解説

がん細胞の遊走を阻害する天然物moverastinと合成類縁体UTKO1に関する生物有機化学的研究天然物由来がん細胞転移阻害剤のケミカルバイオロジー

Bioorganic Chemistry Studies on the Natural Cancer Cell Migration Inhibitor, Moverastin and Its Synthetic Analog UTKO1: Chemical Biology of a Cancer Cell Metastases Inhibitor Derived from Natural Product

Yusuke Ogura

小倉 由資

東京大学大学院農学生命科学研究科応用生命化学専攻

Published: 2022-05-01

日本人の約5人に1人はがん(悪性新生物)で死亡するとされる(1)1) 国立がん研究センター:最新がん統計,https://ganjoho.jp/reg_stat/statistics/stat/summary.html 2019..人類がこれまで何十年にもわたってその治療法の開発に取り組んできた結果,現在では手術療法,放射線療法,化学療法(抗がん剤),免疫療法が確立されている.この間,天然物化学者も自然界に存在する有機化合物を研究対象とした天然物創薬研究を展開し,抗がん作用のある有効な天然物の探索やその合成および改良研究を重ね,新たながん化学療法の開発に貢献してきた(2)2) 上村大輔:“天然物化学II 自然からの贈り物”,東京化学同人,2018..しかしながら,現在の医療はがんの克服とまでは至っていない.がんは日本人の死因として1981年から常に最上位で推移しており(3)3) 厚生労働省:“人口動態統計”,2019.,新たながん治療法の開発は今なお強く望まれている.

Key words: 細胞遊走阻害; moverastin; UTKO1; 14-3-3ζ; 構造活性相関

がんの転移を抑制する天然物moverastin

WHOは主にがんの転移が死を引き起こすとしており,転移はがん治療における最大の障壁である.すなわち,がんの転移を抑制することができれば,克服に向けた大きな一歩となり得る.がんの転移は,がん細胞自身が能動的に動く細胞遊走という現象に端を発しているため(4)4) K. Burridge & K. Wennerberg: Cell, 16, 167 (2004).,がん細胞の遊走の抑制には大きな注目が集められてきた.天然物化学者たちもこれに興味を持ち,さまざまな天然資源からがんの転移を抑える有機化合物を探索する研究が開始された.その中でも特に,実験室内で容易に培養ができ,一般的に動植物や昆虫と比べて生物資源量の確保が容易な微生物は,多くの天然物化学者から着目されることとなった.このような背景の下,慶應義塾大学の井本らは,微生物由来の天然有機化合物からがん細胞の遊走を抑制する化合物の探索研究に乗り出した.本稿では,井本らが行ったがん細胞遊走阻害物質に関する生物有機化学的な研究について紹介・解説する.

「がん細胞の遊走を阻害する天然有機化合物」といったように,目的とする有益な生物活性物質の探索研究を行う上で欠かせないのが,その生物活性を適切に反映する生物検定法である.研究の開始に際し,井本らはwound healing assay(5)5) L. G. Rodriguez, X. Wu & J. L. Guan: “Cell Migration: Wound-Healing assay”, ed. by J.-L. Guan, Springer International Publishing, 2005.を用いた.Wound healing assayでは,まず培養容器の接着面を覆い尽くしたコンフルエントな状態の単層培養細胞層を引っ掻いて模擬的な傷をつけた後一定時間を置く.その後,引っ掻き傷によって生じた無細胞エリアに移動してきた細胞数をカウントすることで細胞の遊走度を測定する.本検定法はscratch assayとも呼ばれる.井本らは遊走性の高い細胞として知られるヒト食道がんEC17細胞を用い,まずはこのwound healing assayを指標にがん細胞の遊走を阻害する微生物二次代謝産物の探索研究を行った.その結果,Aspergillus sp. F7720株の培養液よりmoverastinを見いだした(6)6) Y. Takemoto, H. Watanabe, K. Uchida, K. Matsumura, K. Nakae, E. Tashiro, K. Shindo, T. Kitahara & M. Imoto: Chem. Biol., 12, 1337 (2005).図1図1■Moverastinの構造と食道がんEC17細胞に対する遊走阻害活性の様子).Moverastin(1)は,Acremonium属の糸状菌から単離された抗生物質として古くから知られるascochlorin(2)とよく似た化学構造を有していた.しかし,ベンゼン環上にクロロ基を持たないこと,および分子中央にエキソメチレン部位とアリルアルコール部位を有する点は,moverastinに特徴的な構造であった.本天然物に関する初期の構造解析では,C10位ヒドロキシ基の絶対立体配置は決定されていなかったが,1H NMRおよび13C NMRスペクトルデータの詳細な解析においていくつかのピークが2種類ずつ観測されたことから,moverastinはC10位ヒドロキシ基に関する2種のジアステレオマー混合物であることが示唆されていた.しかし,両立体異性体はHPLCを用いても分離が困難であった.

