Kagaku to Seibutsu 53(11): 792-796 (2015)
バイオサイエンススコープ
オットー・マイヤーホッフのヒトラーとナチスからの逃脱―ピレネー越えの真相
Published: 2015-10-20
© 2015 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2015 公益社団法人日本農芸化学会
解糖系代謝経路(エムデン・マイヤーホッフ経路)の解明者の一人として知られるオットー・マイヤーホッフ(1884~1951年)は,カント派の哲学者だったが,幼友達のワールブルグに誘われて,生化学の世界に入った.彼は哲学的な視点から,酵母による発酵と筋肉の乳酸蓄積が共通の経路をもつことを見抜いて研究を進めた.哲学的な思考をもつことは,自然科学者にとってたいへん重要なことで,欧米では,ギリシャ以来の哲学的な思考の流れを学生に教育している.これに対して日本では,開国以来,欧米に追いつくことをモットーにしてきたので,技術的な面を重視して科学思想を軽視してきたきらいがある.マイヤーホッフはドイツ文化に対する造詣が深く,自分自身もドイツ人であることを疑わなかったが,実はドイツ系ユダヤ人だった.当時のドイツ生化学界では,ノイベルグ,エムデン,リップマン,ワールブルグ,クレブスなどユダヤ人研究者が多かった.マイヤーホッフはキール大学で筋肉と乳酸生成の研究をはじめ,共同研究者のヒルとともにノーベル賞を受賞(1922年)した.しかし,反ユダヤ主義のためキールを去りベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所(KWI)で研究を続けた.
ヒトラーは1933年に政権を握ると,直ちにユダヤ人の迫害を始めたので,アインシュタインらノーベル賞受賞者も,大学や研究所を去ることになった.医師,弁護士,学者,教師など高学歴のユダヤ人ほど職場から締め出されたので,直ちに国外へ移住したが,当時のマイヤーホッフは研究の最盛期にあったため,逃げ遅れて,1938年までドイツにとどまった.この時期になると,逆にユダヤ人の出国が制限されるようになり,特に,彼はノーベル賞受賞者として有名だったので,200人の出国制限者リストに記載され,ドイツからの出国が困難になった.マイヤーホッフはパリに逃れ,次いで,マルセイユを経由して,地中海の小さな漁村バニュルスに滞在した後,ピレネー山脈を徒歩で越えて,スペインに脱出した.その際,フランス人であるジャン・ロッシュが,自身の危険を顧みず,人道的な支援をして,マイヤーホッフの国外脱出を助けた.マイヤーホッフは偉大な学者だったが,ナイーヴな人物だったようで,フランス脱出後,ロッシュにお礼の電報を打ち,アメリカに亡命後も定期的に近況を知らせてきた.それらの電報や手紙が,ナチスの支配下にあったヴィシー政権の手に渡り,ロッシュは警察の尋問を受けた.
第二次世界大戦後,アメリカに亡命したマイヤーホッフはペンシルベニア大学教授に就任し,直ちに研究を再開した.そこでの最後の10年間にも約50編の論文を出し続けたが,ドイツ時代に比べてその間の論文数は激減した.それは生化学界の大きな損失であった.彼はベルリンとハイデルベルグで自らの研究室をもっていたが,ハイデルベルグの8年間(1930~1938年頃)が彼にとって一番実りの多い時期で,個人的にも幸福なときだった.
発酵の研究は,1932年頃までに膨大なデータの蓄積が見られたが,全容の解明には至っていなかった.それは,C6化合物であるグルコースが,どのようにしてC3化合物に変換されるのか? という疑問が解けていなかったからである.この疑問に関して,グスタフ・エムデンは自分自身の研究をもとにグルコースから生成するフルクトース-1,6-二リン酸(C6化合物)が,2つのC3化合物に開裂する過程を考察した.この酵素は後にマイヤーホッフによって発見され,アルドラーゼと命名された.エムデンはイヌの筋肉で乳酸の生成を研究していたが,彼は乳酸生成が筋収縮にやや遅れて生ずるとして,マイヤーホッフの乳酸学説(筋収縮のエネルギーが乳酸生成によって供給されるという学説でノーベル賞を受賞した)を批判していた.エムデンはユダヤ人だったが,第一次大戦では,愛国的な軍医として西部戦線に出陣した.退役後はフランクフルト大学で研究を再開したが,ヒトラーがユダヤ人の追放を始めると講義を阻止された.彼は傷心のために休養を取ったが,7月に大腿静脈にできた血栓で急死した(自殺とも言われる).エムデンは自分が作った理論モデルを検証することなく亡くなり,その後の5年間にマイヤーホッフ一派により,エムデンのモデルが検証された.そのため,解糖系は“エムデン・マイヤーホッフ経路”と呼ばれる.エムデンはもう少し長生きしていたら,ノーベル賞を受賞していたと思われる.
