Kagaku to Seibutsu 62(4): 206-209 (2024)
追悼
別府輝彦先生を偲ぶ
Published: 2024-04-01
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日本農芸化学会第50代会長であった東京大学名誉教授・日本学士院会員の別府輝彦先生が2023年11月10日,89歳で逝去された.2022年11月3日に栄えある文化勲章を受章されてから一年余,日本農芸化学会2023年度大会(2023年3月,広島)では特別講演をお引き受けになるなど元気に活躍されていただけに,別府先生の早すぎるご逝去は誠に残念で哀惜の念に堪えない.ここに深く哀悼の意を表し,別府先生を偲んで感謝の気持ちを綴らせていただきたい.なお,別府先生のご経歴,ご業績に関しては,『化学と生物』第61巻第1号(2023年1月1日発行)「別府輝彦先生の文化勲章受章を祝して」に記させていただいたので,ここでは別府先生との思い出を中心に述べることをお許しいただきたい.
わたしが別府先生と出会ったのは,学部3年生で受けた講義『微生物学I』であった.SNSどころかインターネットもない時代であったが,別府先生が高名な微生物学者であるという噂はあっという間に学生の間に広まっていた.別府先生の講義は黒板に板書しながら解説を加えていくという当時では一般的なスタイルだったが,別府先生が黒板に書かれるイラストがとても魅力的であったことを記憶している.どういうわけか,ツボカビの生活環の絵とウーズの3ドメイン説の系統樹がわたしの記憶に深く残っているのだが,後者に関しては,ずっと後になって気づいたことがある.ウーズが3ドメイン説を初めて発表したのは1977年の論文であるが,この論文には別府先生が板書された系統樹は載っていない.PNAS誌の1990年6月号において,この系統樹が掲載された論文が発表されているのだが,わたしが講義を受けたのは1989年の夏学期であった.おそらく論文発表前に国際学会等で見られた図を使われたのだと想像するが,最新の情報を講義に取り入れられていたのは間違いない.出張先から,朝,東京弥生のキャンパスに戻って『微生物学I』を講義し,すぐに出張先にとんぼ返りされたこともあると伺ったのは,わたしが研究室に入ってから数年以上経った頃であった.別府先生がいかに講義を大切にされていたか,そして,微生物学の面白さを広く学生に伝えようとされていたかは,講義を担当するようになった今,わたしの心の拠り所になっている.
4年生での研究室配属決めでは,迷わず別府先生の研究室を志望し,晴れて醗酵学研究室の一員になることができた.わたしが研究室に入ったのは,別府先生の定年の4年前であり,東大別府研の円熟期を過ごさせていただいた.当時,10社を超える民間企業から受託研究員として企業研究者が研究室に参加しており,大変賑やかであった.別府先生が「まさにプロの仕事だと感心しました.」と言って研究員の方を励まされていたことが鮮明に思い出される.別府先生のゼミでのコメントからは,先生の研究哲学の多くを学ばせていただいた.先生は常にゼミに参加している全員のことを意識され,発表者の説明不足を補うようなコメントをされていた.未熟な学生だったわたしには,発表した先輩学生の話はよくわからなかったが,別府先生の質問やコメントを聞いて,少しは中身がわかったような気になったことが数多くあった.修士課程に入って,初めてゼミで発表したときには,すぐ目の前に座られている別府先生の顔を見て,とても緊張した.当時,研究室の助手であった吉田稔先生(第62代日本農芸化学会会長)や西山真先生(日本農芸化学会会長)から「別府先生は少し前からずいぶん優しくなられたが,昔はもっと怖かったんだよ.」と言われたことがあったが,ゼミのときの別府先生の鋭い眼光は企業からきた研究員の間でも話題になっていた.
修士時代のゼミの発表で1つ忘れられない思い出がある.修士論文テーマに取り組み始めたばかりの頃,前任者の実験結果に基づいてこういう実験をしてみたらどうかと別府先生から直々にアドバイスをいただいたことがあった.わたしはすぐに実験に取りかかった.前任者の実験結果を再現することはできたが,追加したコントロール実験により,「原因はよくわからないがSDS-PAGE上のバンドがある実験操作により少し小さい位置に出てしまう」ということがわかった.前任者の結果はいわゆるアーティファクトだったのだ.これを発表したところ,別府先生は皆の前で「間違った実験を提案して,迷惑をかけてしまったね.」という内容のコメントをされた.わたしは恐縮するばかりであったが,修士課程に進学して間もない学生に対しても,1人の研究者として向き合っていただいていると感じてとても嬉しかった.同時に,今度はpositiveなデータで先生を驚かしたいと強く思った.当時,多くの学生が別府先生に「それは面白いですね.」と言ってもらうことを楽しみの1つにしていた.
別府先生は1994年3月,定年退職により東京大学を退かれ,直ちに日本大学農獣医学部(1996年に生物資源科学部に改称)に教授として着任された.醗酵学研究室の教授は皆さんそうなのだと,ずいぶん後になってから聞かされたのであるが,退職後は後任の先生による研究室運営の妨げになってはいけないとの配慮から,別府先生は意識的に研究室には一切足を踏み入れないようにされていたようだった.別府先生は,日大着任の1年後,博士号を取得したばかりの上田賢志先生(現 日大教授)を助手として迎え入れられて,日大別府研が始動した.数多くの学生を率いられた別府先生は,これまでと同様,とても楽しそうに研究に取り組まれておられた.学会等でお会いするたびに,日大の学生さんたちの様子を含めて,いろいろなお話を聞かせていただいた.
