Kagaku to Seibutsu 63(10): 433 (2025)
巻頭言
気候変動と農芸化学
Published: 2025-10-01
© 2025 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2025 公益社団法人日本農芸化学会
かつては“異常気象”と呼ばれていた猛暑が,今や“日常”になりつつある.地球温暖化の影響で,世界各地で極端な高温が頻発し,日本でも「観測史上最高気温」が更新される年が続いている.今年も40℃を越える猛暑の報告が相次ぎ,「来年こそはもう少し涼しく」と毎年願っては,その度に期待は裏切られてきた.こうした気候変動は,農業や食糧生産,さらには私たちの暮らしにも深く関わっている.自然の中で生物は,環境の変化に応答しながら生きている.その仕組みを分子レベルで理解し,より良い形で社会に生かそうとするのが,農芸化学の目指すところだ.生命現象を化学的視点から見つめ直し,農や食,環境,健康といった分野に貢献してきたこの学問は,気候変動の時代にあって,その重要性を高めている.
私が植物の環境応答に関する研究を始めたのは,1989年春,ロックフェラー大学での留学を終えて帰国した時だった.当時からすでに温暖化の影響が世界各地で報告され,高温や干ばつによる農作物への被害が顕在化しつつあった.植物分子生理学を専門とする私は,植物が環境ストレスにどう応答し,耐性を獲得するのかを解明したいと考えた.理化学研究所,国際農林水産業研究センター(JIRCAS),東京大学,東京農業大学と研究環境を変えながらも,植物の乾燥,高温,低温といった非生物学的ストレス応答の解明に一貫して取り組んできた.特に乾燥ストレスでは,耐性獲得に関与する遺伝子群や,それらの発現を制御する転写因子の働きに注目した.植物はその場に根を張って生きるため,環境変化に対して動物とは異なる戦略を取らざるを得ない.植物ホルモン・アブシシン酸(ABA)を介する応答経路やABA非依存的な経路など,植物特有の複雑で洗練された制御ネットワークが見えてきた.
高温ストレス応答では,熱ショックファクター(HSF)と呼ばれる転写因子が中心となる制御機構が,植物や動物を含む多くの真核生物に共通して存在していた.特に植物ではこのHSFの種類が非常に多く,20~30種以上が確認されている.それぞれが異なる構造や機能を持ち,転写カスケードを形成して応答を増幅する役割も担っていた.さらに,植物特異的な転写因子がその下流に存在し,極端な高温や長期的な高温にも柔軟に対応できる仕組みを備えていた.
これらの環境ストレス応答で機能する遺伝子群は,形質転換植物中でその構造や発現を変化させることで,高いストレス耐性を付与できることが示されている.こうした研究は,農芸化学の中でも植物科学の領域に属し,分子レベルの知見が作物改良や栽培技術の工夫につながる可能性を示している.動物や微生物科学の分野でも,応用につながる多くの研究成果が得られている.農芸化学は「すぐに役立つ」技術を目指すばかりでなく,生物の生き方や環境との関わりを見つめ直す姿勢を大切にしてきた学問でもある.研究者一人一人がそれぞれの専門分野でテーマを見出し,試行錯誤しながら得られた知見は,互いに関わりながら農業や食や健康,さらに社会で役立つ新たな知見へとつながっていく.
気候変動や環境問題が深刻さを増すなか,農芸化学の視点から生物の営みを理解し,それを社会に活かすことが,これまで以上に重要になっている.今後の発展には,高精度ゲノム編集や統合オミクス,AIによる生物情報の解析や予測,画像解析による表現型評価などの新技術との連携が不可欠だ.こうした技術の活用により,複雑な環境下での生物の応答がより深く理解され,基礎研究と応用との橋渡しが一層進むことが期待される.