図1■Moverastinの構造と食道がんEC17細胞に対する遊走阻害活性の様子

Moverastinの合成経路(A)およびC10位における両ジアステレオマーの分離(B).

一般的に天然有機化合物の探索研究においては,新規の有機化合物を自然界から発見し単離・精製することはもちろん,最終的にその新規物質の正確な化学構造を決定することが目指される.成熟した分析技術に乏しかった数世代前の研究では,単離した天然物を化学合成(全合成)することによって,その構造を最終的に確認していた.1980年代以降は有機化合物の分離および分光学的手法を用いた構造解析に関する技術が急速に発展し,必ずしも全合成による構造確認を経ずとも,多くの天然有機化合物の構造を決定できるようになった.しかし,天然から得られる化合物量が極めて微量である等の理由で,現代の分離・分析の技術をもってしても,新規化合物の化学構造を決定できない場合もいまだにある.たとえば,強力ながん細胞増殖阻害活性を有するamphidinolide N(7)7) M. Ishibashi, N. Yamaguchi, T. Sasaki & J. Kobayashi: J. Chem. Soc. Chem. Commun., 1455 (1994).は,単離報告から25年が経過した現在も,その化学構造の完全な解明には至っていない.また,生産生物が目的の化合物を生産しなくなったり生産生物資源が枯渇したりするなどして,化合物の入手が困難になる場合も稀ではない.Moverastinはこのケースであった.すなわち,生産菌であるAspergillus sp. F7720株がmoverastinを生産しなくなってしまったため,その化学構造に関するこれ以上の解析が困難になった.

このような場合には特に,現代でも有機合成化学的手法からのアプローチが威力を発揮する.東京大学の渡邉らは,moverastinの化学構造に関する本問題の解決を目指し,moverastinの2種の立体異性体の全合成研究を開始した.渡邉らはmoverastinとascochlorinの構造類似性に着目し,ascochlorinのC11位からC23位までの炭素骨格のみを部分的に活かす合成戦略を採用した.はじめに,ascochlorin(2)をピリジン存在下でオゾン酸化に付してC10-C11位の三置換二重結合を選択的に開裂し,種々の官能基変換を経てエノールトリフラート3へと導いた.その後,orcinol(4)から別途4工程で導いたジアール5とのNHK反応に付し,両者を連結して6を得た.最後に保護基を除去し,moverastinの全合成を達成した.このようにして合成した6由来のmoverastinは,C10位のヒドロキシ基に関するジアステレオマー混合物であり,このものの1Hおよび13C NMRスペクトルを含む各種データは天然のmoverastinのものと完全に一致した.以上の有機合成化学的手法により,天然のmoverastinはC10位のヒドロキシ基に関する2種のジアステレオマー混合物であると証明された.なお,その後の詳細な検討により両ジアステレオマーの分離方法が見いだされ,渡邉らはmoverastinのそれぞれのジアステレオマーの入手に成功した.さらにこれらの両ジアステレオマーのがん細胞遊走阻害活性を調べた結果,(10S)-moverastinの方が10R体よりも高活性であることが分かった(6)6) Y. Takemoto, H. Watanabe, K. Uchida, K. Matsumura, K. Nakae, E. Tashiro, K. Shindo, T. Kitahara & M. Imoto: Chem. Biol., 12, 1337 (2005).

渡邉らの合成化学的研究と並行して,井本らはmoverastinのがん細胞遊走阻害活性に対する作用機序を解析した.その結果moverastinは,ファルネシルピロリン酸(FPP)による低分子Gタンパク質H-Rasのファルネシル化反応を担う転移酵素であるファルネシルトランスフェラーゼ(FTase)を,in vitroおよび細胞内で非競合的に阻害することが分かった.このFTaseによるH-Rasのファルネシル化は,H-Rasの膜移行に必須である.さらに井本らは研究を深め,moverastinが,さまざまな細胞の情報伝達系を活性化することが知られているH-Rasの下流シグナル伝達経路の一つである,PI3K/Akt経路の活性化を抑制することを見いだした.以上の井本らの研究から,ヒト食道がんEC17細胞の細胞遊走はFTas/H-Ras/PI3K/Akt経路の活性化を介して引き起こされるという,がん細胞の遊走メカニズムの一部が明らかとなった(6)6) Y. Takemoto, H. Watanabe, K. Uchida, K. Matsumura, K. Nakae, E. Tashiro, K. Shindo, T. Kitahara & M. Imoto: Chem. Biol., 12, 1337 (2005).

