バイオサイエンススコープ

生物多様性条約と科学のかかわり(第1回)合成生物学の生物多様性への影響は

Hideyuki Shirae

白江 英之

一般財団法人バイオインダストリー協会 ◇ 〒104-0032 東京都中央区八丁堀二丁目26番9号 グランデビル8階

Japan Bioindustry Association ◇ Grande Building 8F, 2-26-9 Hacchobori, Chuo-ku, Tokyo 104-0032, Japan

Published: 2015-09-20

はじめに

生物多様性条約(The Convention on Biological Diversity)という言葉を新聞で読んだり,テレビのニュースで見たりした人は多いと思う.しかし,どのような条約で,どのような国・地域(連合)が加盟していて,どんな議論をしているのかを詳しく把握している人は少数にとどまるであろう.まずこの条約の正式名は「生物の多様性に関する条約」であり,「生物多様性条約(CBD)」は通称名である.

昨年10月に,このCBDの第12回締約国会議(COP12: the 12th Conference of the Parties to the CBD)が,お隣の国,韓国の平昌(2018年の冬季オリンピック開催予定地)で開催された.このCOP12の会議に参加したのは,CBDの加盟国(欧州連合も含む)のうち,162の締約国,国連環境計画などに関連する国際機関,世界各地域の先住民代表(ILO),市民団体(NGO)などで,約3,000人の参加者があり,約2週間かけて生物多様性の保全と維持に関する31の議題について議論がなされた(1)1) 外務省:生物多様性条約第12回締約国会議結果概要,http://www.mofa.go.jp/mofaj/ic/ge/page22_001623.html.そのなかで特に注目を集めた議題として,議題24の「合成生物学」がある.本稿では,今回CBDでなぜこのような技術進展が著しいサイエンスの議題が登場し,国際的に何を議論したのかについて,その経緯と議論の中身を紹介する.本稿を契機に,科学技術の周辺に潜在するさまざまな課題と,その課題に対する国際間の論争および社会科学的,倫理的な背景を,科学に携わる研究者にもよくご理解していただきたい.第1回目は,CBDで議論された内容とその課題について述べ,今後の国際議論の展開について紹介する.

CBDとは何か

CBDは,国際自然保護連合などの環境保護団体から要請を受けた国際連合(国連)が,1992年6月にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで開催された国連環境開発会議(地球サミット)中にその調印式を開始した生物多様性に関する国際条約である.その後約2年間で世界168の国と機関が同条約に署名し,1993年12月29日付で発効した.日本も1993年5月28日に条約に調印して第18番目の条約締約国になったが,一方米国はCBDにいまだ参加していない.現在,CBDには世界194の国と2つの地域が参加し,2年に1回開催されるCBD締約国会議(COP)にて,締約国の代表者と国連の環境に関連する機関の代表,ILOやNGOの代表が集まり,生物多様性の保全と生物資源の持続可能な利用を目的として,事務局から提出された各議題に対し幅広い議論を行っている(2)2) CBD事務局:List of Parties, http://www.cbd.int/information/parties.shtml.これまでのこの会議の代表的な成果としては,2003年に発効されたモダンバイオテクノロジーによる遺伝子組換え生物の国境を超える移送,取り扱いおよび利用の手続きに関する国際的な規定を定めた「カルタヘナ議定書」の採択が有名である.日本も,同議定書の規定に基づいた国内法(俗称:カルタヘナ法)を2004年2月に施行し,日本の遺伝子組換え技術(GMT: Genetically Modified Technology)の基本法と位置づけた(3)3) 環境省:ご存知ですか? カルタヘナ法,http://www.bch.biodic.go.jp/cartagena/s_06.html

このように書くと地球上の生物保護を目的とする格調高い国際会議という印象をもたれる方も多いと思うが,実質的なCBDの議論の中身は,生物多様性の保全と生物資源の持続的な利用の維持を主張する先進国と生物資源や伝統的な知識の利用によって得られた利益の配分を,その利用国(主に先進国)に要求する途上国との政治的な駆け引きの場である.CBDの第一条の目的の項には,「遺伝資源へのアクセスと利用から生じる利益の公正かつ衡平な配分」という文言が明記されている.今まで遺伝資源の利用国(主に先進国)から利益配分を受けてこなかった多くの遺伝資源を有する途上国は,このCBDの登場によって,自国の自然由来の遺伝資源や伝統的な知識に基づく対価を求める根拠ができたとして,その補償を利用国に求める活動を活発化させている.2010年に日本の名古屋で開催されたCOP10において,途上国から強く求められていた生物の提供国と利用国で利益を衡平に分け合うルールを定めた議定書として,いわゆる「名古屋議定書」が採択され,昨年のCOP12の会期中にこの「名古屋議定書」は発効したが,具体的にどのような利益に対する配分なのかはまだ明確に定められていない.

