巻頭言

「学びの場」いろいろ

Yasuhiko Asada

麻田 恭彦

香川大学名誉教授

Published: 2025-07-01

本誌巻頭言の執筆依頼を頂戴した.光栄ではあるが,元より浅学非才の身である上に,すでに研究・教育からは一歩退いた立場にある.それ故,学術的なこと,高尚な内容を書くことなど出来ようもない.瀬戸内寂聴さんも「身の丈に合わないことはしないほうがいいです.その無理が苦労の種になるのです.」とおっしゃっている.そこで本稿では,巻頭言には重きに欠けるが,私が異なる3つの教育現場を体験して感じたことをとりとめのない雑感として書かせて頂きたいと思う.

私は約40年間を香川大学農学部教員として過ごし,退職後,縁あって予備校の非常勤生物講師を3年間,並行して放送大学香川学習センターの客員教授を5年間,体験する機会を得た.同じ「学びの場」とは言え,見えた景色はそれぞれで不思議なほど違っていた.

大学以外の教育現場も経験しようと軽い気持ちで始めた週3日の予備校講師であるが,それは想像を遥かに絶する苦難の道であった.私は生物の入試問題作成の担当歴がなく,それ故,最初に教科書を読んだ時には,そのレベルの高さに驚愕した.必死で勉強したが,大学での授業にも,これだけの労力を費やしていたらなぁ,と遅まきながら悔恨の情を抱いた.また,受験というただ一点にフォーカスして効率性を重視せざるを得ない授業に,大学の授業にはなかった「息苦しさ」を感じることがあった.ただ,農芸化学分野に関心を持つ生徒は思いのほか多く,嬉しく思ったことを付記しておきたい.

放送大学での体験は文句無しに楽しいものであった.放送大学は通信制の大学であるが,各都道府県に通学制大学のキャンパスに相当する学習センターが設置されている.私は香川学習センターで対面の授業とセミナーを担当させて頂いた.放送大学の大きな特色は年齢や社会属性において実に多様な学生が学んでいることである.私の授業やセミナーでも,私よりもご年配の受講生がいつも半数以上を占め,最初はどうなることかと戸惑ったが,それは全くの杞憂であった.受講生の方々の純粋に学びたいという向学心と学習意欲の高さを強く感じた.学びたいことが明確にあり,そのため主体的に学習に取り組むという,言わば学びの本質をそこに垣間見た気がした.香川大学では非才の身の悲しさ,一方通行の授業しかできなかったが,ここでは受講生の積極的な学びの姿勢に助けられ,いつも活発に意見や質問が飛び交う,人間的な双方向的・対話的な授業を進めることができた.私は教えると同時に,たくさんのことを学びもした.そんな「学びの場」が楽しくないわけがない.いつも私自身の学習意欲も掻き立てられた.自慢めいて恐縮だが,私の授業とセミナーは受講生から過分な高評価を頂いた.教える側の楽しいと思う気持ちが受講生にもそのまま伝わった結果なのだろう.楽しいとは思えなかった香川大学での授業を忸怩たる思いで振り返った.

また,放送大学では「生涯学習」を身近に実感することになった.世界的ベストセラー「ライフ・シフト」によると,「人生100年時代」では従来の「教育–仕事–引退」という3ステージの人生から,ステージの移行を数多く経験する「マルチステージ」の人生に突入することが予測されている.そこで必要になるのは生涯「変身」を続ける覚悟であるらしい.そうすると,放送大学が掲げる「生涯学習」や「リカレント教育」が,まさに人生のキーワードとなり得るだろう.また,和田秀樹氏の著書「70歳が老化の分かれ道」では,人生100年時代を迎えたこれからは70代の過ごし方がその後の老いを決める,とされている.そう言えば,放送大学で長く学び続けている70代80代の学生は皆さん一様に若々しく心身ともに頗るお元気である.齢70の私も負けてはいられない.そうだ,放送大学で今度は学生として,文学や芸術など,これまで学ぶ機会のなかった分野に挑もう,そして自分自身を高め若々しさを維持しよう.

苦しみながらこの拙文を捻り出したおかげで,「70代をいかに生きるか」という,予てからの懸案事項に一筋の光明を見出すことができた.有難いことである.感謝の気持ちを込めて小文を閉じよう.