Kagaku to Seibutsu 61(3): 103 (2023)
巻頭言
修士学生に就活フリーの時間を
Published: 2023-03-01
© 2023 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2023 公益社団法人日本農芸化学会
就職協定や倫理憲章という言葉を聞かなくなって久しい.これらは,いわば,加熱する企業による新卒者の青田買いによって奪われかねない学生の学業専念の権利を守ろうとしようとしたものであったと理解される.しかし,その背景には,それらはあくまでも自主的な取り決めで,フライングは黙認するという慣習から抜け出ることはなく,2021年には経団連が撤退,その後は政府主導で就活のタイムラインを取り決めていくという形となり,青田買いにはある程度歯止めがかかったものの,今度は,早期のインターンシップや説明会を利用した企業宣伝が激化してきた.そして,学生の学業生活が翻弄されているというのが,現在の状況といえる.
修士学生に目をむけると,1年時の夏からインターンシップが始まる.人気企業ではインターンシップにも選考があり,優秀な学生ほど通過するので,インターンシップで大忙しとなる.その後も学生は,常に就活競争に出遅れまいと企業から発信される情報にアンテナを張り続け,本来ならば,修士生活で専念したい研究への集中力を削がれていく.
企業とともに歩んできている農芸化学会で企業批判をするつもりは毛頭ないが,学生の学業専念への権利は守ってあげたいと感じる.また,修士のこのような状況は日本のサイエンスの地盤沈下の一つの要因であることは否めないのではないだろうか.20年前に,筆者の留学先であったオランダ・ワーゲニンゲン大学の恩師を,当時私が助手をしていた東大の研究室に招待した.その時恩師は,若い人(学生)がとても頑張っていることに印象を覚えたと言っておられた.今は,逆に,私が海外の大学に行くと,欧米だろうが,東南アジアだろうが,若い人の活気を感じる.このままでは,欧米には水をあけられ,中国に対する再逆転もないどころか,東南アジアにもいずれは抜かれてしまうのではと危惧する.
日本のサイエンスの危機について日々聞かされる今日,研究費の減少や,博士学生の減少は日々議論され,改善のための種々努力が各大学で行われている.しかし,修士学生については意外と放任であることが不思議である.博士学生を増やすには,修士学生に研究に対して魅力と期待を持ってもらわなければ始まらない.上記のように修士に入学して数か月で就活が始まることで,その機会を大きく逸しているのではないだろうか.私も,修士に入学して1年間ぐらいは民間に就職しようと思っていた.しかし,同期や先輩,そして先生方とサイエンス三昧の日々を送るうちに,サイエンスに魅了され,気づいたらサイエンスを生業としていた.そのころの時代に戻すことは難しくとも,精神的にも肉体的にも就活から解放される時間を修士学生に与えてあげなければ,健全な日本のサイエンスの土壌は消え失せてしまうのではないかと案じて止まない.
今日,世界的に資本主義が危機を迎えていると言われている.資本主義の根底を支えるのは,生産と消費で,今日その両者が加速的に増大する一方,疫病や戦争のもとで,そのバランスの脆弱性が一気に露呈している.このような不安定な資本主義は今後もしばらく続くであろうが,前者の生産の支柱を担うのは科学技術であり,科学と技術の架け橋として修士卒が活躍する構図が色濃くなっていくであろう.修士教育と修士採用を上手くマッチングさせるシステム作りを今一度真剣に考え,科学と技術の両方を操れる学生をきちんと輩出するシステムを構築しなければ,科学立国日本を謳える日が再び来る日は望めないのではないだろうか.