Kagaku to Seibutsu 62(5): 218-219 (2024)
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MALDI-TOF MS微生物同定の食品産業への展開における問題解決に向けて
コンソーシアム設立の意義と活動
Published: 2024-05-01
© 2024 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2024 公益社団法人日本農芸化学会
食品の安全性の確保や,食品の消費期限および賞味期限の設定のためには,食中毒細菌や食品を腐敗させる微生物の検査が必要である.従来の食品中の微生物同定は,適した培地を用いて培養し,微生物の増殖により発生したコロニー(微生物細胞の集まり,集落)を用いて各種の生化学試験により性状を調べ,コロニーの形状や細胞の顕微鏡観察結果も含めて総合的に判断して実施されてきた.遺伝子解析技術が普及した今日では,微生物種に特有のリボソームRNAをコードする遺伝子などの特定の領域の塩基配列解析結果を微生物DNAのデータベースと比較することにより行われることが多くなった.さらに,これらの方法よりも簡易かつ迅速に同定結果を得ることができるマトリックス支援レーザー脱離イオン化飛行時間型質量分析法(Matrix-assisted Laser Desorption/Ionization -Time of Flight Mass Spectrometry: MALDI-TOF MS)も利用されてきている(1)1) M. A. Claydon, S. N. Davey, V. Edwards-Jones & D. B. Gordon: Nat. Biotechnol., 14, 1584 (1996)..
質量分析では,質量を調べたい試料中の分子をイオン化し,イオン電荷比により分別し,分別したイオンを検出器で検出する.しかし,タンパク質はイオン化が困難で,従来の質量分析で用いられているイオン化方法では断片化されるため,本来の状態での質量分析は困難であった.そこで,イオン化する際の断片化を防ぐ温和なイオン化法として,マトリックス支援レーザー脱離イオン化法が開発された.この基礎となる技術を開発したのは2002年にノーベル化学賞を授賞した田中耕一氏である(2)2) 大楠清文:モダンメディア,58, 113 (2012)..本法ではレーザー光を吸収する有機低分子(マトリックス分子)の支援によりタンパク質等を効率的にイオン化し,イオン化された成分を真空の空間で飛行させ検出器に到達させて検出する.質量が大きいと検出器までの飛行時間が長くなり,イオンの検出器までの到達時間からその質量が算出できる.
微生物が持っているリボソームを構成するタンパク質は保存性が高く,発現量が多く,存在する50数種類の多くが塩基性タンパク質で,分子量が5,000~20,000 Daの間に集中していること,などからMALDI-TOF MSの分析対象タンパク質として適している.分子量2,000~20,000 Daの範囲のマススペクトルデータは菌種に特異的で,微生物の同定に利用できることが確認され,微生物同定技術として確立された(3)3) 関口幸恵:腸内細菌学雑誌,29, 169 (2015)..MALDI-TOF MSによる微生物同定では,検出されたピーク一つひとつを特定のタンパク質に帰属させずにスペクトルパターンの類似性で菌種同定を行う方法「フィンガープリント(指紋鑑定)法」が利用されている.スペクトルデータ取得後,データベースに照合するだけの簡便な分析であるため数分間で同定結果が得られる.
フィンガープリント法では,データベースに照合して同定結果を得ることから,データベースの充実が不可欠である(4)4) 川﨑浩子:日本食品微生物学会雑誌,37, 165 (2020)..しかしながら,本微生物同定技術は迅速な同定が必要である臨床分野をスタートとして発展してきたため,機器メーカーが構築したデータベースには食品原料や環境由来の微生物のマススペクトルデータが少ない.このため食品から分離された微生物の同定を本法で試みても正しく同定できないことが多いのが現状である.
食品産業界での微生物同定に本技術を活用するにはデータベースの拡充が不可欠である.食品原料として魚介類,肉類,乳製品,野菜・果実類と多種多様の素材を使用し,多種類の製品を製造している食品会社では,自社だけで網羅的な微生物同定用MALDI-TOF MSデータベースの作成は困難である.このような現状から,コンソーシアムを組織し,メンバーが製品・原料や環境から分離した中で既存のデータベースでは同定できなかった微生物について,遺伝子解析による菌種同定結果を紐づけた微生物のマススペクトルデータを集積・共有することが提案された(5)5) 中山素一:FFIジャーナル,227, 26 (2022)..「MALDI-TOF MS微生物同定コンソーシアム」2019年の設立当初は,14団体が参画し,マススペクトルデータの共有が開始された.現在では共有するデータは1700を超え,コンソーシアム参加団体は21団体に増えている.
現在はデータの共有だけでなく,MALDI-TOF MSによる微生物同定手法の標準化や精度管理についても検討が行われている.データベースに登録するマススペクトルデータの品質が同定の精度向上に重要であること,さらに品質の良いマススペクトルデータの取得には微生物菌体からの成分の抽出効率が極めて重要であることから,マススペクトルデータ取得のための微生物培養条件の標準化が行われている.対象となる微生物には細菌や酵母だけでなく,同定の困難なカビも含まれており,簡易・迅速で正確な同定法の確立に向けて精力的に活動が行われている.このコンソーシアム活動は今後の我が国の食品産業の発展に貢献すると期待される.
Reference
1) M. A. Claydon, S. N. Davey, V. Edwards-Jones & D. B. Gordon: Nat. Biotechnol., 14, 1584 (1996).
2) 大楠清文:モダンメディア,58, 113 (2012).
3) 関口幸恵:腸内細菌学雑誌,29, 169 (2015).
4) 川﨑浩子:日本食品微生物学会雑誌,37, 165 (2020).
5) 中山素一:FFIジャーナル,227, 26 (2022).