巻頭言

人生における“優柔不断”のすすめ

Hiroyuki Horiuchi

堀内 裕之

東京大学名誉教授

Published: 2025-02-01

人生というものは何が転機になるか非常に不確定である.私は今から50年近く前に東京大学の理科2類に一浪後に入学したが,受験の際に理科の科目として選択したのは「生物」と「物理」の2科目であった.それ故,その2年後に自分が農芸化学科に進学し,博士の学位を取得後大学で定年退職を迎えるまで「農芸化学」という学問と向き合った人生を送ることになるなど夢にも思っていなかった.

私の所属していた大学では,大学2年の前期の終わりの夏休み明けに3年以降に進学する学部・学科(当時)を決めることになっていたが,その夏休みに,同じ大学に現役合格して3年生になっていた高校の同期生に偶然出会った.その際,その友人から進学先として希望している学科のことを聞かれ,まだ進学希望先を決めかねていたことから自分の興味のある学問領域について話したところ,農芸化学科への進学を勧められた.大学受験で「化学」を選択しておらず「化学」が名前に含まれる農芸化学科を勧められたことは全く予想外であり非常に驚いた.そこで大学から配布されていた全学部全学科が掲載されている進学ガイダンスブックで農芸化学科の紹介部分を読んだところ,これはもしかしたら自分に向いているかもしれないと思ったのを記憶している.さらに農芸化学がカバーしている学問分野が非常に広いことから,その当時まだ自分の将来が見えていなかった優柔不断な自分にはその点も合っているのではないかと思った.その後長年にわたって農芸化学の分野に携わることになったが,私が農芸化学科に進学することになったのは,進学先希望学科提出直前に起こった全くの偶然によるものであった.農芸化学は基礎から応用に至るまで非常に幅広い学問分野で,どのような研究に対しても比較的寛容で自分の興味にあった研究を進めることができ,とても幸運だったと思う.

農芸化学に関連した長年の研究生活の中で,今から10年近く前に偶然,Planned happenstance theory(K. E. Mitchell et al., J. Counseling Development, 77, 115–124(1999))(計画的偶発性理論)の存在を知った.この理論は,スタンフォード大学のKrumboltz教授(当時)らが発表したもので,米国民の80%程度は自身が若い頃に描いていた将来の職業とは異なる職業についており,その職業選択には偶然が少なからず影響を与えていることから,偶然が起こるような機会に自ら積極的に参加し,様々な経験を積むことによって未来を構築することに繋げることを推奨するというものである.詳細は原著論文またはWeb上でいくつかそれに関する記事が日本語を含めて掲載されているのでそれらを参考にしていただければと思うが,その理論の中ではKrumboltz教授らは「Indecision」(優柔不断)を「Open-mindedness」(先入観なしで物事を見る)という言葉に置き換えて,自身の将来を決める上で「Indecision」は悪いことではなく,むしろ推奨できることであると述べている.

グローバル化やIT, AIの発展により世界は急速に変化し複雑化している.このような状況下では,予め描いたゴールや明確な目標に固執するのではなく,偶然によって訪れた想定外のチャンスを逃さない柔軟さが重要であると考える.学生をはじめとする若人たちにはぜひともこのような柔軟性を持つことの重要性と価値を理解し,先入観を捨て,多角的な視点を取り入れる姿勢を大切にしてほしいと思う.