Moverastinの構造活性相関研究とUTKO化合物の開発

続いて井本・渡邉らは,さらに高活性ながん細胞遊走阻害物質を開発すべく,協働してmoverastinの誘導体のデザインおよび合成を行い,それら活性強度を調べた(8)8) M. Sawada, S. Kubo, K. Matsumura, Y. Takemoto, H. Kobayashi, E. Tashiro, T. Kitahara, H. Watanabe & M. Imoto: Bioorg. Med. Chem. Lett., 21, 1385 (2011)..このように,所望の生物活性を高めた(または望まない生物活性を弱めた)化合物を新たに見いだすためには,目的とする生物活性の発現に重要な部分構造を明らかにすることが必要である.一般的には,まず元となる化合物(天然物とは限らないがこの場合はmoverastin)の官能基や骨格の一部を改変した化合物を逐次合成し,その生物活性の強弱を調べることを繰り返す.そして得られたデータの詳細な解析を通してその重要部位を明らかにしていく.このような研究手法は構造活性相関研究と称される.井本・渡邉らによるmoverastinの構造活性相関研究で合成された誘導体は,UTKO化合物と名付けられた(図2図2■UTKO1-16の構造(A)と食道がんEC17細胞細胞に対する遊走阻害活性,増殖阻害活性,細胞毒性およびFTase阻害活性(B)).渡邉らによって合成された計16種のUTKO化合物について活性強度を調べたところ,UTKO1, 7, 9, 12,にそれぞれ強いがん細胞遊走阻害活性があることが分かった.中でもUTKO1の阻害活性は元々の天然物であるmoverastinより三倍程度強かった.ところが,驚くべきことに,UTKO化合物はmoverastinの標的タンパク質であったFTaseをいずれも阻害しない(8)8) M. Sawada, S. Kubo, K. Matsumura, Y. Takemoto, H. Kobayashi, E. Tashiro, T. Kitahara, H. Watanabe & M. Imoto: Bioorg. Med. Chem. Lett., 21, 1385 (2011).,という非常に興味深い事実が判明した.この点に関し,最も活性が強く細胞増殖や細胞毒性への影響が最も小さかったUTKO1について,さらに詳細な解析が行われた.その結果,UTKO1はH-Rasの膜移行を阻害しないことが明らかとなった,さらには,moverastinで見られたさまざまながん細胞株のH-Ras発現量と遊走阻害との間の正の相関も,UTKO1については観測されなかった.以上の結果からUTKO1は,moverastinとは全く異なった作用機構でがん細胞の遊走を阻害することが示唆された(図2図2■UTKO1-16の構造(A)と食道がんEC17細胞細胞に対する遊走阻害活性,増殖阻害活性,細胞毒性およびFTase阻害活性(B)).

図2■UTKO1-16の構造(A)と食道がんEC17細胞細胞に対する遊走阻害活性,増殖阻害活性,細胞毒性およびFTase阻害活性(B)

UTKO化合物は細胞遊走を阻害するがFTaseは阻害しない.

ヒト扁平上皮がんA431細胞に対するEGFとUTKO1の作用

予想外の結果を受け,井本・小林らはこのUTKO1の標的タンパク質を同定し,そのがん細胞遊走阻害活性の作用機構を明らかにすることにした.本研究はUTKO1を利用してがん細胞の遊走メカニズムの解明に迫るものとも言える.UTKO1の作用機構を解析するにあたり,これまで用いられてきたヒト食道がんEC17細胞に変わって,ヒト扁平上皮がんA431細胞を用いた実験手法が考案された.ヒト扁平上皮がんA431細胞は,上皮細胞成長因子受容体(EGFR)を過剰発現しており,上皮細胞成長因子(EGF)の刺激により濃度依存的に細胞遊走が亢進する(9)9) K. Kurokawa, R. E. Itoh, H. Yoshizaki, Y. O. Nakamura & M. Matsuda: Mol. Biol. Cell, 15, 1003 (2004)..UTKO1は,このEGFの刺激が誘導する細胞遊走を細胞毒性を発現することなく阻害した.加えて,UTKO1は種々のがん細胞の中でもA431細胞を最も強く遊走阻害した.この結果を受けて井本らは,UTKO1をケミカルツールとして,EGFの刺激が誘導するA431細胞の遊走メカニズムを解析することとした.