2009年7月に別府先生の後任として醗酵学研究室を主宰されていた堀之内末治先生が57歳という若さで逝去された.別府先生の悲しみの大きさは計り知れないものであったが,後進のため,まだまだ自分が頑張らねばと考えられたのではないかと推察する.わたしは堀之内先生の後任として,約1年後に教授として正式に醗酵学研究室を任せていただくことになったが,別府先生はさまざまな形で未熟なわたしを励まし支えてくださった.多くの心配をおかけしたが,「楽しくなければ研究でない.しっかり研究を楽しみなさい.」と,いつも前向きな言葉をかけていただいた.堀之内先生が逝去されたあとの2年弱の間は,あまりにタフな毎日だったためか,記憶があまり残っていないところもあるのだが,別府先生に励ましていただいたことはよく覚えている.その後も,至らぬわたしを陰に陽にご指導いただいた.いくら感謝してもしきれない.
数年前,別府先生にあらためて教えていただいたことがある.「大西さん,微生物とは何だと思う? どう定義するべきだと思う?」と突然聞かれた.わたしは,「肉眼では見えないサイズの生き物だと,講義では説明していますが….」と,それが正解ではないと思いつつも答えた.別府先生は,「それは言葉を言い換えただけで,答えにはなっていない.」と言われ,困った顔をしているわたしに,「微生物とは,細胞として,あるいは細胞レベルで生きることを選んだ生き物であるという説明はどうだろうか.」と,お考えを聞かせてくださった.このあと,さらに話は大きく膨らんだのだが,別府先生の視野の広さにあらためて敬服するばかりであった.
別府先生は微生物スクリーニングについても,金言を残されている.「微生物に頼んで裏切られたことはない」とは,別府先生の恩師・坂口謹一郎先生の有名な言葉であるが,ともすると,サイエンスから少し離れた,情緒的な言葉として受けとめられている部分もあるかもしれない.欧米では,見つかるかどうかわからないものを探すランダムスクリーニングは科学的ではないと捉えられてきたと聞く.別府先生はこの状況について,「微生物スクリーニングは十分,科学的であり,微生物の多様性こそがその根拠である.」とはっきり述べられている.「微生物の多様性に基づく微生物機能の多様性」—これは何かの文章に別府先生が書かれた言葉であると記憶しているが,別府先生は,菌叢のメタゲノム解析など想像もできなかった時代から,微生物種の多様性や微生物機能の多様性について正確に認識されていた.絶対共生関係にある微生物の単離をきっかけに,微生物共生についても時代を先駆ける研究を行われたことは有名である.
研究について,別府先生には,本当にいろいろなことを教わったが,そのうちの1つ,わたしが強く感銘を受けた「研究者の4つのP」の話を最後に記したい.1957年にノーベル物理学賞を受賞したYang Chen-Ning教授は研究に大事な3つのPとして,Perception(直観,洞察),Persistence(根気,粘り強さ:別府先生はPatienceと言い換えられたこともあった),Power(能力,力強さ)を挙げていた.別府先生はこれらに加えて,あと1つのPが大事だということを主張された.わたしがこの話を初めて伺ったのは醗酵学研究室教授室でのビールを飲みながらの会話だったように思う.「何だと思う?」という別府先生の問いに対して,その場にいた学生は,いくつかのPを答えた.わたしはPassion(情熱)と答えたような気がする.「いずれも大事であるが,僕が考えたのは,Personality(人柄,個性)なんだよ.」と別府先生は語られた.「サイエンスとは芸術とは全く逆の,誰がやっても必ず同じ結果になる,ニュートラルなものだということになっている.再現性という意味では,それはその通りではあるが,実際のサイエンスは極めて個性的であって,この人だからこそ,この研究ができたということが当たり前にある.真に優れた研究というのは,研究者の人柄が表れている研究なのである.」わたしは,この言葉に大いに刺激を受けるとともに,研究者として目指すべき大きな指針を教わった気がした.2023年3月30日に行われた「別府輝彦先生 文化勲章ご受章記念祝賀会」では,別府先生は閉会前の挨拶の最後にこの4つのPの話をされ,「サインエスにおいても本当に物事を決めるのは人柄だと,自分はそういうつもりでこれまで過ごしてきた人間であり,本日,そういう多くの人柄を思い出させていただいた.」と集まった人々に感謝の意を述べられた.まさに別府先生の温かいお人柄に溢れるスピーチであった.
別府先生は,上述のスピーチの冒頭,「まだ沈まずや定遠は」という言葉のために,日清戦争の逸話の一節を紹介された.「まだ沈まずや」ということが言いたかっただけなのだが,とにかくそんな感じで何とかやっている今日この頃だと話された別府先生であったが,2023年6月に体調を崩され,その後は闘病生活を余儀なくされた.わたしは,入院前後に何度も,お話しする機会をいただいたが,正確にご自身の病状を把握され,それを詳細に話してくださった.入院後,前向きに治療に取り組まれる意欲を語られていたが,最期はご家族に見守られるなか安らかに旅立たれた.長きにわたり,農芸化学という学問領域の発展に尽力し続けてこられた別府先生のご冥福を心からお祈りしたい.別府先生,本当にありがとうございました.