現在,CBDのCOP以外に,カルタヘナ議定書締約国会議(2014年COP-MOP7),および名古屋議定書締約国会議(2014年COP-MOP1)がそれぞれ独立して開催され,各条約の締約国の代表者が集まり,それぞれ異なる目的をもって,各事務局から提案された議題に取り組んでいる.図1図1■生物多様性条約およびそれから分れた各議定書の一覧図に,各会議体の模式図を示す.

図1■生物多様性条約およびそれから分れた各議定書の一覧図

COPでの新課題「合成生物学」の登場

2010年のCOP10において,カナダの環境市民団体のETCグループが,合成生物学もGMTと同様に規制の対象にすべきというキャンペーンを張り,反GMT団体の支援も加わり,これに途上国も同調して大きな動きとなった.その要因としては,同年米国のベンター研究所が発表した人工合成したゲノム遺伝子をマイコプラズマという真正細菌の中に組み入れ,新たな人工生物の創生に成功したという発表が考えられる.そして,にわかに合成生物学という用語の認知度が高まり,その発表のインパクトは科学者のみにとどまらず,科学知識のない一般の人にまで及んだ.そして,その実態がわからない合成生物学に対し,1970年代の初頭にGMTが登場したときと同じような,目に見えない脅威やバイオテロへの発展の恐れ,あるいは生命の創生という倫理的な懸念などの意識が一部の民間団体を中心に沸き起こった.その後,2012年開催のCOP11(インド,ハイデラバードで開催)および昨年のCOP12(韓国,平昌)において,新たにこの「合成生物学」をCOPでの正式議題にすべきかどうかについて,激烈な議論が先進国と途上国の間で交わされた.以下,COP12の議論を紹介する.

COP12での合成生物学に関する議論の具体的な内容について

2003年にカルタヘナ議定書が発効されてからすでに12年が経過したが,その間にGMT周辺の進歩には目覚ましいものがある.特に2001年2月にヒトゲノム配列の解析結果が発表されて以後(4,5)4) J. C. Venter, M. D. Adams, E. W. Myers, P. W. Li, R. J. Mural, G. G. Sutton, H. O. Smith, M. Yandell, C. A. Evans, R. A. Holt et al.: Science, 291, 1304 (2001).5) E. S. Lander, L. M. Linton, B. Birren, C. Nusbaum, M. C. Zody, J. Baldwin, K. Devon, K. Dewar, M. Doyle, W. FitzHugh et al.; International Human Genome Sequencing Consortium: Nature, 409, 860 (2001).,遺伝子の本体である核酸(DNAとRNA)の配列決定技術とその化学合成技術の発展が,GMTの発展をさらに加速させたことに疑いの余地もない.それに加えてバイオインフォマティックス技術の進歩やさまざまな生物の遺伝子データベースの構築とWEB上での公開が,コンピューター(計算機)化学の学問を発展させ,上記の一連の技術分野をつなぎ合わせることにより,新しい生物や代謝経路,人工遺伝子回路などを設計する合成生物学へと,その技術分野は進展していった.

COPでの合成生物学の議論の対象は,カルタヘナ議定書が規定する規制対象である“LMO”(Living Modified Organisms)だけでなく,“生物(Organisms)”,“成分(Components)”,“生産物(Products)”の3つの要素がその対象となっている.しかし各要素の具体的な対象が何を指すのかについての合意・整理などは専門家の間にもない.そのような状況でのCOPでの議論であるため,本件の主導権を握る欧州委員会を中心に,先進国からはまずこの議論を進めるために,合成生物学の“operational(操作可能)”な定義が必要であると提案された.しかしこれまで,数多くの合成生物学の定義の提案がさまざまな科学者からなされたが,合成生物学自体が従来のGMTの延長線上にあるため,旧来のその技術との境界が不明瞭なことに加えて,その技術がカバーされる領域が,“LMO”にとどまらず,人工合成物(プロトタイプ細胞など)や非天然生物学にまで及ぶため,COPで議論すべき合成生物学の“operational(操作可能)な定義”を決めるのも相当な困難が予想される.主にCOP12の議論から想定される合成生物学の範囲のイメージを,図2図2■COP12の議論から想定されるGMTと合成生物学(SB)の技術範囲の想定図に示した.COP12では,合成生物学の定義や技術範囲が定まらないまま,国際法に基づく規制の導入を主張するボリビア,フィリピン,マレーシア,ノルウェーなどと,それに慎重な日本,欧州連合,カナダ,ブラジル,ニュージーランド,オーストラリアなどの間で厳しい論戦となった.最終的に,欧州連合が資金を提供して,合成生物学を次のCOPでの新しい議題にするかどうかを,今後サイエンスの専門家やNGO代表,ILO代表を交えたオンラインフォーラムと専門家会議(「AHTEG」と呼ぶ)の実施を通じて議論することになった.その際,AHTEGで検討する項目として,以下の6項目が定められ,COP12の議論は終了した.

