Kagaku to Seibutsu 53(8): 559-561 (2015)
追悼
鵜高重三先生を悼む
Published: 2015-07-20
© 2015 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2015 公益社団法人日本農芸化学会
日本農芸化学会有功会員,鵜高重三名古屋大学名誉教授は,去る平成27年4月11日肺炎のため84歳の生涯を閉じられた.グルタミン酸生産菌を25歳の若さで発見し,世界のアミノ酸発酵の基盤を築いた農芸化学を代表する巨人の一人である.実験が大好きで生涯自ら実験を続け,微生物の可能性を最後まで追い続けられた.ここに謹んで鵜高重三先生のご冥福をお祈り申し上げます.
先生は1930年8月17日,東京に4人兄姉の末子としてお生まれになり,1953年東京大学農学部農芸化学科(旧制)を坂口謹一郎教授が主宰する醗酵学研究室で卒業研究をされて卒業し,協和発酵工業株式会社東京研究所に入社された.
先生はアメリカへの留学希望がたいへん強く,学費は奨学金で賄うべく,奨学金を提供する複数の大学の中からシカゴ大学を選ばれ,留学先とされた.また,生活費は入社したばかりの協和発酵株式会社から借金し,シカゴ大学へ修士課程の学生として2年間留学された.当時の多くの企業は今と違って,入社直後の留学どころか,その間の給与支出もありえない時代だったが,鵜高先生はそれを大胆,正直に申し出られ,会社も驚いたが,重役会議の協議の末それを認めてくれたと伺っている.先生の留学を認めた協和発酵株式会社は先見の明があった.その後もシカゴ大学,ハーバード大学と2度留学されているが,東京研究所からの海外留学の先鞭をつけられた.
1955年末に帰国し,自由に研究することが許され,当時の研究情勢を把握したうえで考えをめぐらし,グルタミン酸を取り上げた.1955年頃の研究はα-ケトグルタル酸を製造し,グルタミン酸に変換する二段階方式が主流であったが,糖から直接グルタミン酸が生産できればはるかに有利なことは明白であった.農芸化学の発酵分野の一部ではグルタミン酸を生産する微生物がいるはずだというアイデアが当時あったようであるが,実際にグルタミン酸生産菌のスクリーニングを実行されたのは鵜高先生が最初であり,その独創的な資質は高く評価される.これも,帰国後日も浅く失敗を気にせず,新しい研究をしたいという強い思いから,当時としては冒険であったが,グルタミン酸生産菌のスクリーニングを開始した.
やみくもにスクリーニグを始めたわけではない.当時の同僚の話では,「頭をかかえつつ」あらゆる可能性を考え抜いてスクリーニングの条件を決定した.グルタミン酸生産菌の分離培地にはグルタミン酸の生合成経路を考慮して,α-ケトグルタル酸の発酵生産に適した組成にグルタミン酸のC : N比に相当する高濃度のアンモニア源を添加した培地を用いた.また,グルタミン酸を生産する微生物がいたとしても極めて稀であると考え,グルタミン酸生産菌を広く自然界に求め,さらにグルタミン酸の効率良い検出に乳酸菌を用いるバイオアッセイを利用した.それにしても第1回目のスクリーニングでしかも500株程度という極めて数少ない菌株のスクリーニングでアミノ酸発酵の基盤となったグルタミン酸生産菌(No. 534菌)を発見できたのは幸運そのものであった.しかも,研究を始めてわずか2,3カ月後のことであった.今ではNo. 534菌が上野動物園の鳥類の糞から分離されたことは有名な話となっている.No. 534菌は分類の難しい種類の細菌であったが,最終的に新菌種Corynebacterium glutamicumと命名された.
このようにしてグルタミン酸生産菌が発見されるや,上司の木下祝郎主任研究員,加藤辯三郎社長は本菌によるグルタミン酸生産の工業化研究を速やかに開始し,1956年秋には月100トンほどのグルタミン酸が生産可能となった.1959年以降になると他社も同様の菌を使用して発酵法によるグルタミン酸の生産を開始した.グルタミン酸発酵はアミノ酸発酵のみならずヌクレオチドの発酵生産の進歩にも大きく貢献し,アミノ酸発酵と核酸発酵が互いに絡み合って日本発の独創的な微生物バイオテクノロジーとして世界に高く評価された.
