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森永乳業株式会社食品基盤研究所所長 阿部文明氏

Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry

公益社団法人日本農芸化学会

Published: 2015-05-20

「“おいしい”をデザインする」をコンセプトに,夢のある新たな商品作りと将来に向けた技術革新を行っている森永乳業株式会社.神奈川県座間市にあるきれいな研究・情報センターにて,ご自身の研究開発に対するこれまでの姿勢から若手研究者や研究教育に携わる者へのメッセージまで,熱く語っていただきました.

小学生から研究者?

――こういう道(研究職)に入ったきっかけはありますか?

阿部 子どもの頃から,いわゆる生き物が好きで,いろいろな生き物を飼っていました.モンシロチョウの幼虫から始まって,オタマジャクシ,メダカ,カニとか,カミキリムシ,カマキリ,コオロギ,スズムシや,変わったところではミジンコ,ウミウシやアリジゴクなどを飼っていました.皆さんが普段飼わないだろうなというものまで飼いましたね.

――小学生の頃ですか?

阿部 そうですね.生物が好きで,川に行っては捕まえ,遠足で三浦海岸などへ行くとヤドカリやウミウシを捕まえ,家にもって帰ってきていました.生まれは横浜なのですが,小学校から高校まではずっと東京でしたので,遠足で三浦海岸,高尾山,鎌倉に行ったときは必ず捕まえていました.今思えば,母親はさぞ嫌だったろうなと思いますが,許してくれていたので,とても良かったと感謝しています.

――世話はご自分でされていたのですか?

阿部 そうですね.この生き物には何をやればいいんだろうかとかそれぞれ調べましたね.ウミウシをもって帰ってきたときには,どうやって海水をつくればいいんだろうか,塩分濃度はどのくらいか,ほかに何を入れればよいのだろうか,温度はどうすればいいのだろうかとかですね.また,水道水だと塩素が入っているので,1日置いてカルキ飛ばしをするなど,そのときに覚えましたね.

――生物が好きだったのですね.

阿部 子どもの頃から,生き物が好きで,理科も好きでした.高校(小山台高校)の生物学の先生がとてもユニークな先生で,最初の授業のときに,わら半紙を配って,そこに一つの細胞の絵を描かせるんですね.そしてこの細胞が生きるためには何が必要なのか? そこには,当然,核があって,DNAがあって,ミトコンドリアがあって,小胞体があって,核小体があってというようなことを描いていくのですが,そのときにその細胞が生きるために栄養素がどのように入って,どのように出ていくのか,また代謝はどのように行われているのか,ということを考えさせる授業をしてくれました.そこで,細胞というのはなぜこんなに不思議なんだろう,生物をやりたい,細胞をもっと見てみたいと一気に興味をもつようになりました.

そのうち,一つの細胞が生きるためには何が必要か,多細胞のときにはどうなのかなども非常に面白くなって,それしか勉強しませんでした.そのため,ほかの成績は悪かったんですけど(笑).

――いい先生にめぐり遇われましたね.

阿部 私としては一つの大きな分岐点でしたね.その頃は,農芸化学というところは全然頭になく,ただ生物学を勉強したい,理学部生物へ行きたいと思っていました.しかし,その生物の先生が,「お前のやろうとしていることは,大学から社会に出たときに応用があまり利かないんじゃないか.大学や高校の先生になるとかそういう場合ならいいけど,研究者みたいなことをやりたいなら,農芸化学という分野があるぞ」と教えてくれました.それで,農芸化学の大学を調べ,そっちへ行ったんですね.その先生がいらっしゃらなければ,全く違う分野に行っていたでしょうね.

またちょうどその頃,バイオテクノロジーという言葉が流行っていて,大腸菌の遺伝子組換えなどを見て,もうバクテリアをやりたいっていうのがありましたね.もともと小学生の頃から,将来何になるのかっていうのは,必ず「研究者」って書いていたのもありますけど(笑).ただ,まだ遺伝子組換え技術もできていない頃で,バクテリアをやりたい,微生物学の研究室があるところがいいということで,いろいろ大学を調べましたね.

大学での研究生活

――今でこそインターネットやオープンキャンパスがありますけど.当時はどのようにしたのですか?

阿部 あの頃は大学のガイドブックみたいなものがあり,各学部にどのような学科があり,どのような研究室があるかっていうのが1行記載で書いてありましたね.そこで,応用微生物学研究室があった茨城大学へ進学しました.親戚も多く,縁があったものですから.親元を離れたいという思いもですね.ただ,応用微生物学をやっているというだけで,何をやっているのかというのはわかっていませんでしたが…….