マイヤーホッフは細胞の機能をエネルギー獲得の立場から考えた.彼は,種々のタイプの筋肉あるいは微生物類に類似の反応があることを証明した.酵母や高等生物ではエネルギー源としてATPが使われるが,ADPからATPを再生する際のリン酸源として,無脊椎動物ではアルギニンリン酸が,脊椎動物ではクレアチンリン酸が同じ役割を担っていることを明らかにした.彼の偉大さは,創造性,理論的な洞察力,新しいアイディアに対する寛大さなどにある.彼の学説がデンマークのルンズゴールにより反証されたときには,直ちに立会い実験をして,自らの説を訂正した.
日本から留学していた岩崎 憲(金沢大)によると,マイヤーホッフは酒も飲まず煙草も吸わず,趣味ももたなかった.無口で,教室員と雑談することもほとんどなく,話といえば研究のことに限られていた.その研究上の話でさえ,ほんの要点を立ち話するにとどまり,精々2~3分,長くても10分を超すことは希だったという.頭脳極めて俊敏,僅かに片言隻語を聞けば,相手の言わんとすることの核心をつかみ,説明的な言葉が出ると,すぐに“Ich verstehe schon.”「わかった,わかった」と,そこを飛ばして話を飛躍させるのが常だった.こんなことから“Ich verstehe schon.”という言葉は研究室員たちも真似をして,一種の研究室用語となった.マイヤーホッフは,いつも「研究するには,人の仕事の後を追うな,新しい領域を自分の手で拓け」と言った.
ヒトラーが非アーリア人(主としてユダヤ人)の排除を開始し,ナチスの「指導者原理」が大学に導入されると,内相フリックの指令で,科学者も学生も講義や講演を始めるときは右手を高く掲げて「ハイル・ヒトラー(ヒトラー万歳!)」と挨拶をすることが義務づけられた.しかし,政治に全く関心のなかったマイヤーホッフは,昼は生化学,夜は哲学研究に没頭する毎日であった.
マイヤーホッフが所属したカイザー・ヴィルヘルム研究所(KWI)は最も生産的で,しかも素晴らしい弟子や共同研究者たちに恵まれていた.ナハマンゾーン,リップマン,ブラシュコ,ルヴォフ,ウォルド,オチョアらで,そのうち4人が後年ノーベル賞を受賞した.これに対して,当時KWIの部長で後にノーベル賞を受賞(1931年)したワールブルグが育てたのは,クレブス一人だと言われるが,彼自身は,マイヤーホッフもテオレルも自分の弟子だと胸を張っていた.
話は少しそれるが,ワールブルグは若いときからパスツールのような偉大な科学者になると豪語して,生涯を研究に捧げる決心をしていたので,終生独身を通した.軍隊時代に知り合った忠僕ホイスが日常生活の面倒を見て,何処へ行くにも二人は一緒だった.ワールブルグは,かなりの潔癖症,完全主義者で,市販の食物は農薬に汚染されているからといって食べず,野菜などを邸内で自家生産していた.牛乳も特別に農家に注文していた.ワールブルグが終生ドイツにとどまれた理由を聞かれることが多いが,母親がドイツ人でナチスのゲーリング元帥と親しかったのと,彼が“がんの研究”をしていたからだと言われる.
