追悼

稲上正 ヴァンダービルト大学生化学名誉教授を偲んで

鈴木 文昭

Fumiaki Suzuki

岐阜大学名誉教授

正敏

Masatoshi Maki

名古屋大学名誉教授

中川

Tsutomu Nakagawa

岐阜大学応用生物科学部

Published: 2024-12-01

稲上正先生

(写真提供:御夫人 稲上昌子様)

2023年3月13日,ヴァンダービルト大学名誉教授の稲上正先生は,92歳で他界されました.先生は神戸市出身で,1953年京都大学農学部を御卒業後,1954年フルブライト奨学生としてエール大学に留学され,1958年にエール大学でPh.D.(生物物理化学)を取得され,帰国後1963年には京都大学で農学博士の学位も取得されました.その後,再び米国に渡り,1966年にヴァンダービルト大学医学部生化学教室の助教授に採用され,准教授を経て,1978年から教授に就かれました.その後ヴァンダービルト大学から顕著な功績を上げている現職教授に与えられるStanford Moore Professor for Biochemistryの称号を,そして2012年には名誉教授の称号を授与されました.先生は,世界的に著名な研究者(h-index: 100)であり,米国心臓協会/米国脳卒中協会Distinguished Scientist Awardなど,数々の国際的な学術賞を受賞されています.我が国においても1996年に村上和雄先生(筑波大学)と日本学士院賞を共同受賞され,2001年に日本学士院会員に選定されました(1)1) 日本学士院:会員情報 稲上正,https://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/bukko/a_gyo/inagami_tadashi.html.1996年より日本農芸化学会英文誌BBBの国際化の一層促進のため,Advisory Editorとしてご活躍されていました.稲上先生は同時に素晴らしい教育者でもあり,多くの優秀な研究者を育てられました.いつも教え子には,「科学は常に新しい発見と驚きに満ちている」と語っておられました.また,日本と米国の科学交流に尽力され,両国の科学者間の交流を促進されました.稲上正先生の死は,アカデミアにとって大きな損失であり,多くの学会誌等で,追悼の意が掲載されています(2~7)2) S. Eguchi, M. Tamura & T. Matoba: Hypertension, 80, 1137 (2023).3) S. Eguchi & T. Senbonmatsu: Hypertens. Res., 46, 1621 (2023).4) M. Naruse: Endocr. J., 70, 551 (2023).5) C. Thomas: ASBMB Today, 2023, https://www.asbmb.org/asbmb-today/people/092523/in-memoriam-tadashi-inagami6) B. Snyder: VUMC News, March 16, 2023, https://news.vumc.org/2023/03/16/cardiovascular-research-pioneer-inagami-mourned/7) 日本学士院:会員情報 稲上正,https://www.japan-acad.go.jp/japanese/news/2023/031601.html

本稿は,稲上正先生が村上先生との日米国際共同研究を始められた1978年からおよそ40年間にスポットライトを当てています.そして稲上先生が如何にレニン・アンギオテンシン系研究への情熱をもち続けた偉大な研究者であり,同時に学生や若手研究者に対して温かさをもった教育者であったことをお示しする記録であり,また共有すべき記憶となるのではと思います.私たち筆者3名は,この間日本農芸化学会会員であり,稲上先生と共同研究を通して直接語り合い執筆活動することができた幸運な研究者といえます.先生への感謝と哀悼の意を込め,3名がそれぞれの時期に垣間見た先生の素晴らしい功績とお人柄の一端を紹介させていただくこととします.

稲上正先生は,世界的に著名な生化学・分子生物学者であり,一貫してタンパク質の構造と機能の関係について研究され,多大に貢献されました.特に,タンパク質の活性中心を構成するアミノ酸残基の立体構造を解明した研究は,タンパク質の機能解析及び創薬研究において多くの功績を残されました.

タンパク質の活性中心を構成するアミノ酸残基の立体構造の解明

稲上先生は,タンパク質の活性中心を構成するアミノ酸残基の立体構造を解明する研究に,長年にわたって取り組みました.その成果として,1960~1970年代に,トリプシン(8)8) T. Inagami: J. Biol. Chem., 240, PC3453 (1965).やレニン(9)9) K. S. Misono & T. Inagami: Biochemistry, 19, 2616 (1980).(ペプシンと同族であるが中性で機能する.血圧調節機構における律速酵素)などのタンパク質の活性中心の立体構造を解明され,タンパク質の機能解析が飛躍的に進展しました.

