Kagaku to Seibutsu 60(10): 491 (2022)
巻頭言
農芸化学とは何だろうか?
Published: 2022-10-01
© 2022 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2022 公益社団法人日本農芸化学会
朝永振一郎博士の名著「物理学とは何だろうか」にならい「農芸化学」について考えてみた.様々なご意見・ご批判はあると思うがお許し頂きたい.「農芸化学」が幅広い領域で,“芸”の一文字があり単なる“agricultural chemistry”でないことは理解できるが,ニュアンスも含めて歯切れ良く説明することは難しい.平易な言葉で説明できないことは,一般・他分野での理解はもとより,農芸化学の一体感・求心力にも影響しているように思う.微生物から動植物,ヒトまで,多様な生物種を対象とした化学一般・生化学・分子生物学から機能開発までも内包することから,個人の研究としては,概ね“○○(生物種や生理現象)を対象にした△△(研究手法)的研究と機能開発”に収まって農芸化学の“一部分”になってしまい,大会プログラムでも領域が細分化され,農芸化学全体について見渡せる機会もあまりない.
「うま味」に関する一連の研究が,異分野の多くの研究者により醸成されてきた農芸化学の代表的研究であることに異論はないだろう.池田菊苗博士による食生活・文化に根ざした「うま味」という概念の提唱,うまみ成分としてのグルタミン酸ソーダの同定,制御発酵による微生物生産の産業化,レセプターの同定による「うま味」の実証,それぞれのステージにおいて化学・分子のレベルでメカニズムが解明され,有機化学・生化学・微生物学・脳神経科学で新たな領域を拓いてきた.学問体系の源流となるoriginalityの高い研究は,既存の原理に基づいた発想からは生まれにくく,新たな生命現象の発見(例えば,ヒトが昆布を旨いと感じること)が基点になった好例であろう.
同じ文脈で,農芸化学を基礎と応用に明確に分別することは,その本来の長所を損ねることになる.マンハッタン計画の生みの親であるV. Bush(MIT副学長)は,基礎研究から応用研究へと向かうとするリニアーモデルに基づき,第二次大戦後の米国における科学政策を提言した.しかしそれ以前は基礎・応用の切り分けは大きくなかった.応用目的が短期的で明確すぎるとそれに捕らわれ,周辺に潜んでいる重要な事象を見過ごしてしまうこともあるだろう.
パスツールの業績が,リニアーモデルによりうまく説明できないことに気付いたD.E. Stokes(プリンストン大)が,基礎原理の追求を目指すボーア型の研究軸(Y軸)と,原理に関係なく具体的な問題解決を目指すエジソン型の研究軸(X軸)とすると,パスツールの業績は,X値・Y値共に高い値を示す象限(パスツールの象限)に位置づけられるとして,その業績を高く評価した.農芸化学は,まさにパスツールの象限に位置する領域である.対象とする生命現象について「人の生活と文化を支える生命現象」と位置付け,「その化学・分子からの探究」と捉えることができるのではないだろうか? それにより,新原理の解明のみならず,産学開発研究による真のイノベーションを生み出すことも可能になる.
「うま味」の研究が農芸化学の代表的な総合科学として醸成するまでには,先人のたゆまぬ努力と100年を超える年月がかかった.現代においても,個々の研究について農芸化学の中の一分野ではなく,より高い視点,長い時間軸から俯瞰し,研究の先端を目指すとともに,研究起点としての農芸化学を意識することが重要と考える.