかんよ」

退官されてからも,お酒の席を中心によく研究室の行事に参加いただいた.「さかづきにつくる涙を飲みほして」で始まる酒の歌を口ずさみつつ,楽しそうに盃を重ねる山田先生は,はしゃぐ学生を相手に「お酒に迷惑をかけてはいかんよ」との言葉をかけつつ,終始穏やかな笑顔で飲まれていた.この言葉には,「お酒がわれわれの口に届くには,米の栽培から,醸造,流通,販売など,さまざまな人々の真摯な営みがある.そのことへの敬意を忘れてはいけない」との意があったのだと解している.自らが酒蔵のご長男であられた山田先生ならではの,ものを作る人への深い尊敬をうながす言葉であった.(京大農芸化学の学生は3回生の学生実験で酒を造る.官能試験のコントロールとして持ち込まれる市販酒のおいしさを,自らが作った酒のひどい味との対比において実感したことを思いおこすと,瞬時にこの言葉の意を得る.)

山田先生の周りには,数多くの人材と新しい科学が集まり,育まれ,世に出て,社会に貢献していった.日本農芸化学会における山田先生の貢献も大きい(会長:平成5年4月~平成7年3月など).さまざまなことがらの真ん中にたたずまれつつ,それらを柔らかに包括されておられた山田先生が,2021年7月12日に92歳でなくなられた.お別れの式は,上述の酒の歌が飛び出したり,「フレー,フレー,山田!」のエールがきられたり,ありったけのお酒が安らかな表情を浮かべる山田先生にそそがれたりなど,先生と過ごした幸せな時を再現する場となった.ご子息が式の最後に,「父はやはり酒蔵の長男であり,その務めを全うする幸せな生涯をおくったのだと思う」と語られたことが印象的であった.山田先生,ありがとうございました.健やかな天行に安らかに身をゆだねられてください.謹んでご冥福をお祈り申し上げます.