タンパク質の機能解析に関する研究

稲上先生は,タンパク質の活性中心の立体構造の解明に加えて,タンパク質の機能解析に関する研究にも取り組みました.その成果として,タンパク質の構造と機能の関連を明らかにする研究や,タンパク質の機能を制御する方法の開発研究など,多くの成果を上げました.特に,ANP(10, 11)10) K. S. Misono, H. Fukumi, R. T. Grammer & T. Inagami: Biochem. Biophys. Res. Commun., 119, 524 (1984).11) M. Maki, R. Takayanagi, K. S. Misono, K. N. Pandey, C. Tibbetts & T. Inagami: Nature, 309, 722 (1984).やアンギオテンシン受容体(12~14)12) K. Sasaki, Y. Yamano, S. Bardhan, N. Iwai, J. J. Murray, M. Hasegawa, Y. Matsuda & T. Inagami: Nature, 351, 230 (1991).13) T. Ichiki, P. A. Labosky, C. Shiota, S. Okuyama, Y. Imagawa, A. Fogo, F. Niimura, I. Ichikawa, B. L. Hogan & T. Inagami: Nature, 377, 748 (1995).14) T. Senbonmatsu, S. Ichihara, E. Price Jr., F. A. Gaffney & T. Inagami: J. Clin. Invest., 106, R25 (2000).研究で顕著な成果を上げています.これら一連の稲上先生の研究成果は,タンパク質の設計や創薬などの分野に応用され,医薬品や食品の開発に貢献しています.例えば,降圧剤(ARB, ACE阻害薬)や健康食品の開発が挙げられます.

血圧調節系の律速酵素であるレニンの生化学・分子生物学研究(15)15) 稲上 正,御園邦雄,岡村富夫,成瀬光栄,成瀬清子:化学と生物,22, 150 (1984).は,マウス顎下腺レニンの精製着手から始まりました.詳細は稲上先生が著されたTiegerstedt先生(昇圧物質レニンの発見者)へ捧げた「レニン発見100周年記念」の記事で触れています(16)16) T. Inagami: Hypertension, 32, 953 (1998)..マウス顎下腺レニンの大量精製研究から始まった一連のレニンの生化学・分子生物学と構造解析に至る膨大な数の研究論文は,世界中で鎬を削って挑戦されてきた証です.もちろん,稲上正先生(米国)・村上和雄先生(日本)を筆頭とする国際共同研究チームは基礎研究で世界をリードしてきました.レニン・アンギオテンシン系に関わる研究論文数は,基礎研究の進展に伴って著しく増加してきました.臨床分野からの研究論文を含めると,ここ半世紀の間,継続して年間1,000編以上の論文が掲載されています(PubMed).レニンの基礎研究が進展する過程で,血液中にはレニンだけでなくレニン前駆体のプロレニン(不活性)も存在していることと,プロレニンが健常人でレニンの10倍以上含まれており,糖尿病などの病態変化によってはさらに増加することが報告されてきました.結果として,プロレニンの役割がレニンとともに注目され,レニン研究が新しい方向へと展開する契機となりました.

プロレニンの構造と機能,特に可逆的活性化機序を解明することは,私たちにとっても大変興味ある課題でした.稲上先生と私たちはキメラプロレニンや特異的抗体を作成し,プロレニンの局部的な構造変化によって可逆的に活性化することを見出しました(17)17) F. Suzuki, T. Nakagawa, H. Kakidachi, K. Murakami, T. Inagami & Y. Nakamura: Biochem. Biophys. Res. Commun., 267, 577 (2000)..そして,その現象は(プロ)レニン受容体の研究へと発展し,プロセグメントの一部のアミノ酸配列からなるペプチドでプロレニン結合を抑制することをin vitro/in vivoで示しました(18, 19)18) F. Suzuki, M. Hayakawa, T. Nakagawa, M. N. Uddin, A. Ebihara, A. Iwasawa, Y. Ishida, Y. Nakamura & K. Murakami: J. Biol. Chem., 278, 22217 (2003).19) A. Ichihara, M. Hayashi, Y. Kaneshiro, F. Suzuki, T. Nakagawa, Y. Tada, Y. Koura, A. Nishiyama, H. Okada, M. N. Uddin et al.: J. Clin. Invest., 114, 1128 (2004)..レニン・アンギオテンシン系の新しい構成因子として発見されて間もない(プロ)レニン受容体の研究テーマを携えて,私(中川)が妻とともに稲上研に留学したのは,私が30代も終わりに近づいた頃でした.稲上先生は当時,既に70代後半にさしかかっていましたが,知的好奇心が旺盛で,新旧技術を取り入れて柔軟に研究を進める姿勢に感銘を受けました(20)20) T. Inagami, T. Nakagawa, A. Ichihara, F. Suzuki & H. Itoh: J. Am. Soc. Hypertens., 2, 205 (2008)..プロレニンと(プロ)レニン受容体の生化学・分子生物学研究は現在も引き継がれており,レニン・アンギオテンシン系の生物学にパラダイム・シフトが起ころうとしています.