1年生の頃は一般教養で,2・3年生のときは専門科目の勉強でしたね.3年生の後半で研究室を選ぶというところで,私は迷わず応用微生物学研究室でした.その頃,応用微生物の研究室は2つあり,一つは土壌細菌とか窒素固定菌を対象にしている研究室.もう一つは遺伝子組換えに取り組んでいる研究室でした.当時は,技術がまだ発達していなかったので,遺伝子が入るのかどうかみたいな感じでしたが,迷わずそちらの研究室を選びました.

そこで,白井 誠先生とお会いしました.当時はまだ助手でしたが,ものすごく厳しく,ものすごく熱心な研究者で,いつも夜中の2時ぐらいまでいらっしゃるような先生でした.その先生より早く帰れないので,毎晩2時ぐらいまで研究していましたよ.翌朝9時に来いと言われるんですけど,なかなか来られなくて,寝坊してよく怒られましたね(笑).あの頃は,夏休みも冬休みもほとんどなくて,ずっとこもりっきりでした.一応,日曜日は休みでしたが,やっぱり微生物を扱っていると,毎日の世話をしないと翌日の月曜日からの実験ができませんから,なんだかんだでずっと研究室に来ていましたね.そういう意味では,修士2年までの3年間は,今の研究者としての原点であり,いろいろなことを教わりました.特に研究者として必要なことを厳しく指導されて,本当にそこは良かったと思っています.今みたいにワークライフバランスなんてなかった時代ですからね.先生は,もちろん夜中までやれとは言わないですけど,何となく背中がそう物語っているんですよね(笑).ですから,大学の先生方にいつもお願いしているのは,「厳しく鍛えてください」「そこで甘やかすと本人のためになりませんよ」って言っています.

森永乳業へ入社

――大学院修士のあと,社会に出よう,もしくは博士課程に進学しようという分岐はありましたか?

阿部 博士課程に行こうという気は全然なく,社会に出たい,微生物を活かした研究者になりたいと思い,会社を探しました.農芸化学学会で毎年発表していて,合計3回発表したのですが,そのときほかの企業さんが発表しているのを見て,企業がどのような研究をしているかおおむね理解していました.微生物ということで,酒や醤油などもあったのですが,乳業のヨーグルトは健康という点でヒトとのインターラクションがあるので面白そうだと思い,電話して,「こういうことをやっていて,御社に入りたいのですが,どうすればいいですか」と何社か連絡しましたね.当時はバイオテクノロジーが流行っていたのでいろいろな会社が取り組んでおり,いくつかの製粉会社や化学系の会社も受けていいところまで行っていたのですが,真っ先に決まったうちの会社,森永乳業に決めました.当時の研究所は目黒にあったのですが,面接した日に研究所を見学させてもらい,説明を受けた印象がとても良く,この研究所で働かせていただけるのであればということで,入社を決めました.

――最初から,研究所勤務ですか?

阿部 最初は工場でしたね.それも北海道の中頓別工場でした.もう今はない工場ですが,最北端の地で,宗谷岬から60キロぐらい南に行ったところです.内陸ですから,ブリザードが吹き荒れるようなところでした.冬になると,地吹雪で道路が閉鎖されちゃうんですよ.最初赴任したときは,もうどうなることやらでしたね.旭川駅から,今はない天北線という鉄道に乗って北へ向かうのですが,途中から駅についても森しかなく家が全くなくなるんですね.中頓別町は,ゴールドラッシュで明治時代に栄えて,それ以降は林業・酪農の町になったのですが.東京港区ぐらいの広さに,当時で人口3,000人,牛6,000頭,そして信号が1個か2個しかないような,そんなところでした(笑).

――何年ほどそちらに?

阿部 最初の2カ月間の研修を終えて,6月に赴任して1月中旬に帰ってきましたから,9カ月くらいですね.やっぱり現場のあの工場を経験させてもらったというのは,今となれば良かったのですが,当時はどうなるかって不安でしたね(笑).今でもそうですが,最初は工場に行って,そこから研究所に戻ってくるというパターンが多いですね.ただ,それは約束ではなく,本人たちにも言っているわけではないので,いつ戻ってくるかはわからないですね.1年かもしれないし,3年かもしれないし.

――北海道の工場では何をされていたのですか?

