巻頭言

コミックの持つ圧倒的な力

Hideyuki Suzuki

鈴木 秀之

京都工芸繊維大学名誉教授

Published: 2023-09-01

16年前に私が京都工芸繊維大学に移った頃の応用生物学を専攻する学生はコミック『もやしもん』のことを皆よく知っていました.大学の最寄りの地下鉄の駅近くにあったレンタルビデオショップの入口に『もやしもん』に出てくる菌たちの形のマグネットが入ったガチャポンが設置されていたので,私の微生物工学の研究室のホワイトボードには,『もやしもん』を愛読していた研究室の学生達が獲得した『もやしもん』のマグネットが,それこそ菌が繁殖したかのごとく,うじゃうじゃと貼り付けられていました.同じ菌種,例えば麹菌のマグネットはたくさんありましたから,学生達は菌種を一通り集めるためにかなり散財したと思います.

『もやしもん』というのは,月2回発行されていたコミック誌に2004年から2014年にかけての足かけ10年間にわたって連載されていたコミックです.種麹屋の息子で一匹一匹の菌が見え,菌と会話できるという特異な能力を持つ主人公・沢木惣右衛門直保と彼の幼なじみで造り酒屋の息子の結城蛍が東京の農大に進学し,そこの一癖も二癖もある微生物を研究する樹教授の研究室でドタバタを繰り広げる話です.脚注はもちろんのこと,本文中の文章もコミックとは思えない長いものが多くありましたが,専門的な知識の説明なので仕方がありません.私自身は単行本になる度に購入して読んでいましたが,微生物の性質や発酵に関することについてとてもよく書かれていました.アニメ化やドラマ化もされたそうなのでそちらを見たのかもしれませんが,このコミックに親しんでいた当時の学生は,例えば<もやし>も<火落ち菌>も授業で説明する前から知っていました.ところが,昨年度私の講義を受講していた学生は誰一人『もやしもん』を知らないというのです.「火落ち菌って初耳」と.授業で教えるわけですから,初耳なのはいいのですが,やはり結構ショックでした.連載が終わってから10年ほど経つのですから仕方がないことだとは思います.ただ,初めから微生物に興味を持ってくれている学生と白紙の学生を相手に授業するのとでは違います.コミックの持つ圧倒的な力を感じずにはいられませんでした.『もやしもん』が連載されるより20年ぐらい前,私が大学院を出て,京都大学の助手をしていた頃,『動物のお医者さん』という獣医学部を題材にしたコミックが評判となり,モデルとされた北海道大学の獣医学部の入学志望者が急増したと聞いています.

日本農芸化学会が100年を迎えることができるのは先輩達のご努力の賜だと思います.今後も100年発展し続けていくためにすでに農芸化学分野に身を置く若手の育成は欠かせませんが,まずは高校生に農芸化学について知ってもらい,農芸化学に興味を持つ優秀な高校生の母数を増やし,農芸化学分野の大学・学科を進学先として選んでもらえるようにすることから始めなければならないのではないでしょうか.すでに農芸化学に関心のある高校生の農芸化学に対する興味を深めるという意味でジュニア農芸化学会は重要だと思います.農芸化学を知らない中学生・高校生に農芸化学に興味を持ってもらうために出前授業は大切だと思いますし,講師を務めてきてくださった先生方のご努力に心から感謝いたしますが,どうしても聞き手の生徒の人数が限られてしまいます.100周年を機にコミックの力に頼るのも一つのやり方ではないかと思います.