一般的な細胞遊走では,まずactin細胞骨格の再形成によって細胞膜の伸展が生じ,突起状のfilopodiaやシート状のlamellipodiaが特徴的な構造として観察される(10)10) G. E. Jones, W. E. Allen & A. J. Ridley: Cell Adhes. Commun., 6, 237 (1998)..A431細胞においても,EGFの刺激によりfilopodiaおよびlamellipodiaの形成が見られ,UTKO1はこのlamellipodiaの形成を阻害することが観察された(図3A, B図3■A431細胞に対するEGFとUTKO1の作用).また井本らは,Rho family低分子量Gタンパク質の一種であるRac1がlamellipodiaに局在することも明らかにした.Rac1の構造活性化体はlamellipodia形成を誘導するとの報告(11, 12)11) W. D. Heo & T. Meyer: Cell, 113, 315 (2003).12) A. J. Ridley, H. F. Paterson, C. L. Johnston, D. Diekmann & A. Hall: Cell, 70, 401 (1992).があったことから,Rac1の局在は細胞遊走のメカニズムを知る上で重要な手がかりとなった.井本らはRac1に照準を定めてさらなる解析を進め,EGFの刺激に応じてRac1が活性化すること,およびUTKO1がRac1の活性化を阻害することを見いだした(図3C, D図3■A431細胞に対するEGFとUTKO1の作用).すなわち,UTKO1はRac1の活性化を阻害することによってlamellipodiaの形成を抑制し,膜伸展を駆動力としたA431細胞の遊走を阻害していた.

図3■A431細胞に対するEGFとUTKO1の作用

EGFの刺激によりlamellipodia(A,B: 矢印)とfilopodia(B: 三角矢印)が形成され,UTKO1はlamellipodiaの形成を抑制する(B : EGF添加後12時間).Rac1はEGFの刺激により活性化し(C),UTKO1はRac1の活性化を阻害している(D : EGF添加後12時間).

UTKO1ビオチン標識体とsiRNAを用いた結合タンパク質の同定

しかしながら,UTKO1の直接的な標的の決定にはさらなる解析が必要であった.井本・小林らは,EGFの刺激やUTKO1の添加によるA431細胞の形態変化および細胞遊走のメカニズムの核心に迫るべく,ビオチンを連結させたUTKO1に対してビオチン–アビジン相互作用(13)13) N. M. Green: Biochem. J., 89, 599 (1963).を利用してUTKO1の標的タンパク質の同定を試みるという着想を得た.このような分子生物学的な手法に加えて有機化学的手法を駆使しつつ生命現象の機構を解明する学問分野は,主にSchreiberらによって1990年前後から開拓・提唱され,現在ではケミカルバイオロジーとして広く知られるようになっている(14, 15)14) M. W. Harding, A. Galat, D. E. Uehling & S. L. Schreiber: Nature, 341, 758 (1989).15) N. Kudo, N. Matsumori, H. Taoka, D. Fujiwara, E. P. Schreiner, B. Wolff, M. Yoshida & S. Horinouchi: Proc. Natl. Acad. Sci. USA, 96, 9112 (1999)..井本らは,UTKO1を研究のツールとしてケミカルバイオロジーの手法に適用し,がん細胞の遊走メカニズムの解明に迫ることとした.はじめにUTKO1にビオチンを連結させるにあたり,UTKO1のどの部位をビオチン化すべきかを見極める必要があった.先述のがん細胞遊走阻害活性試験の結果を見ると(図2図2■UTKO1-16の構造(A)と食道がんEC17細胞細胞に対する遊走阻害活性,増殖阻害活性,細胞毒性およびFTase阻害活性(B)),UTKO1の芳香環上のヒドロキシ基を修飾しても細胞遊走阻害活性が保持されるものが多い(UTKO10, 13, 14).また,UTKO1とUTKO12を比べると,ホルミル基が無くても活性が認められる.すなわち,これらの実験結果は,芳香環上のヒドロキシ基やホルミル基はUTKO1の生物活性の発現に重要な部位ではなく,それらに手を加えても活性は維持されることを示唆している.このような傾向を考慮した結果,UTKO1のC4位のヒドロキシ基にビオチンを連結した標識体B-UTKO1pや,ホルミル基に連結した標識体B-UTKO1oxの利用が立案され,渡邉・小倉によってこれら二つのUTKO1ビオチン標識体は合成された.そして幸運にも,B-UTKO1pおよびB-UTKO1oxのビオチン標識体は,当初の目論見通りUTKO1と同等のがん細胞遊走阻害活性を示した(図4A図4■UTKO1の標的タンパク質の同定).