阿部 原料工場だったので,脱脂粉乳を作ったり,バターを作ったり,また牛乳を集めたり,受け入れ作業,積み上げての保管作業など,小さい工場だったので,原料工場のあらゆる業務をやっていましたね.そういう意味では,工場全体の仕事が覚えられたので,そこは私にとっては良かったですね.

――その後はどちらへ配置換えされたのですか?

阿部 当時目黒にあった栄養科学研究所でした.微生物研究室へ配属になったので,私にとって非常に良かったです.今でもそうですけど,大学で専攻したことと関係する研究室へ行けるかというと必ずしもそうではないので.もちろん,大学の研究室でやっていたことが,会社で役立つかどうかって,また別問題ですから.たまたまそこの研究室に人が欲しいということだったのですが,私の場合は非常にラッキーでした.

――微生物研究室では具体的にはどのようなことをされたのですか?

阿部 その微生物研究室では,ビフィズス菌・乳酸菌の研究をしている研究室でしたので,最初は,ビフィズス菌の酸素感受性に関する研究をやらせていただきました.ビフィズス菌は偏性嫌気性菌でありながら,酸素があっても,たとえばその辺の試験管の中でも生育できるんですね.振っちゃうとだめですけど.工場で工業的にビフィズス菌を培養するとき,酸素の影響はすごく大きいので,酸素感受性機構の解明というテーマをいただきました.今ではなかなかないかもしれませんが,そのテーマだけをやれと言われたので,ビフィズス菌自身の性質をよく理解するうえで非常に良かったですね.なぜビフィズス菌は酸素を代謝するのか,その機構は何か,どのような因子を与えると酸素耐性が高まるのかというようなことをしていました.今,工場でいろいろ生産していますが,酸素の問題は重要です.たとえば工場を設計する場合とか,タンクを設計する場合,培養条件を考えるときなどには,そのような基礎研究の成果というのがすごく役に立ちますね.最初から,開発みたいなことをしていると,そういうことは考えられなかったのかなと思います.基礎研究をやらせてもらえたおかげで,論文を書いて,学会で発表してと,2~3年間は集中してやらせていただきました.

永く貢献できる素材や技術を見つける基礎研究

――基礎研究はレアなケースになるのですか?

阿部 今,この研究・情報センターには主に3つの研究所が入っています.食品総合研究所という,いわゆるデザートとかヨーグルトとかチーズを開発している研究所.栄養科学研究所といって育児粉乳とか流動食みたいなものを開発している研究所.そして私がいるところの基盤研究所です.基盤研究所では半分以上は基礎研究をやっています.ただ,ほかの研究所で最終商品の開発をしている人たちは,やっぱりなかなか基礎研究はできず,技術開発を含めた商品開発が中心ですね.栄養科学研究所では,母乳の研究とか赤ちゃんの健康の研究をしているので,基礎研究をされている方はいますが,それほど多くはありません.それ以外にも分析センターという部門も別にありますから,全体でいうと基礎研究は10%ぐらいでしょうかね.

ただ,基礎研究がうちの会社でどれだけ貢献しているかどうかということを考えないといけない.会社に貢献できる基礎研究成果であればいいんですけど,論文を書いただけではダメですからね.現実的には,やっぱり良い商品開発ができる,良い技術をもっていることが非常に役立つと思いますので,本当に10年,20年にわたって,うちの会社を養えるような素材なり,技術を見つけるために基礎研究をやっています.たとえばビフィズス菌.1977年にビフィズス菌の牛乳,78年にビヒダスヨーグルトをつくって,そこからどんどん広げているので,その基礎研究も一生懸命やっています.ラクトフェリンという母乳に含まれているタンパク質もずっとやっていますね.

だから,永くうちの会社にとって貢献できるような素材,あるいは技術を見つけるためにやっぱり基礎研究というのがあるんですね.それが見つけられない基礎研究はたぶんダメです.これは研究所長としての私と会社との闘いになっちゃうんですけど,いい研究から必ずしもいい成果が出るわけではない.いい技術だとしても,それがちゃんと世の中に認められて,5年,10年と続くようになるのはやっぱり時間が必要なんですね.そこをどう見定めるのかが大事だと思います.でも,経営者はそれっていつ金になるんだって発想もありますからね.

――乳業業界はライバル会社との競争が激しいような気がするのですが,いい素材を見つけてそれを継続していく大切さと,また新しいものを開発していくところバランスはどうですか?

