Kagaku to Seibutsu 62(1): 1 (2024)
巻頭言
多様性の出会い
Published: 2024-01-01
© 2024 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2024 公益社団法人日本農芸化学会
イノベーションは多様性の出会いにより創出される.学問分野の多様性,技術の多様性,人の多様性などである.現在私たちが愛飲している「現代ビール」に至るまでのビール醸造の発展にも,いくつかの学問や技術の多様性の出会いがあった.一つの大きな出会いは,ビールとホップの出会いである.ビールの発祥は紀元前3500年~3000年のメソポタミア文明の頃と言われている.パンを水につけて放置しておいたら(雨水に浸かったとも言われている),自然に存在している微生物の作用(当時は微生物の作用とはわかっていなかったが,後にパスツールが酵母の作用であることを発見)によって発酵し,ビールができた.現代ビールの源とされている古代ビールの誕生である.古代ビールは現代ビールとは品質がだいぶ違うものであったと想像される.古代ビールは,食中毒菌が生育しない安全な飲み物であったが,乳酸菌が生育し風味が悪くなることがあった.ドイツでは,乳酸菌の生育を抑制する目的で抗菌作用を有するいろいろな薬草が使われた.ホップはその薬草の一種である.ビールとホップの出会いには諸説あるが,これが一説である.それからだいぶ年月を経た1516年,ドイツで「ビールづくりには,大麦,水,ホップ以外のものは使用してはならない」という「ビール純粋令」が制定された.制定の理由の一つは,ホップの抗菌作用によってビールの品質を向上させることである.このことから,「ビール純粋令」は世界最古の食品品質管理に関する法律とされている.ビールとホップの出会いによって,イノベーションが起きた.ホップ(学名:Humulus lupulus)は麻科の宿根多年草植物である.ホップの毬花(まりはな,きゅうか)という部分を割ると中に小さな黄色の粒(ルプリン)があり,ここに抗菌作用,苦味賦与,香り付けに関わる諸成分が含まれている.ホップを使用することで,抗菌作用だけでなく,ビールに苦味や香りのバリエーションをもたらすことが可能になった.ホップを多く使用すれば,品質が安定するだけでなく苦味が強く香りが高いビールを造ることができるようになったのである.クラフトビールで人気のIPA(インディア・ペールエール)はホップを大量に使ったビールであるが,18世紀にイギリスから当時植民地であったインドへ船で長い日数をかけてビールを運ぶ際,抗菌作用を高めるためにホップを多く使用したものが起源である.IPAの特徴である強い苦味は,苦味成分を含むホップを大量に使用していることによる.また,使用するホップの種類により,ビールの苦みや香りを変えることができる.ファインアロマホップは穏やかな苦味と香り,アロマホップは強い香り,ビターホップは強い苦味をビールに付与し,ビールを特徴づける.ホップにはビールの「泡持ち」を良くする効果もある.ホップは抗菌作用によって品質を安定させるだけでなく,心地よい苦味と爽やかな香り,泡持ちの良さをビールにもたらした.ビールがホップと出会ったことによって,プラスアルファの価値をつけるイノベーションが起きたのである.このようにして,現代ビールが出来上がった.
農芸化学は,多様な学問が含まれる研究分野である.ビールとホップの出会いは,醸造学と植物学の出会いである.これからも農芸化学の多様な研究者が交流することによって多様な学問分野が出会い,融合を起こすことによって,イノベーションが創出されていくであろう.