図2■COP12の議論から想定されるGMTと合成生物学(SB)の技術範囲の想定図

今後開催されるAHTEG会議の主な取り組み事項

今後は,2015年4~7月の間に開催されたオンラインフォーラムの結果を踏まえて,同年9月に合成生物学を専門とする科学者や遺伝学者,社会科学者や倫理の専門家などを招集したAHTEG会議が開催され,合成生物学の定義と生物多様性に対する影響を明確にし,合成生物学の利益とリスクが検討される.そのうえで,2016年4月にカナダのモントリオールで予定されている締約国と非締約国(主に米国)の代表者とオブザーバー(6)6) Biosafety Clearing-House: CBDの合成生物学に関するオンラインフォーラムの参加者リスト,https://bch.cbd.int/synbio/participants/からなる代表者会議(「SBSTTA」と呼ぶ)を開催してその論点を整理して,2016年12月にメキシコで開催予定のCOP13において,この合成生物学という新しい課題を,CBDの正式な議題とするかどうかについて再検討する予定である.

合成生物学に関するCOP12での議論の考察

COP12では,合成生物学について各国からさまざまな意見が出された.アフリカのある国からは,合成生物学はモンスターを作り出す,という懸念も出された.もともとCOP12では,合成生物学の定義が不明瞭のまま,どこに焦点を絞って議論するかの事前の取り決めもなかったため,各国からの発言内容は多岐にわたり,その課題をまとめるのは困難となった.このため今後のオンラインフォーラムやAHTEG会議の議論でどのような課題が提出され,どの方向に議論が展開されていくのかについて,十分に注視していく必要がある.特に国際的に合意が得られる合成生物学の定義が定まらないままで議論が進行すると,各国のこの課題に対するスタンスが決められない.このため日本としては,COP13に向けた今後2年間に開催される予定の専門家を交えた会議の議論を通じて,徐々に明らかになってくる本課題の争点を的確に見いだし,その課題に対する日本としての対策を練る必要がある.

これまでのCOPでの合成生物学の主な論点と議論をまとめると上記の表1表1■COP12での合成生物学に関する議論の争点のようになる.

表1■COP12での合成生物学に関する議論の争点
定義合成生物学の技術範囲従来のGMTとの関係
カルタヘナ法議定書に含まれるか否かカルタヘナ法に含まれない技術の有無
規制の規模各国のみ,地域,国際的な規則先進国と途上国で意見相違が大きい
新議題生物多様性への影響の特定社会経済的影響も補償の対象範囲に
規制対象生物,生産物,組成物Product/Process評価の議論の再燃

平成25年度に経済産業省のホームページ上で発表した「バイオインダストリー安全対策事業報告書」(7)7) 経済産業省委託事業,平成26年度環境対応等(バイオインダストリー安全対策事業)報告書(平成26年3月27日一般財団法人バイオインダストリー協会),http://www.meti.go.jp/meti_lib/report/2014fy/E004036.pdfの199頁に示したように,CBD事務局は合成生物学の技術範囲を以下の6項目にまとめ,各技術項目の課題の抽出と要点の整理を行った(報告書の本文191~198頁を参照).

[①DNAデバイス構築とその利用,②合成代謝工学,③ゲノム細胞工学(トップダウン型),④ゲノム細胞工学(ボトムアップ型),⑤プロト細胞の構築,⑥非天然生物学.]しかしそれ以後,新しい技術[ゲノム編集技術(ZFN,TALEN,CRISPR/Cas9など)やエピジェノミックス技術など]が次々に登場してきており,それらの新技術も合成生物学の技術分野に取り込まれていく可能性が高い.また今回議論の対象となる3つの要素のうち,特に“Components”の定義が明確ではないために,COP12の参加者の間でもその解釈がさまざまで,ベクター,プロモーター,合成遺伝子,遺伝子ライブラリーなどのGMTの基本構成要素にとどまらず,DNA合成装置,GMT用の試薬やキット,DNA/RNA精製用のキット,遺伝子データーベース(NCBIとかGENBANKなど)およびそのアクセス用のコンピュータープログラム,DNAシークエンサーなどの機器まで,あらゆるGMTにかかわるものすべてが含まれると主張する国もあり,国境を越えて移動するこれらの物や情報にも規制を実施すべきと述べている.さらに“Products”の解釈においても然りで,合成生物学の明確な定義がないため,すでにGMTで生産されている既存の工業製品や植物,はたまた医薬品にまでその影響が広がる恐れがある.そしてそれらすべてのGMT由来の製品にまで,国際的に統一した規制を設定し,その研究開始の是非や,GMT由来の製品の工業生産の申請から承認まで,国際同意がないとその販売ができないようにすべきであると主張する国までも出てきている.また社会経済的な措置として,途上国各国の植物資源およびその抽出物の伝統産業が生活の糧であった比較的貧しい生活者が,この新しい合成生物学の登場でその経済的基盤が奪われるために,その生活の保障をすべきであると主張する国もある.特に後者は,途上国の産業の浮沈に関する問題なので,それを解決するためには,カルタヘナ議定書や名古屋議定書に記載されている「社会経済的な配慮」や「利益の衡平な分配」の議論を巻き込んで,今後さらに大きな国際問題に発展する可能性もある.