阿部 商品をヒットさせるためには,基礎研究とか商品の実力,プラス営業上の努力,仕組み,仕掛け,すなわちマーケティングを含めた販売戦略があるわけで,そこの2つがないとヒットしないんですね.商品によってはマーケティングだけでヒットさせるものもいっぱいありますが,やっぱりいい商品じゃないとなかなか長続きせず,いい商品をいかにつくるかというところが大事です.そこは,われわれの技術の問題ですね.それでは,その比率はということになりますが,会社によっても違うと思います.技術8割で,2割のマーケティングの販売力で展開しているところもあれば,逆に8割のマーケティング力でやっているところもあります.正解はないと思いますが,技術サイドとしては,どんなにマーケティングがあろうがなかろうが,コアとなる技術なり,種となる素材がないと商品になりませんから,基礎研究でそれをつくっていく.ビフィズス菌,ラクトフェリン,あるいはペプチドとか,今はアロエとかやっていますが,そういうことをいかに見つけていくかですね.

海外への展開

あとは,今われわれは海外のほうでもかなり展開していますので,海外のお客様方に対して,どのようなデータや品質があればいいのかということを常に考えています.

――海外に特化した付加価値をつけるということですか?

阿部 そうですね.基本は同じところが多いのですが,日本の消費者が望む価値と,海外のお客様が望む価値って違うんですね.たとえば,日本ではヨーグルトを食べてくださる消費者の方々にお役に立てるデータは何かということを考えてやっていくわけですが,海外の場合は,たとえば健康食品をやっている人たちは,臨床試験の論文がないとうまく製品に使えなかったりするので,そのようなデータを出していかなければならない.育児粉乳になると,赤ちゃんへの効果ということを明らかにしていかなければならないですね.そうすると,ヨーグルトとはまた違う目的になりますから,目的によって研究テーマはいろいろ変わりますね.

――ビフィズス菌は海外ではあまり理解されてなくて,広めるのに苦労なされたという記事があったのですが.

阿部 アメリカでの話で,96,97年頃だったと思いますが,Natural Products Expoというアメリカで最大の自然食品の展示会があったときに,ブースを出して紹介してみたんです.そうしたら,やっぱりビフィズス菌なんか全く知らないですし,「お前らはバクテリアを食べるのか」「感染症を起こすだろ」みたいなそういう時代でした.通りすがりの方を捕まえて,一生懸命説明しようとするんですが,「知らん」「何だ,これは」「お前の英語はよくかわらん」などと言われましたね(笑).

最初のうちは,見向きもされなかったのですが,アメリカのあるメーカーさんが森永のビフィズス菌はとても面白いということで採用していただき,そこから少し広がっていった感じでしたね.カプセルをつくっているメーカーさんだったのですが,そのメーカーさんのブースを飛び込みで訪れ,たまたまおられた社長さんに向かって説明すると,その会社の研究者・開発者の人を呼んでこられて,「これ,どうなんだ」って.ちょうどうちの菌には生理効果のデータもあり,それに加えてカプセルに入れても,2年でも3年でも安定性が良いというデータもそろっていたので,面白いということになり採用されたんですね.

そこをきっかけに,どう説明すると,向こうのお客様に採用されるのかということが何となくわかってきて,そこからそれこそ100社,200社と話をしましたね.あの頃は40歳前後で若かったこともあり,1日に何十社も説明しましたね.キャラバンを組んで,なかなかたいへんでしたが,楽しかったですよ.

このカプセルは,35~36歳のときにその技術をつくったんですね.常温や室温に置いても安定なビフィズス菌の粉をつくるっていう.当時は,菌は冷蔵庫に入れないともたなかったのですが,プロバイオティクスは生きてないと効果がないわけですからね.常温で保存できるものをつくろうということで,それを一生懸命いっとき集中して開発して,できたものを海外にもっていったんですね.アメリカ,韓国,ヨーロッパといろいろなところに行かせていただいて,いろいろなお客様と打ち合わせさせていただきましたね.

――その頃は,夜2時まではやらなかったですか(笑)?

阿部 その頃は会社が許してくれません(笑).菌末をつくるなんて,当時の主流ではなかったわけですね.やっぱりヨーグルト,チーズ,飲料あるいは育児粉乳をつくるのが主流だったんですよ.菌末だの,健康食品だの,原料だのというのはほとんど見向きもされなかったのですが,当時の所長がそういうことをどんどんやれって言ってくださったんですね.それで,自分なりにいろいろ考えて,がむしゃらにやっていましたね.正直,よその研究リーダーからは,「そんな研究はやめろ」と言われたこともありますから.

