Kagaku to Seibutsu 60(9): 439 (2022)
巻頭言
学問の細分化に横串を刺す「植物医科学」
Published: 2022-09-01
© 2022 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2022 公益社団法人日本農芸化学会
いまから約40億年前,ゲノムが皮を被っただけの構造体に,「生きる」という所作が偶然に出現し生命が誕生し,長い時を経て複雑な生態系が形成された.やがて現れた人間は農耕を発明し,生産量を飛躍的に向上させる化学肥料や,邪魔な病害虫を駆除する画期的薬剤を開発し,食料増産を実現した.しかしこの成功は,「人間だけが高度な知と技を蓄積し,コミュニティとして共有できる生物であった」という進化的事実による.しかもこの事実は,自然環境を改変し,高コストでも品質・収量の高い食料生産システムの発明につながったが,それが環境に負荷を与え地球共生系の持続性を脅かす皮肉な結果となった.ただ,これらの事象はわれわれの本能から発露する際限なき欲望そのものであり,止めることは困難であろう.一方で,食糧生産の三分の一が植物病により失われているうえに,気候変動による食料生産システムの崩壊リスクが高まりつつある.科学は諸刃の剣である.もちろん植物病がなくならないのは,植物生産自体がそもそも人間の都合に基づいて自然から切り取るかたちで発明されたシステムであり,ことの本質の理解より対症療法に依存しているからである.われわれはこの危機から抜け出す必要に迫られているが,時間はもう残されていない.
植物医科学は,これら諸問題を解決するため細分化した学問分野に横串を刺し学融合を図る目的で2005年に提唱された複合学術領域である.翌年には植物医科学研究室が東大に設置された.すでに100名を超える国家資格を有した植物医師が誕生し,先端臨床技術開発を推進し,東大を拠点に植物病院を全国に展開しつつある.
実は,100年以上前にこれを予見していた人物がいる.旧五千円札の肖像にもなった新渡戸稲造である.新渡戸は,教育者であると同時に農学者でもあった.東京帝国大学教授を務めたのち,国際連盟事務次長に就任した.彼は農業本論(1898)で,「農学は学問分野として範囲が広く,自然条件も関わり,掘り下げた研究が難しく,現場や産業界で採算が合う役立つ解を出せないこともある.したがって,農家の経験に勝る説得力ある技術として農学の成果を,受け入れさせるのは難しい」と結論し,さらに,「自然環境に左右されず,閉鎖系で行われ,定型製品を生産する他製造業と異なる」と指摘している.そして,複雑系「農」に対峙することの難しさが学術と臨床のはざまに頑なに横たわり続ける問題点について言及している.
また,「医学では学問の細分化が進み,眼科医が鼻の病気を治療できない.医学者はそれでよいが医者は病気に対する広範な知識を持つ必要がある」と説いた.さらに「農学また然り」とし,「農学が,学問の発展とともに細分化することはやむを得ない」としながらも,「細分化した学問を融合する発想がないと,農学はいずれ支離滅裂とした学問になってしまう」と懸念している(以上現代語訳).ここで新渡戸が予見したものこそ,臨床に立脚した複合学術領域の,すなわち植物医科学の重要性であろう.
植物医科学の知を統合化した植物医科学上巻(2008)の出版の時に,知のマネジメント論を試みた下巻の原稿はほぼ完成していた.しかし,直後の2010年に生命合成に成功し,2012年にはゲノム編集が可能となり,2015年にはパリ協定が採択され,温暖化による農業生産への影響が懸念されるようになった.さらに近年,環境中の微生物ゲノムの解析が可能になった.「植物医科学第二版」は,これら諸点も念頭に上下巻を全面的に書き直し,合冊本として3月末に出版した.この世界の潮流の変化を踏まえずに14年前に下巻を出版していたら,すぐに陳腐な書となっていたであろう.
良質な食糧の確保には,先端技術に頼り切ってはだめで,逆にそれを活用するマネジメント力が重要である.植物医科学は,一見,農学の一分野に見えるが,あらゆる学問を融合した複合学術領域なのである.