巻頭言

座右の銘

Koji Uchida

内田 浩二

東京大学大学院農学生命科学研究科

Published: 2024-10-01

2023年夏,実家で一人暮らしを続けてきた94歳の母親を天国に見送った.私が8年ほど前に東京に異動する際には,最後を看取れないかも,と思ったが,やはり現実になってしまった.長生きはしたが,2年以上も施設で寝たきりで,しかもコロナで家族と会うこともままならず,辛かっただろうな,と思うといつも心が痛む.

随分前だが,その母親から受けた言葉で忘れられない一言がある.私が大学1年生の終わりに未経験者として入部した体操部を1年でさっさと辞めた時のこと.「お前,また辞めたのか!」と呆れたような一言.それまでも中学から高校まで体育会系部活を転々としていたので,そう言われても仕方ないが….次に入部したのが運命とも言える柔道部.国立大学とはいえ,大学の柔道部は,柔道をやるために生まれてきたような輩が大勢いる上,長年のブランクがあり(高校時代に柔道部に在籍したことがある),毎日が忍耐だった.しかし,仲のいい同期に恵まれたのと,伝説とも言える有名な師範がいて,何とか引退まで続けることができた.目標にしていた大会での成績以上に最後まで続けられたことが嬉しく誇らしかった.同時に,一旦始めたらやめられない性分がこの時に宿ったと思う.

ところで,私が青春を捧げたその柔道部には代々伝わる座右の銘がある.「練習量が全てを決定する柔道」.出身研究室で教員になったのち,この言葉をパクらせてもらった.「実験量が全てを決定する研究」.手を動かすことが嫌いな頭でっかちはどう思うのだろう.

それから時は経ち,10年ほど前,ASBMS Todayというアメリカの学会機関誌の中に,ある大学研究者のインタビュー記事があり,その記事の中で,私がN.I.H.(米国)留学時に師事した今は亡きボスの座右の銘を紹介していた.それが“Progress in science is directly proportional to the number of experiments you do”.何とそっくりではないか! その研究者は今でも彼の研究室の学生にこの座右の銘を伝えているとのこと.アメリカ人にもそういう気質があったことに驚くとともに,私のボスを含めて共感できる考え方を持っている人が海の向こうにもいることを心強く思ったものである.時代錯誤の精神論かもしれないが,何かを成し遂げるために必要な一面であるのは世界共通なのかもしれない.

“ゆとり”が浸透してしまい,教員・学生の気質を含めて研究室の雰囲気はすっかり変わってしまった.その“ゆとり”は“ぬるま湯”と紙一重だと思う.研究者を目指す人だけでなく,社会で活躍・成功しようという野心や願望を持つ人へ言いたい.たった一度しかない人生を悔いのないものにするためにも,目の前の課題に全力で取り組んでみたらどうだろう.そうしなければ幸運は掴めないと思う.すでに幸運を掴んで成功したと勘違いして余裕をかましている人へ.もっと大きな幸運を逃しているかもしれない.

「運命は勇者に微笑む」とは,あの羽生善治・永世七冠の座右の銘.幸運は困難から逃げる者にではなく,努力を厭わず,困難に挑むチャレンジャーに訪れるということだろう.次代を担う学生や若手研究者にこの言葉を送りたい.