Kagaku to Seibutsu 53(8): 494-496 (2015)
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DART-MSを用いた食品におけるフレーバーリリース現象のリアルタイム計測―香りの瞬間を質量分析計で捉える
Published: 2015-07-20
© 2015 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2015 公益社団法人日本農芸化学会
食品のおいしさを,科学的に探究しようとする試みは近年盛んになっており,その中の一つの研究対象としてフレーバーリリースに着目した研究が挙げられる.特に,摂食時に口腔内から鼻に抜ける揮発性成分であるレトロネーザルアロマ(retronasal aroma)に着目した研究が多く,その際の揮発性成分を分析する手法の報告は多い.当初その研究の中心は,喫食時に口腔内を経て鼻腔に到達する揮発性成分を捉えることに注力されていた.これは喫食時に風味に大きく影響を及ぼすのはレトロネーザルアロマであることが知られているためである.しかしながら,本来フレーバーリリースという概念には連続的な時間軸が存在し,個々の揮発性成分の放出の順序や量的な挙動を捉えなければ,風味として認識される現象を説明するには至らない.そのため,人間の咀嚼状態を想定した装置の開発も絶えず行われており,その際に口腔内で食品から放出される揮発性成分を検知する装置として,atmospheric pressure chemical ionization mass spectrometer(APCI-MS;大気圧化学イオン化質量分析計)や,proton transfer reaction mass spectrometer(PTR-MS;プロトン移動反応質量分析計)などの分子イオンを推定できるソフトなイオン化方法を備えた質量分析計を組み合わせて使用してきた(1,2)1) 西成勝好:日本家政学会誌,65, 245 (2014).2) 小竹佐知子:日本調理科学会誌,41, 84 (2008)..しかしながら,これらのデータ取得スピードは,最も速いものでも数秒間に1回程度であるため,食品からのフレーバーリリース,つまり秒単位で食品から放出される揮発性成分の挙動を捉えることは困難であった.しかしながら,筆者らによって2014年にdirect analysis in real time(DART)イオン化装置と質量分析計を組み合わせた新しいシステム用いて,リアルタイムで連続的に食品から放出される揮発性成分を測定できることが報告された(3)3) Y. Kudou, T. Sagawa, T. Nishiguchi & K. Kinoshita: 62nd, American Society for Mass Spectrometry (ASMS) Annual Conference, Abstract, 2014, p. 838..
DARTイオン化とは,2005年にCordyらによって報告された大気圧イオン化法(4)4) R. B. Cordy, J. A. Laramée & H. D. Durst: Anal. Chem., 77, 2297 (2005).であり,その原理は励起ヘリウムによってイオン化された大気中の水分子の影響でイオン化するというソフトなイオン化を特徴(5)5) K. Sekimoto, M. Sakakura, T. Kawamukai, H. Hike, T. Shiota, F. Usui, Y. Bando & M. Takayama: Analyst, 139, 2589 (2014).としているため,分子イオンの推測も可能である.さらに,開放的な大気下でイオン化が行われる構造を考えれば,揮発性成分をイオン化領域に供給し続けることで,質量分析計でのリアルタイム分析も理論上は可能であった.しかしながら,開放的な状態でのイオン化は,揮発性成分の拡散にもつながるため,食品から放出される微量の揮発性成分がイオン化後に効率良く質量分析計に取り込むことができないために,十分な感度が得られなかった.そのため,フレーバーリリースの計測で用いられることはなかったのである.それを解決したのが,DARTイオン化の特徴となるリアルタイムなイオン化の機能を維持し,揮発性成分を感度良く連続的に測定することを可能とした“揮発性成分専用デバイス”の開発である(図1図1■連続的に揮発性成分を測定するシステムの概略図).機能的な部分を簡単に説明すると次のようになる.通常DART-MSシステムにおける気体の流れは,質量分析計の溶媒排出口に相当する部分から10 L/minの気体が排出されるため,当然ながら同量の気体が質量分析計の前室部分に流入する必要がある.たとえばDARTイオン源からイオン化のために放出される励起ヘリウムガスが2.5 L/minとすると,それ以外は周りの大気を取り込むこととなる.しかしながら,実際には分析試料から放出される揮発性成分をリアルタイムでイオン化を行うデバイス部分に送り込むためには,0.5〜1 L/min程度の気体をキャリアーとして使用する必要が出てくる.これを,揮発性成分の拡散防止を重視して密封性の高いデバイスでイオン化部分を覆ってしまうと,イオン化に必要な大気中の水分子の供給が難しくなる.それだけでなく,質量分析計の前室部分の圧力が不安定となるため,安定的な質量分析計の動作に支障をきたしてしまう可能性が出てくる.つまりこの計測システムで求められる機能は,揮発性成分の拡散を起こさず,質量分析計の前室部分の圧力を安定させるという複雑な条件を満たす必要があった.この難問に対して,小さなデバイス一つで解決できたことが,リアルタイムで連続的なフレーバーリリース計測を成功できた理由である.
その後,質量分析計としてトリプル四重極質量分析計を用いたmultiple reaction monitoring(MRM)分析を採用することにより,ターゲットとする揮発性成分を,さらに高感度かつ1秒単位という高速で食品から放出される揮発性成分の挙動を計測することも可能となった(6)6) 佐川岳人,工藤由貴,西口隆夫,川向孝知,塩田晃久,星 大海,渡辺 淳:日本食品科学工学会誌,62, 335 (2015)..その事例として,チョコレートを意識した油脂固形食品にl-carvoneとd-limoneneを添加して作られたモデル食品を用いた実験データを紹介する.これは,口腔内で油脂が溶解し,その過程で2種類の揮発性成分の放出挙動をイメージして行われたものである(図2図2■l-Carvone,d-limoneneのフレーバーリリース変化量).
このデータにおいて,加熱溶解によってモデル食品から放出された2つの揮発性成分の変化に着目すると,それぞれ異なる挙動を示している.l-carvoneは加熱直後から放出量が増加し続ける一方で,d-limoneneはl-carvoneに遅れて放出の増加が確認され,測定対象時間となる20秒経過前に最高放出量を示した.そしてその後は,平衡状態の継続もしくは減少する傾向となっている.つまり,食品の物理的な変化に伴って生じた揮発性成分の放出,まさにフレーバーリリースのリアルタイム質量分析が実現したことを意味する.これは,香気を構成する個々の揮発性成分バランスが,食品の香気特徴に大きく影響を及ぼすという経験的な感覚と照らし合わせると,喫食時に認識する風味を係数化するための重要なツールになると考えられる.
日本のフレーバーリリース研究において,計測システムに関する研究者やその報告例は少ない.しかしながら,“食のおいしさ”を研究していくためには,フレーバーリリース計測システムの進化は必ず必要である.今後,フレーバーリリース計測システムに携わる若い研究者が増え,そして新たな研究成果が生まれていくことに期待したい.
Reference
1) 西成勝好:日本家政学会誌,65, 245 (2014).
2) 小竹佐知子:日本調理科学会誌,41, 84 (2008).
3) Y. Kudou, T. Sagawa, T. Nishiguchi & K. Kinoshita: 62nd, American Society for Mass Spectrometry (ASMS) Annual Conference, Abstract, 2014, p. 838.
4) R. B. Cordy, J. A. Laramée & H. D. Durst: Anal. Chem., 77, 2297 (2005).
6) 佐川岳人,工藤由貴,西口隆夫,川向孝知,塩田晃久,星 大海,渡辺 淳:日本食品科学工学会誌,62, 335 (2015).