巻頭言

現象に食いつく

Satoshi Mori

東京大学名誉教授 ◇ 〒113-8654 東京都文京区本郷七丁目3番1号

Professor Emeritus, The University of Tokyo ◇ 7-3-1 Hongo, Bunkyo-ku, Tokyo 113-8654, Japan

Published: 2015-07-20

農芸化学の歴史を紐解くと,土壌を出発点とする農産物の生産・加工・流通・消費・廃棄の,つまり「食べ物の生産現場」での“特異な現象の発見”があって,その原因究明の結果として多くの新規化合物や有用微生物が先人によって発見同定されている.それらを用いて未解明の生命現象を体系的に解明し,一方では新しい品種や食品や農薬や医薬品が開発されてきた.最近では生物への栄養の欠乏症や過剰症以外に,人間の免疫力や脳神経活動への食べ物の効果など,西欧医学を代替する予防医学への寄与も農芸化学の重要な研究ターゲットである.鈴木梅太郎が,精製オリザニンの効果の検定を医学者の協力が得られなくて苦労した歴史を繰り返さないためにも,「農・医連携」が必須である.俯瞰すれば,「高品質の食べ物の持続的提供」と「食べ物による人の健康維持」は,農芸化学の万古不易の研究テーマである.

以上のような農芸化学の歴史が,実習・インターンシップ・学生実験・講義の中で繰り返し後輩に伝承されていれば,大学の農芸化学分野からは,どんな現場でも多様な発想ができる視野狭窄でない人材が社会に輩出されているはずである.自戒して言うのだが,小生は助手に採用されてから,大学の外に飛び出して,公害現場の課題解決型研究を10年ばかり実践して,やっと納得して植物栄養学分野に回帰した.1960年代の高度成長期には農水省は『省力・安定・多収』というスローガンを掲げ,「化学肥料を多投し,作物が徒長して組織が軟弱になり,病害虫にやられると,それを農薬でたたく.すると,農産物を食べる農民や消費者が急性や慢性の疾患になるうえに,自然生態系も破壊される」という悪循環の農政を行っていた.当時の浅学な小生には,このような「人の健康に敵対する近代農業技術体系」に対抗する代替技術の研究が,日本のどこの大学にもない,と思えた.だから有機農業生産現場に積極的に研究課題を探りにいかざるをえなかった,という回り道をした経験がある.

現状では,基礎研究テーマで卓越した研究業績を上げた教員たちが大学では多数を占めている.一度は「たべものの生産現場」で鍛えられて,そこから大学に引き抜かれて,さらに研究者として成長する,という人事のサイクルが今ではほとんど途絶えている.確かに現場のカオスのなかでの課題解決型の研究は,試行錯誤なので直ちにはシャープな論文としての成果が出にくい.だから独創性や先駆性の観点からは,研究業績として直ちには高く評価され難い.しかし,科学史は,その一見「理解不能なカオスの現象」の発見の中にこそパラダイム変換に発展する命題があったのだ,といういくつもの事例を明らかにしている.多くの斬新な発明や発見は現場からの「偶然」の産物なのである.

30年前に国立大学の「農芸化学」分野はこの具体名を解体して「応用生命科学」「応用分子生命科学」「応用生命化学」「応用生命工学」「生命機能科学」などの抽象的分野に解体再編された.しかし,現今ではあらゆる生命科学分野で,分析技術や解析技術が共通化しているうえに資金力さえあれば,生物のさまざまな環境応答を迅速に包括的に遺伝子レベルで解明することが可能になってきた.だから油断すると生命科学一般の中に農芸化学も雲散霧消しかねない.そうならないためには,農芸化学は本来の“食べ物”に固執すべきだ.最初に述べたさまざまな食べ物にかかわる実践の現場で,研究者は常に「特異な現象の発見」に研ぎ澄まされた観察力で注力することが求められている.特殊から一般へ.パラダイム変換を目指して.