グルタミン酸生産菌の発見から約1年後,同菌の突然変異株によるグルタミン酸以外のアミノ酸生産が検討され,種々の栄養要求変異株によりグルタミン酸と異なるアミノ酸が生産されることが明らかになった.中山 清研究員らの精力的な変異株選択によってリジン生産変異株が得られた.また,鵜高先生はアルギニン要求株によるオルニチンの発酵生産について研究し,オルニチンの発酵生産におけるフィードバック阻害による酵素反応の調節機構を明らかにした.この研究は国内外で高い評価を受け,アミノ酸の代謝制御発酵の先鞭をつけた.1963年理化学研究所・微生物学研究室へ異動後もこの研究を継続し,アルギニンリプレッサーの研究へ発展させた.これらの一連のアミノ酸発酵に関する研究に対して大河内記念賞,内閣総理大臣発明賞,科学技術長官賞など国内で数々の賞を受けられ,1966年には木下祝郎,中山 清,田中勝宜3氏との連名で日本学士院賞を受賞された.
1971年名古屋大学農学部に新設された培養工学講座(後に遺伝子制御学講座そして現在の応用微生物学講座へと改称)に教授として赴任し,実験台もないがらんとした研究室の整備から研究を始めた.これまでのアルギニンリプレッサーに関する研究にタンパク質の発酵生産を新たに加えて研究を開始した.アルギニンリプレッサーの研究は途中で断念し,タンパク質生産菌の分離とその応用に全力を注入した.タンパク質生産に関する研究は協和発酵工業株式会社東京研究所時代に当時の加藤辯三郎社長から出された課題「日本人の慢性的栄養不足の解消のためのタンパク質の大量生産」が動機になっていたとも考えられる.
タンパク質生産菌のスクリーニングでも培地組成を工夫し,僅か1,200株の中から複数のタンパク質生産菌を分離した.これらはすべてBacillus brevisまたは近縁菌と分類された.東北大学のキャンパスの土壌から分離されたB. brevis 47は最適条件下で全細胞タンパク質の約2倍に匹敵する12 g/Lもの大量のタンパク質を細胞外に生産した.その後,約10万株のスクリーニングを実施し,B. brevis 47と同等量のタンパク質を生産するB. brevis HPD31も分離した.
B. brevis 47の細胞壁構造は極めて特徴的で,最外層からOuter Wall(OW),Middle Wall(MW),Inner Wall(IW)と命名した3層構造を示し,OW層,MW層は分子量13万,15万のタンパク質で構成され,これらのタンパク質は表層上で6角格子状の擬結晶構造を形成していた.菌体外に分泌される主要タンパク質はOW層およびMW層を構成するタンパク質に由来することがさまざまな方法で証明された.OW層,MW層はタンパク質生産が始まる培養後期になると細胞表層から離脱し始め,新たに合成された細胞壁タンパク質は表層構造上にとどまることができずに,細胞外へ大量に蓄積されることが電子顕微鏡観察で示された.鵜高先生はこの一連の超薄切片像をたいへん気に入られ,ご自宅で飾られておりましたが,今はわが家に飾られています.
わが国でも普及し始めた遺伝子組換え技術をタンパク質生産菌に導入して本菌を宿主に異種タンパク質の生産系の確立を研究室の総力を挙げてゼロから開始した.先ずは細胞壁タンパク質遺伝子のクローニングに挑戦したが,細胞壁タンパク質には何ら生物活性がなく,免疫学的な方法でたいへん苦労してクローニングに成功した.その後,本遺伝子を利用した発現・分泌ベクターの構築,形質転換系の確立などさまざまな問題を克服してB. brevis 47を異種タンパク質生産宿主へ育種することに成功した.これらの研究に対して1987年日本農芸化学会賞を受賞された.また,中日文化賞,日経BP技術賞なども受賞され,2008年には瑞宝中綬章を受章されている.
B. brevisを宿主に原核生物由来のタンパク質は0.5~数g/Lと高効率な生産が可能であったが,高等生物由来のタンパク質は,ヒト上皮増殖因子(EGF)は例外的に多く3 g/Lもの生産量が得られたが,多くの場合数十mg~200 mg/L程度であった.先生はこの生産量を1 g/Lレベルにすることを目標にされ,1994年名古屋大学を定年退官された後も東京農業大学の嘱託教授として大学院生を指導されるとともに自らも研究され,さらに東京農業大学退職後も粘り強く実験を続けておられた.
最後に先生にお目にかかったのは毎年5月に開催される2013年の名古屋大学名誉教授懇談会でした.先生は藤沢から出席されており,お帰りの際に調べ物があるので中央図書館へいくと言われお別れしたのが最後でした.先生は持論「人生を楽しく過ごそうと思ったら一生毎日何らかの勉強が必要だ」を最後まで実践されておられました.合掌