巻頭言

実験株の選別,長期保存.生涯の取り組み

Mitsuhiro Itaya

板谷 光泰

信州大学工学部

Published: 2023-08-01

微生物の研究に携わって40年近く経った.1983年(National Inst. Health,米国)で大腸菌と酵母と出会い,遺伝学的,分子生物学的取り扱いに習熟し,その後1986年から三菱化学生命科学研究所(東京都町田市)で独立した研究者として本格的な研究活動を開始した.その時出会った枯草菌は,形質転換能が極めて高く,200 kbpを超える巨大なDNAを自発的に取り込み,枯草菌ゲノム中に相同の配列があれば,その場所に正確に組み込む.昨今のゲノム編集技術でできることは,当時の枯草菌ゲノムではすべてできた.本稿では,その後30年に亘る新規株の選択と保存の取り組みの一端を紹介したい.まずは実験ノートの作成から,菌株リスト作成までの操作手順を確定した.新しい菌株名のリストには新規形質,出発株,プラスミドの有無,実験ノートの頁番号まですべてを含む.この操作手順は,その後私のグループに参加したすべてのメンバー(ポスドク,技術員,アルバイター,学生)に半強制的に実施していただいた.菌株リスト一冊で(相当分厚くなっている),いつどこでだれがどのような目的で構築した株かをカバーしており,すべて手書きで開始したおかげで,記入者の字の個性から今でもその当時を思い出せる.一時エクセルでの電子化も考えたが,無味乾燥な文字と数字の羅列よりはるかに眺めて楽しいリストになっている.新しい株が得られ,株名が確定したら,グリセロールストックとしてフリーザーで長期保存の開始である.

研究開始初期には,新規構築株はすべて保存しておきたい衝動にかられたこともあった.しかし,筆者が敬愛する先輩研究者の一言「全部を保存しようとするとすべてを失う」がいつも響いて,すべてを保存する衝動にかられながら何を基準に保存するのかを多くの事例で学び,経験を積むことで,絞り込む判断力もついたようだ.枯草菌株の命名に関して最初に確立したルールによると,私のグループの枯草菌ストック株は,誰が作製したかにかかわらず年代順で,BESTプラス通し番号が振られている.例えば「BEST7613」は枯草菌ゲノムとシアノバクテリアゲノムのキメラ株.「BEST3145」は納豆菌ゲノムで枯草菌ゲノムを上書きして,納豆を作れる枯草菌(納枯:ナツコ株)のように.BEST命名の由来についてこの場を借りて初めて開陳させていただきたい.1986年頃,私がのめり込んでいたゲノム操作手法が可能な菌は,Bacillus subtilis, Escherichia coli, Saccharomyces cerevisiae, Thermus thermophilus,の4種類に限られて.枯草菌の新規株の命名は,これら4種の頭文字BESTプラス通し番号の命名法に落ち着いた.論文発表,口頭発表後にBEST株分与の依頼は少なからずあった.筆者が1980年代半ばに命名と同時にグリセロールストックとして保存開始した最古の株でも40年になろうとしている.幸運にもフリーザーの故障は無く,今もって,初期のストックから起こそうと試した株は全て再生し無事に対応できた.数年前,国立遺伝学研究所(三島)に設置されたナショナルバイオリソースプロジェクト(NBRP枯草菌)に私のBESTコレクションの一部を寄託することができ,フリーザー故障の懸念は一部解放された.寄託には論文発表していることが必要なので,論文にこぎつけられなかった残る膨大なストックは今後どうなるのだろう.「全部を保存しようとするとすべてを失う」とささやかれる状態が続いている.