まとめ

CBDの締約国会議であるCOPには,専門的な知識をもった科学者の参加はほとんどない.このため,世界中の合成生物学を専門としている科学者たちは,COPにおいてこのような議論が行われていることなど,夢にも思っていないであろう.CBDの締結以後,COPの場において,社会経済学者からは,GMTの領域ではすでに途上国への衡平な利益配分をする時代になっていると唱える人も出てきている.このような状況のなか,2015年4月から7月に実施された合成生物学に関するオンラインフォーラムでは,少なからずの合成生物学の専門家からその学問の概要の説明がなされたが,本議論を進めるに当たって重要な合成生物学の“操作性のある定義”の合意までには至らなかった.またCBDで提供された合成生物学の3つの要素(“生物”,“成分”,“製品”)の定義も曖昧なままである.そして,オンラインフォーラムで合成生物学の専門家から提案された合成生物学のいくつかの定義の案は,いずれもこれまでのカルタヘナ議定書で定義された“LMO(living modified organisms)”を包括する内容になっている.これに関して,カルタヘナ議定書の締約国会議は,昨年のCOP-MOP7でも合成生物学に関する議論は行わず,CBDでの議論の結論を見守るという立場のままである.

今後は,まず国際的に合意ができる合成生物学の定義とその範囲を決めることが急務である.そして,このCBDでの合成生物学の議論で,いったい誰が,何に対してリスクと感じているのかを特定して,その課題解決に努める必要がある.具体的には,途上国における合成生物学から生じる3つの要素の何が,その地域の生物多様性に影響を及ぼし,そこで暮らす先住民や地域住民にどのような社会経済的な問題を生じさせるのか,またその根拠となる事象の評価手法は何かを明確にする必要がある.また,合成生物学の進展に潜むバイオセキュリティ・バイオセーフティの課題,さらには科学と無縁な人々が感じる倫理的課題も重要な論点である.この研究分野に携わっている研究者の方々にも,世の中には合成生物学に対してさまざまな意見や反感をもっている人が多数存在することを認識していただきたい.日ごろサイエンスには縁のない一般の人に,この研究分野のお話をする際には十分な配慮をもって接したほうがよいであろう.

これ以後は,数回に分けて上記の各項目を本誌「化学と生物」に報告していく予定である.これからも,科学に携わる皆さんに,タイムリーにCBDでの合成生物学の国際的な議論をお伝えしたいと考えている.

Acknowledgments

本稿の内容は,経済産業省平成26年度環境対応技術開発等(遺伝子組換え微生物等の産業活用促進基盤整備事業)の「生物多様性関連の遺伝子組換え技術の国際交渉に係る調査検討委員会」での議論ならびに調査研究に基づいたものである.同調査検討委員会の委員の皆様および報告者の執筆にご協力をいただいた関係各位の皆様に,改めて御礼申し上げます.

Reference

1) 外務省:生物多様性条約第12回締約国会議結果概要,http://www.mofa.go.jp/mofaj/ic/ge/page22_001623.html

2) CBD事務局:List of Parties, http://www.cbd.int/information/parties.shtml

3) 環境省:ご存知ですか? カルタヘナ法,http://www.bch.biodic.go.jp/cartagena/s_06.html

4) J. C. Venter, M. D. Adams, E. W. Myers, P. W. Li, R. J. Mural, G. G. Sutton, H. O. Smith, M. Yandell, C. A. Evans, R. A. Holt et al.: Science, 291, 1304 (2001).

5) E. S. Lander, L. M. Linton, B. Birren, C. Nusbaum, M. C. Zody, J. Baldwin, K. Devon, K. Dewar, M. Doyle, W. FitzHugh et al.; International Human Genome Sequencing Consortium: Nature, 409, 860 (2001).

6) Biosafety Clearing-House: CBDの合成生物学に関するオンラインフォーラムの参加者リスト,https://bch.cbd.int/synbio/participants/

7) 経済産業省委託事業,平成26年度環境対応等(バイオインダストリー安全対策事業)報告書(平成26年3月27日一般財団法人バイオインダストリー協会),http://www.meti.go.jp/meti_lib/report/2014fy/E004036.pdf