巻頭言

農芸化学の伝統とこれから

Haruhide Mori

春英

北海道大学大学院農学研究院

Published: 2026-05-01

北海道大学は,本年創基150周年を迎える.1876年(明治9年)に札幌農学校として開校した当時,札幌の町はまだ“設置中”であり,鉄道も通っていなかった.札幌農学校は,クラーク博士が学長を務めていた米国マサチューセッツ農科大学をモデルにした教育制度を取り入れて,幅広い教育を行う日本初の学位授与機関となった.開校時,農学,農業実習等とともに主要科目として「Agricultural and analytical chemistry(農化学及分析化学)」が据えられ,翌年には化学実験設備を備えた化学講堂が竣工した.日本農芸化学会は2024年に創立100周年を迎えたが,日本の高等教育における農芸化学は150年前ここに始まったといえる.

150年は確かに長いが,その4割程度を占める自身の年齢を物差しにすれば,実感が全く及ばないほどの長さではない.しかし,その間の社会の変化や生活様式の変容には驚くばかりである.農芸化学もまた,劇的進化を遂げながら社会の変化に貢献し,生命・食品・環境を支えてきた.本会ウェブサイト「農芸化学会の歴史」や先般発刊の「創立100周年記念誌」には,これまでの代表的成果がまとめられている.例えば,技術賞の対象分野の変遷を見ると,従来からの発酵,バイオプロセス,酵素応用等に加え,近年の機能性食材研究の急増が一目瞭然である.そして実際に機能性食材は一般に浸透して食生活を豊かにし彩りを与えている.

糖質関連酵素を専門とする筆者自身の経験を振り返っても,隔世の感がある.「ブラックボックス」と説明されていた酵素は,実体を獲得し,塩基配列を用いて容易に生産され,構造に基づき分類整理された.回顧すれば,学生当時,デスクで使う道具は紙とペンと電卓,雲形定規とタイプライターで作図をし,文献はCurrent Contentsでキーワード検索をして図書館でコピーした.文字通り,手足でこなしていた.今や情報社会,そしてAIの登場である.タンパク質の立体構造はノーベル賞受賞技術のAIで予測する時代である.

この先,どこへ向かうのか.学会の100周年記念サイトの「Future Map」が掲げる37件の将来技術は多彩で面白い.草創期の映画ジョルジュ・メリエスによる「月世界旅行」の例をあげるまでもなく,夢は将来に向かう灯台だ.研究費獲得のための申請書で語る,課題解決に向けた現実的な構想も必要だが,特に若手には,制限なく自由に楽しい夢を語り合ってほしい.そして「現実離れしている」と笑われるような研究課題に取り組む気概と余裕と豊かなアイデアを持ちたい.

現実世界から取り出した限られたデジタル情報を繋ぎ合わせて,デジタル世界に現実世界を再構築する.これに基づけば,理論が未解明であっても現象の予測が可能となる.これが管見ながら筆者が認識するAIである.多数の因子が絡み合う現象を対象とする農芸化学では,AIを活用した現象予測の研究が今後飛躍的に増えるに違いない.良質な学習情報の提示による現象再現を実現したその先で,新たな理論構築を含む複雑系の飛躍的理解が次々と達成されるのは,夢と言うより,近い将来の現実かもしれない.

科学も社会も間違いなく変化していく.ただ,社会が科学がいかに変貌を遂げようとも,自然に対峙する者の基本のキ「真実を正確に記録する」,この重さは,この150年も,そしてこの先も,変わることはない.