――でも,それが将来,日の目を見たんですよね.

阿部 そうですね.その頃は金食い虫の研究だったかもしれませんが,やらせていただいたおかげで何とかそれを伸ばすことができ,国内外のいろいろなお客様に喜んでもらえるようなものができ,ビジネスとしても成り立つようになりました.だから,そういう意味では30代後半から40代前半はどんどんやれて楽しかったですね.ビジネスが大きくなってくると注目されるようになり,工場を建てたり,いろいろな要望が来るので難しいことも増えますが.やっぱり自分の技術である消費カテゴリーができ,それ専用の工場ができたというのはうれしいですね.

5つの価値観

これは,うちの研究所スタッフにも常に言っていますが,うちの研究所はビジョンというか,食品基盤研究所WAYというものをつくっていて,その中で「5つの価値観」というのを出しています.一つめは「目標の明確化」で,何を目的にそれをやるのか.次に「消費者のお客様の笑顔」で,優れた技術でもお客様や社会に役立ってこその研究であるので,お客様が笑顔になる研究をしろと.さらに「三本主義」で,今やっている研究が本物か,本質を突いた研究か,本気で取り組める研究かということ.そして「世界基準」で,世界を意識して研究をしなさい,井の中の蛙ではダメということ.そして最後は,ワタミの社長も言っているのですが,「Date your dream」で,大きな夢を見なさい,夢を見ることは大事である,ただそれにdateで日付を付けなさい,そしてそれに向かったスケジュールを立てなさいと.この「5つの価値観」をもちなさいということで,一生懸命すりこんでいます.

――大学の研究室でも使わせていただきます.

阿部 食品基盤研究所は基盤研究を中心としているので,大学の研究室と似ているところはありますね.ただ,目的がやっぱり違います.こちらでも論文は書きなさいと言っています.論文を書くとレフリーからのコメントであったり,新しい発見にもなったり,場合によっては世界基準になる.以前は,学会発表しかしないという人もいたのですが,今は論文を書くよう勧めています.しかし,論文を書くことが目的ではないので,書くための研究ではダメと.また,企業ですから,発表できないデータもたくさんあり,逆に発表できないデータのほうが価値は高いのですが,論文発表するために枝葉の実験もやったりしています.

――どういう人材に来てもらいたいというのはありますか?

阿部 開発系と基礎系でちょっと違うところはありますが,面接官として出たときに思うのは,バイタリティーのある人,めげない人が欲しいですね.会社に入ると,いくらでも課題は出てきますし,上からもガンガン言われますので.ただ,人材採用って難しくて,多様性というのも大事なんですね.同じタイプの人ばかりが集まってもいい成果は出ませんから.だから,単純にある程度そういうことに耐えられる人というのが最低条件かもしれません.

――一番最初に大学の先生は厳しくあれとおっしゃっていましたが,今の学生に求めること,今のうちにやっておいたほうが良いということはありますか?

阿部 そうですね.研究職に就きたいのであれば,やっぱり研究者とは何ぞや,研究とは何ぞや,ということはしっかり勉強しておいて欲しいですね.自主的に自分でやろうとしているのと,先生から言われたことをそのままやっているのとでは全然違います.

あとは,やっぱりその研究とは何ぞや,ということもしっかり勉強してきてもらいたいですね.農芸化学という分野は,食品会社の場合,ものすごい武器になると思っています.無機化学,有機化学,土壌学,酵素,微生物,生化学,さらには遺伝子などいろいろなことをやるわけですよね.だから,どこの職場へ行っても,農芸化学分野出身の皆さんはその引き出しをもっているんですね.必ずしも,自分の専門のところに行けるわけがないですから.

自分の反省にもなりますけど,大学2年生,3年生のときにあるいろいろな授業や実験で必要なことはしっかり学んでおくべきかなと思います.微生物をやりたいのに,何でこんなことをやらなきゃいけないんだ,何でこんな授業を取っているのか,と思いながらでしたが,でも将来必ず役に立ちますね.そういう意味では,農芸化学の良さってその幅の広さかなと思います.

――学生の読者にもぜひ読んで欲しい記事になりそうです.本日は有意義なお話を聞かせていただき,ありがとうございました.

聞き手:竹中麻子(明治大学農学部),松藤 寛(日本大学生物資源科学部)