解説

シストセンチュウふ化促進物質の不斉全合成

Asymmetric Total Synthesis of Hatch-stimulating Agents of Cyst Nematodes

Keiji Tanino

谷野 圭持

北海道大学大学院理学研究院Faculty of Science, Hokkaido University ◇ 〒060-0810 北海道札幌市北区北10条西8丁目 ◇ Kita 10, Nishi 8, Kita-ku, Sapporo-shi, Hokkaido 060-0810, Japan

Published: 2015-01-01

ソラノエクレピンAは,ジャガイモシストセンチュウ(PCN)のふ化促進物質としてジャガイモから発見された超微量天然物である.国内外での活発な合成研究にもかかわらず,極めて複雑な分子構造を有するためにその合成は困難を極めていた.筆者らは独自の戦略に基づき,市販の化合物から52工程の変換を経てソラノエクレピンAの世界初の不斉全合成に成功した.生物試験において,合成品は極めて低濃度でふ化促進活性を示したことから,PCN根絶を目指した応用研究が期待される.

はじめに

ジャガイモシストセンチュウ(Potato Cyst Nematode; PCN)はジャガイモの根に寄生する1ミリメートル以下の細長い小生物であり,その収穫に甚大な損害を与える(図1, 2図1■シストセンチュウ被害を受けたジャガイモ圃場図2■ジャガイモシストセンチュウ(PCN)の拡大写真).卵からふ化したPCNの幼生は寄主作物の根に体ごと侵入して栄養を摂取し,成熟した雌はやがて数百個の卵を内包したまま死んでシストとなる(図3図3■ジャガイモの根にびっしりと付着したシスト).

図1■シストセンチュウ被害を受けたジャガイモ圃場

図2■ジャガイモシストセンチュウ(PCN)の拡大写真

図3■ジャガイモの根にびっしりと付着したシスト

PCNの寄主作物はジャガイモやトマトなどナス科植物に限定されており,他科の植物に寄生することはできない.このため,収穫後の圃場に残存したシストは,その硬い殻で乾燥・低温や殺虫剤から卵を保護し,寄主作物が植え付けられるまで10年以上も休眠状態を続ける.その特異な生態に対する輪作や農薬の有効性は低く,ひとたび侵入を許してしまうと汚染圃場からのPCNの根絶はほとんど不可能となる.

PCNによる汚染は,主に土壌や作物とともにシストが移動する人為的要因によって拡大し,その被害は世界五十数カ国に及んでいる.わが国では,1970年代に北海道の後志地域でPCNの発生が確認されて以来,諸対策が講じられているにもかかわらず本州や九州を含む他地域への拡大が続いている.このような背景から,PCNを根絶する方法の開発は世界レベルで待ち望まれてきた課題である.

ダイズシストセンチュウふ化促進物質の発見

シストセンチュウのふ化が,寄主作物の根から分泌される何らかの物質によって引き起こされることは,すでに1920年代に指摘されていた.しかし,その本体が何であるのかは,60年後にマメ科植物に寄生するダイズシストセンチュウのふ化促進物質としてグリシノエクレピンAが発見されるまで不明であった.

すなわち,北海道大学理学部化学科の正宗 直らは,インゲン豆の乾燥根から得た抽出物を原材料として,ダイズシストセンチュウのふ化促進物質を探索した.最初に得られる抽出物は,さまざまな構造を有する多種類の有機化合物を含む混合物である.これをいくつかの画分に分離してふ化活性を測定し,活性を示した画分をさらにいくつかの画分に分け,各々のふ化活性を測定する.このような作業を気が遠くなるほど繰り返した末に,100キログラム以上のインゲン豆の乾燥根から50マイクログラムの有機化合物が単離され,グリシノエクレピンAと命名された(1)1) T. Masamune, M. Anetai, M. Takasugi & N. Katsui: Nature, 297, 495 (1982).図4図4■グリシノエクレピンA(右)とソラノエクレピンA(左)の化学構造式).そのふ化促進活性は極めて強力であり,水1ミリリットル当たり1ピコグラム(ドラム缶1杯の水に対して0.2マイクログラム)の低濃度で効果を示した.つづいて,正宗らによってグリシノエクレピンAの分子構造が決定されると,その全合成が世界的に競われることとなった.最初の不斉全合成は正宗グループの村井章夫らによって達成され,合成されたグリシノエクレピンAが天然物と同等の活性を示すことが実証された(2)2) A. Murai, N. Tanimoto, N. Sakamoto & T. Masamune: J. Am. Chem. Soc., 110, 1985 (1988)..これら一連の研究は,生命現象の解明において有機化学が決定的役割を果たした金字塔ともいうべき事例の一つである.

図4■グリシノエクレピンA(右)とソラノエクレピンA(左)の化学構造式

ジャガイモシストセンチュウふ化促進物質ソラノエクレピンA

この先駆的研究に続いてPCNのふ化促進物質が探索された結果,1990年代に入ってオランダのMulderらによりジャガイモの水耕栽培液からソラノエクレピンAが発見された(3)3)  J. G. Mulder, P. Diepenhorst, P. Plieger & I. E. M. Bruggemann-Rotgans: CT Int. Appl. WO 93 02 083, 1992. .その分子構造はX線結晶解析によって決定され,グリシノエクレピンAと共通するいくつかの特徴が見いだされた(図4図4■グリシノエクレピンA(右)とソラノエクレピンA(左)の化学構造式).すなわち,分子左側にはエーテル渡環部と2つのメチル基を含む6員環を有し,右側にはカルボン酸側鎖を備えた6–5縮環骨格が存在している.両者の類似性から,ダイズシストセンチュウとジャガイモシストセンチュウが共通の祖先から分かれた歴史が伺われ,誠に興味深い.

