Kagaku to Seibutsu 60(12): 617 (2022)
巻頭言
農芸化学の立ち位置
Published: 2022-12-01
© 2022 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2022 公益社団法人日本農芸化学会
自己紹介を少々.私は昭和59年3月に博士課程を修了後,民間企業勤務を経て,平成元年に母校に助手として採用され,令和4年3月末をもって定年により教育・研究に終止符を打った.現在は理事・副学長として経営に専念する身である.農芸化学(呑んべい化学)の応用微生物学の分野で33年間,沢山お酒を飲み,職責を全うできたことは誠にありがたく,支えて下さった全ての皆様のおかげ,と感謝している.日本農芸化学会には大学院生時に入会以来40年以上,今もお世話になっている.特技は国内外での大小様々な会合の「懇親会」の皆勤賞.中でも最大規模を誇る本会年次大会のそれは無上の楽しみであった.専門が発酵ということもあり,多様な研究者との盃を重ねての歓談は新たな着想や共同研究のきっかけを生み,研究推進の原動力となった.コロナ禍でこうした機会が失われて久しいが,科学の発展のため,対面開催の復活が切に望まれる.
前置きが長くなってしまったが,これだけのエネルギーを費やして,家庭をも犠牲にして取り組んできた農芸化学の価値はどれほどのものであったのか,しばしば考え込むこの頃である.駆け出しの頃,農芸化学はバイオの花形分野で,私には農学の中心に見えた.しかし,農学の体系の中で農芸化学は農学,畜産学,林学などのように生物生産には直接関わらず,土壌や病害の制御による生物生産の側面支援に関わり,生産物の化学分析,加工による食品製造,栄養評価などのいわゆる静脈産業的な役割を担っている.そして今,バイオの捉え方はより広範囲になっている.「バイオ戦略2019」や「同2020」では,バイオはバイオテクノロジーという狭い意味ではなく,市場領域としてスマート農業等の一次生産システム,バイオ素材,スマート林業,有機廃棄物処理,機能性食品,バイオ医薬産業,バイオ生産システムなど,全ての生物関連領域が含まれる.こうなってくると,バイオを旗印としていた「農芸化学の立ち位置」がいよいよ不明瞭になってくると感じるのだが,そう思うのは私だけだろうか?
とはいえ,「バイオ戦略」はバイオ活用による経済の活性化を最終目標にしている国の方針なので,そのまま教育・研究の現場に落とし込むものではない.一方で,「バイオ戦略」は我々が慣れ親しんだ従来型の研究スタイル(個別ラボの分散型・縦割り)を,我が国の基礎研究力低下の原因の一つとして否定し,将来の理想的な研究スタイルをデータ駆動型のビッグサイエンスに求めている.データ駆動型サイエンスは重要だが全てではないし,従来型の研究がその土台を成していることを忘れたか.それに関連して私がこのところ問題視していることは,次世代シークエンサーにより大量の配列データを取得し,情報処理によって相関解析や遺伝子機能の予測を行い,一定の結論を導いて事足れりとする風潮だ.近年盛んな腸内細菌研究の分野で,腸内細菌叢と病態発症との因果関係や,腸内細菌の機能の解明にしばしばこのような事例が見られる.タンパク質レベルでの遺伝子の機能解析や,菌株を分離培養しての代謝解析など,wet実験での実証が欠落している.しかしそれこそが農芸化学の生業であり,我々が末長く後代に伝えなければならない「農芸化学の立ち位置」である.バイオの進展とともに,農芸化学の本質を見失わずにいたいものである.
加えて現在の最重要課題は,地球環境の持続可能性の追求であり,その具体的な行動指針が,2015年9月の国連総会で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」に示された「持続可能な開発目標(SDGs)」である.したがって,農芸化学分野の教育研究も究極的には広い意味でのバイオという現代的文脈で,持続可能な社会の実現に向けたSDGsの達成への貢献に向けられなければならない.これからの研究者は,各自の研究を深化させながらも蛸壺化することなく,自身の研究がSDGsに関わっていると言う「気づき」を持つことが大切である.
以上,取り留めもない雑感になってしまったが,我々の若い頃にSDGsが策定されていれば,私ももう少しマシな研究ができたかもしれないと妄想する.農芸化学を担う次世代のみなさまのご健闘を期待するこの頃である.