巻頭言

鈴木梅太郎著「研究の回顧」を読む

小野寺 一清

Kazukiyo Onodera

工学院大学Kogakuin University ◇ 〒163-8677 東京都新宿区西新宿1-24-2 ◇ 1-24-2 Nishi-shinjuku, Shinjuku-ku, Tokyo 163-8677, Japan

Published: 2015-01-20

鈴木梅太郎先生は1874年に生まれ1943年に持病の腸閉塞に悩まされたが69歳の天寿を全うされました.

明治,大正,昭和を生き昭和18年湯川秀樹博士とともに文化勲章を受賞され同年9月に逝去されました.昨年東京大学農学部,生物化学研究室創立120周年記念の講演会と祝賀会が催されて楽しいひと時をもつことができました.計画された東原和成教授はじめ研究室のスタッフに心から御礼申し上げます.講演会で梅太郎先生について,話をすることを依頼されました.そこで先生の残された「研究の回顧」を読み,先生ゆかりの故郷を訪ねることにしました.本書は一般の人たちに行った講演集ですが,いつ誰に向かって話されたかが記載されておりたいへん几帳面な先生であったことが推測されます.研究というのは回顧することはできるが,予見することは不可能であることを繰り返し語っています.履歴書は自分の存命中は自身で書いたもの以外の記述は認めない方針でした.先生が14歳のとき学問をするという志を立て,御前崎に近い静岡県榛原郡の故郷を出奔され4日間歩いて箱根を越え,国府津から汽車に乗り東京駅に着いたことが書かれ,1901年に辰野金吾氏の娘,須磨子を妻に迎え,この年ドイツの留学に出発したと書かれています.辰野氏は東京駅の設計者で知られた東京帝国大学の工学部の教授です.顧みてこの出来事が先生は自分の原点であると思われたのでしょう.先生が通った地頭方小学校を訪問しました.二宮尊徳の肖像の数倍もある梅太郎先生の銅像があり,生徒さんたちを見守っています.授業中でしたので,とても静かで太平洋の波の音が聞えてきて,梅太郎先生が子どものときと変わらないような気持ちになりました.

この文章を読んでくださる人は梅太郎先生の研究業績についてはご存じと思いますので,あまり知られていない梅太郎先生の最晩年の仕事について,紹介したいと思います.先生は東京大学教授を退職されて,理化学研究所の創立者である大河内正敏氏の要請もあり,自分も義務と感じられた仕事に一身をささげました.満州国国務院大陸科学院の院長として,1937年から4年間極寒の新京に赴任して,働かれました.「研究の回顧」の中で「新しき土を拓け」「難関拓く科学の力」などの文章として読むことができます.これらの文章から感じられることは,発想の雄大さです.20世紀の民族間の宿命とも言われる争いは,世界の人口増加のスピードに比べて,食糧の生産が追い付けないことに起因するという考え方です.当時すでに行われていた自国では賄うことのできなかった人たちの満州への移民の問題を取り上げています.確かに農作のための土地の広さは日本に比べて広いものであるが,この大地を豊かなものとするために,現地の若者の教育が急務であると強調しています.翻って日本の若者には満州に渡ってきて協力するように強く語っています.大陸科学院の学生には「私がここに来た役割は何かというと,君たちの精神の荒野にはじめて鍬を入れるためである.しかし種を蒔くのは諸君である.自分で蒔いた種を育てよ.」と励ましています.これらの難関を解決するには科学・技術の発展以外に道はないという梅太郎先生の言葉は,ドイツの大学の理念であった「次世代の人材の育成と学問の自由」をもち帰りました.そして先生はこの理念を座右の銘として生きられました.