巻頭言

多様な軌跡,ひとつの志

Shun’ichi Kuroda

黒田 俊一

大阪大学産業科学研究所

Published: 2025-09-01

世の中には,ひとつの研究テーマに生涯を捧げ,大きな成果を挙げる研究者が数多く存在する.研究者として約40年が経過した今,私自身を振り返ると,どうもそのような「一本道」とは異なる道をたどってきたように思う.

私の出自は,福岡で農家向けの種苗会社を営んでいた母方の実家にある.その影響から,幼少のころより農学部に進むことを疑わなかった.大学では先端的研究を行う農芸化学科に進み,そこで遺伝子工学を用いた医薬品開発という,当時としては画期的な技術に出会い,私の進路に大きな転機をもたらした.

修士課程修了後の1986年,私は進路を転じて製薬会社に就職し,当時珍しかった生物工学研究所の研究員になった.そこではB型肝炎ワクチンの基礎研究から臨床試験に至るまで携わる機会を得た.当時,他の多くの生物製剤が副作用や投与法の問題で開発中止に追い込まれる中,このワクチンは稀に見る成功例であった.だが同時に,当時の生物製剤開発技術には限界も感じ始めていた.

そんな折,共同研究をしていた神戸大学医学部の西塚泰美先生からの誘いもあり,より自由な研究環境を求め,1994年に神戸大学バイオシグナル研究センターに移籍し,細胞内情報伝達の中心的酵素であるProtein Kinase Cの研究に従事した.その後,学生時代の恩師からの誘いを受け,1998年に大阪大学産業科学研究所に助教授として着任し,研究代表者として独自の研究を始めることになった.製薬会社での経験から「in vitroでは良好でも,in vivoでは効果を発揮しない」課題に着目し,研究の主軸を薬物送達システム(DDS)開発に大きく転換した.

注目したのは,B型肝炎ワクチンの抗原(中空ナノ粒子)である.この表面構造がウイルスの外皮と極めて類似しており,ヒト肝臓に高効率かつ特異的に感染する性質を有することから,この抗原を「バイオナノカプセル(BNC)」と命名し,ヒト肝臓組織を移植したマウスで薬物動態を解析したところ,狙い通りヒト肝臓組織のみに集積することを発見した.その後,2002年にスタートアップ企業を設立し,2009年から名古屋大学大学院生命農学研究科において,化合物・遺伝子・タンパク質の封入法,標的組織の改変法,免疫回避法,細胞内送達法など,ウイルスが有する高機能性を活かす技術開発を展開した.しかしながら,当時の国内にはDDSを応用した医薬品の製造基準が未整備で,CMC(製造管理・品質管理)の難しさもあり,10億円近い投資を受けながらも実用化は容易に進まなかった.2015年に再び産業科学研究所に戻り,BNCの構造的特徴に注目して,ナノ粒子表面に抗体などのバイオセンシング分子を高密度かつ方向性をもって提示することで,同分子の機能を100%近く活用できるバイオセンサーのプラットフォーム技術を開発し,複数の診断薬企業への技術導出にも成功した.

研究者としての残り10年を意識する中で,社会実装を視野に入れた,より短期的に成果が見込めるテーマを模索するようになった.そして,AI時代の進展とヒューマンセントリックな技術への関心の高まりを背景に,ヒト五感のうち唯一デジタル化が難しかった「嗅覚情報」に注目した.匂いは従来,匂い分子組成や官能試験士の主観で表現されてきたが,それでは他者に嗅覚の実感を正確に伝えることができない.そこで,神戸大学時代に培った細胞内情報伝達解析技術を応用し,ヒト鼻腔に存在する約400種類の嗅覚受容体を個別に発現させた細胞を用いた「セルアレイ型匂いセンサー」を開発し,ヒト嗅覚が感じる全ての匂いを約400次元のパラメータで数値化することに成功した.2017年にはこの技術を基盤とするスタートアップ企業を設立し,匂い・香り産業のDXを推進している.現在,大阪・関西万博で通期展示を行っており,将来的にはリアルタイムで匂い情報を遠隔地に送信・再構成する技術の実現を目指している.

このように,私の約40年の研究生活は,一見すると一貫性に乏しく,分野横断的に映るかもしれない.しかしその根底には常に,「生物工学的手法を通じて社会に貢献する技術を創出したい」という志があった.こうした姿勢もまた,農芸化学の柔軟で実学的な精神を体現する農芸化学研究者の一つの在り方ではないかと考えている.