ソラノエクレピンAの分子構造が発表された直後から,その合成研究が世界中で競われることとなった.グリシノエクレピンAも複雑な構造を有する合成困難な化合物であったが,その全合成は正宗らを筆頭に4例が報告されている.一方,ソラノエクレピンAはグリシノエクレピンAに類似の構造を含みながら,両者で異なる以下の2点がその合成を極めて困難にしている.すなわち,(1)分子右側の6–5縮環骨格上に架橋した4員環,(2)多数の酸素が結合した7員環,の2つをいかに構築するかが最大の問題点である.国内外での活発な合成研究の結果,個々の問題に対する解決法は何通りか提案されてきたが,ソラノエクレピンAの全合成に行き着いた化学者はいなかった.

ソラノエクレピンAの全合成

動植物や微生物が少量産生する「天然有機化合物(天然物)」を,生物の力を借りずに実験室で合成することを「全合成」という.市販の単純な化合物から出発し,さまざまな試薬を駆使した合成反応を次々と適用して徐々に分子構造の複雑さを増していき,生物由来のものと同一の化合物に到達した時点で完成となる.全合成の意義は複数あるが,特に重要な点として,(1)報告された天然物の分子構造が正しいか否かの検証,(2)部分的に天然物と構造が異なる類縁体を供給,(3)新たな有機反応を発見・開発する機会を提供,などが挙げられる.この分野は,医薬品や農薬の開発研究と深い関係にある.

本稿においては,大幅に簡略化した合成スキームを示すにとどめるが,市販の化合物1から出発して52回の有機合成反応を適用することでソラノエクレピンAの全合成に成功した(4)4) K. Tanino, M. Takahashi, Y. Tomata, H. Tokura, T. Uehara, T. Narabu & M. Miyashita: Nat. Chem., 3, 484 (2011).図5図5■ソラノエクレピンAの全合成スキーム).先に挙げた問題点「分子右側の6–5縮環骨格上に架橋した4員環」の構築は,化合物2の分子内環化反応を用いて乗り越え,問題点「多数の酸素が結合した7員環」の構築は,フラン誘導体3の分子内付加環化反応によって解決した.なお,研究に着手してから全合成の達成までに7年の歳月が必要であった.

図5■ソラノエクレピンAの全合成スキーム

「5 steps」は5回の反応を行ったことを表す.

合成ソラノエクレピンAの活性試験と今後の展望

全合成が完成して初めて,農学分野に人脈がないことに気づいた筆者は,北海道大学のデータベースで「センチュウ」をキーワードに専門家を探し求めた.その結果,農学研究院の近藤則夫教授が快く相談に乗ってくださり,農業・食品産業技術総合研究機構北海道農業研究センターの奈良部 孝博士と植原健人博士を紹介していただいた.日本に数名しかいないというジャガイモシストセンチュウの専門家が,地元の札幌市で2人も見つかったことは僥倖というほかない.早速,共同研究を申し込んで活性試験を担当していただくことになり,確かに合成品が低濃度でPCNのふ化促進活性を示すことが,短期間で証明できた.

以上の成果をまとめた論文は,2011年5月にNature Chemistry誌に掲載され,全国紙の記事で紹介されて社会的な反響を巻き起こした.さらに,関連する専門紙誌や道内の農業関係団体からの問い合わせも相次ぎ,ジャガイモシストセンチュウによる被害の深刻さと,その根絶を願う関係者の期待を改めて深く認識した次第である.

PCNはナス科植物以外に寄生することはできないため,ほかの作物を栽培中の圃場にふ化促進物質を散布すれば,ふ化した幼虫はやがて餓死するしかない.奈良部博士はこの環境調和型シストセンチュウ駆除法を以前から検討しており,ふ化促進物質としてトマトの水耕栽培液を用いた実験においてその有効性が確認されている(5)5) 奈良部 孝:農業および園芸,83, 595 (2008)..さらに,大量の水耕栽培液の輸送コストを考慮し,固体担体への吸着濃縮などの工夫も行われている.

これらの知見に,合成品のソラノエクレピンAを組み合わせることができれば,より実用的な駆除法の開発に道が拓かれることになる.ただし,52回の反応を経て合成されるソラノエクレピンAの供給量は限られることから,その分子構造をモチーフとした,より単純な構造を有する代替品の開発が望ましい.この背景のもと,平成24年度から農林水産省のレギュラトリーサイエンス新技術開発事業「ジャガイモシストセンチュウの根絶を目指した防除技術の開発と防除モデルの策定」が発足した.筆者らは,大量供給可能なふ化促進物質の創製によるPCNの根絶を目指し,共同研究に取り組んでいる.

Acknowledgments

ソラノエクレピンAの全合成研究において,ご指導を賜りました北海道大学名誉教授の宮下正昭先生に感謝いたします.また,北海道大学の大学院生として実験を担当してくれた遠又慶英博士,高橋基将博士,戸倉弘嗣氏,合成品のふ化活性試験を担当していただいた北海道農業研究センターの奈良部 孝博士と植原健人博士に御礼申し上げます.

Reference

1) T. Masamune, M. Anetai, M. Takasugi & N. Katsui: Nature, 297, 495 (1982).

2) A. Murai, N. Tanimoto, N. Sakamoto & T. Masamune: J. Am. Chem. Soc., 110, 1985 (1988).

3)  J. G. Mulder, P. Diepenhorst, P. Plieger & I. E. M. Bruggemann-Rotgans: CT Int. Appl. WO 93 02 083, 1992.

4) K. Tanino, M. Takahashi, Y. Tomata, H. Tokura, T. Uehara, T. Narabu & M. Miyashita: Nat. Chem., 3, 484 (2011).

5) 奈良部 孝:農業および園芸,83, 595 (2008).