心房性ナトリウム利尿因子に関する研究

稲上先生は血圧調節について幅広く研究することにも取り組まれました.1980年代はじめ,利尿を伴って血圧を低下させる心房由来の因子(ANF, Atrial Natriuretic Factor)が世界的に脚光を浴びるようになり,構造決定研究の激しい競争が展開され,稲上先生の研究室でも因子の単離,構造決定,生理作用解析がなされました(10)10) K. S. Misono, H. Fukumi, R. T. Grammer & T. Inagami: Biochem. Biophys. Res. Commun., 119, 524 (1984)..現在では心房性ナトリウム利尿ペプチド(ANP)と称されますが,この因子は,心房で生合成されプロセシングを受けて血流中に放出され,副腎皮質でアルドステロン分泌抑制に作用するという典型的なペプチド性ホルモンであり,心房が内分泌器官でもあるという証拠を提示する画期的な研究でした.ポスドクであった私(牧)もその研究に従事することができ,構造が決まって直ちに投稿して論文(11)11) M. Maki, R. Takayanagi, K. S. Misono, K. N. Pandey, C. Tibbetts & T. Inagami: Nature, 309, 722 (1984).がアクセプトされたときの興奮は未だに忘れません.そのときの研究成果がなければ私の運命は違ったものになっていたでしょう.稲上先生の緑豊かで広々とした敷地のご自宅には研究室員がしばしば家族同伴で招待され,奥様の手料理で和気あいあいとパーティが催されました.稲上先生ご夫妻にはアメリカで誕生した長男を抱いて貰ったこともあり,思い出は尽きません.

稲上正先生は以前からご自身の健康管理にも気を遣っていたようです.先生が50代の頃,ハイデルベルク大学に数カ月間滞在したことがあったそうです.毎週金曜日の夕方はガンテン先生達と小高い山間をゆっくりとしたペースでジョギングを楽しまれていたとのこと.ハイデルベルク大学留学中にガンテン先生が楽しそうに私(鈴木)に話されていたことを記憶しています.また,私(鈴木)が30代の頃ですが,国際学会等で,稲上先生とご一緒に会場内外を散歩することが幾度もあったのですが,その度に著名な先生方が近づいて来られました.稲上先生との立ち話で話題が研究に飛びますと,私も会話に巻き込まれました.私にとってはハードエクササイズでしたが,今では懐かしい思い出であり,大変に良い機会を得たと感謝しています.私も責任ある立場に就いてからは,一緒に参加した学生には同様な機会を作ろうと努力してきました.

稲上正先生の死は,農芸化学会及び関連業界にとって大きな損失です.大和魂を彷彿させる先生の研究者スピリットと,そこから醸し出された数々の成果は,今後も多くの方々に影響を与え続けることでしょう.

Reference

1) 日本学士院:会員情報 稲上正,https://www.japan-acad.go.jp/japanese/members/bukko/a_gyo/inagami_tadashi.html

2) S. Eguchi, M. Tamura & T. Matoba: Hypertension, 80, 1137 (2023).

3) S. Eguchi & T. Senbonmatsu: Hypertens. Res., 46, 1621 (2023).

4) M. Naruse: Endocr. J., 70, 551 (2023).

5) C. Thomas: ASBMB Today, 2023, https://www.asbmb.org/asbmb-today/people/092523/in-memoriam-tadashi-inagami

6) B. Snyder: VUMC News, March 16, 2023, https://news.vumc.org/2023/03/16/cardiovascular-research-pioneer-inagami-mourned/

7) 日本学士院:会員情報 稲上正,https://www.japan-acad.go.jp/japanese/news/2023/031601.html

8) T. Inagami: J. Biol. Chem., 240, PC3453 (1965).

9) K. S. Misono & T. Inagami: Biochemistry, 19, 2616 (1980).

10) K. S. Misono, H. Fukumi, R. T. Grammer & T. Inagami: Biochem. Biophys. Res. Commun., 119, 524 (1984).

11) M. Maki, R. Takayanagi, K. S. Misono, K. N. Pandey, C. Tibbetts & T. Inagami: Nature, 309, 722 (1984).

12) K. Sasaki, Y. Yamano, S. Bardhan, N. Iwai, J. J. Murray, M. Hasegawa, Y. Matsuda & T. Inagami: Nature, 351, 230 (1991).

13) T. Ichiki, P. A. Labosky, C. Shiota, S. Okuyama, Y. Imagawa, A. Fogo, F. Niimura, I. Ichikawa, B. L. Hogan & T. Inagami: Nature, 377, 748 (1995).

14) T. Senbonmatsu, S. Ichihara, E. Price Jr., F. A. Gaffney & T. Inagami: J. Clin. Invest., 106, R25 (2000).

15) 稲上 正,御園邦雄,岡村富夫,成瀬光栄,成瀬清子:化学と生物,22, 150 (1984).

16) T. Inagami: Hypertension, 32, 953 (1998).

17) F. Suzuki, T. Nakagawa, H. Kakidachi, K. Murakami, T. Inagami & Y. Nakamura: Biochem. Biophys. Res. Commun., 267, 577 (2000).

18) F. Suzuki, M. Hayakawa, T. Nakagawa, M. N. Uddin, A. Ebihara, A. Iwasawa, Y. Ishida, Y. Nakamura & K. Murakami: J. Biol. Chem., 278, 22217 (2003).

19) A. Ichihara, M. Hayashi, Y. Kaneshiro, F. Suzuki, T. Nakagawa, Y. Tada, Y. Koura, A. Nishiyama, H. Okada, M. N. Uddin et al.: J. Clin. Invest., 114, 1128 (2004).

20) T. Inagami, T. Nakagawa, A. Ichihara, F. Suzuki & H. Itoh: J. Am. Soc. Hypertens., 2, 205 (2008).