ナチスのユダヤ人への規制,迫害のテンポは急速に悪化し,1938年頃には,若い研究者も思い思いにドイツを去るようになり,マイヤーホッフ自身もドイツを出ることを考えるようになった.その直接の引き金は,彼が国外の国際会議に出席しようとしたとき,警察が彼のパスポートを取り上げたことである.パスポートはその後返却されたが,その頃になると国外への移住に種々の条件が付けられるようになり,移住は次第に逃亡,亡命という形になっていった.着の身着のままで逃亡することは,全財産を置き去りにすることになるので,ナチス政権がユダヤ人財産の没収を意図していたのではないかとも言われる.
マイヤーホッフは息子の健康のためにスイスへ数週間出掛ける許可を取り出国したが,身の回りの必需品以外はもって行けなかった.マイヤーホッフの家財一式も没収,競売に付されたが,彼の忠実な助手シュルツが誰が買ったかをメモしておいて,後日買い戻した.マイヤーホッフはポジションを探しにアメリカへ行ったが,当時はまだ世界恐慌の影響が大きく,科学者としての職を得ることは困難だった.彼は,ちょうどアメリカに来ていた弟子のナハマンゾーンと相談して,パリで適当なポジションを探すことになった.ナハマンゾーンは直ぐに,パリの生化学者たちに接触し,ヴュルスマー(生物生理化学研究所部長)が,マイヤーホッフのために満足のいく設備と研究所長のポジションを用意した.パリの生化学者たちはマイヤーホッフを尊敬して受け入れ,彼はすぐに多くのフランス人研究者と交流を深めた.生物物理化学研究所はピエール・キュリー通りにあった.この通りにはいくつかの研究所があり,多くの有名な科学者が研究をしていた.それは素晴らしい知的センターで,マイヤーホッフはその雰囲気をたいそう楽しんだ.当時のロッシュ社では,アミノ酸,ペプチド,炭水化物,それにプリンやピリミジンなどの生化学製剤を造っていたが,マイヤーホッフとの共同研究で,解糖系の代謝中間体の生産が始まった.心臓薬としてのAMPとATPの酵素合成系が開発された.
マイヤーホッフとナハマンゾーンの二人は,この2年間に親交を深め,たびたびロワール川流域の城を訪問して,科学はもちろん,芸術,文学などあらゆる問題を論じ合った.ナハマンゾーンは,そのとき,改めて,マイヤーホッフの広い分野での見識の深さに感銘を受けたという.
1940年5月にナチス軍がパリに迫った.マイヤーホッフは兵役を免除されたが,息子のウオーターは,抑留者として何度も収容所に収監された.マイヤーホッフ夫妻は公的交通機関が使えないので,パリからタクシーで南フランスのマルセイユヘ逃れた.6月にはパリが陥落し,ペタン元帥がナチス傀儡のヴィシー政権を作った.マイヤーホッフらははじめ,ボルドーへ行って,そこから最後の船に乗ってイギリスに行こうとした.ボルドーとロンドンの間には昔からのワインのルートがあったからである.しかし,イギリス政府がビザの発給を拒絶した.というのは,当時,ドイツ軍はルクセンブルク,オランダ,ベルギー,フランスに次々に侵攻していたので,あるいはナチスが勝つかもしれないと考えられ,各国ともユダヤ人を助けることをためらっていたのである.ウオーターは両親が自分をフランスに残したままイギリスへ行こうとしたことにたいへんショックを受けたが,マイヤーホッフは息子の兵役免除許可を取って,親子はマルセイユのホテルスプランディッドで再会した.各々が家族のことを考えながらも命がけで,右往左往していたのである.このホテルスプランディッドは,ナチスから逃げ出す何千人もの避難民と彼らを救出するために作られたバリアン・フライ(米国人)の緊急救出委員会が拠点としていた歴史的なホテルだが,今は存在しない.フライはニューヨークのジャーナリストだったが,自ら志願して急遽マルセイユに向かった.彼は出国制限のある有名人を含む,2~3千人の避難民をスペインへ逃したが,そのために逮捕され強制送還された.その偉業は長年知られることなく,彼は1967年に59歳で亡くなった.
筆者は,2013年にマルセイユのホテル街にある案内所で,スプランディッドのあった場所を聞いて回ったが誰もこのホテルの存在を知らなかった.しかし,2015年4月に再度マルセイユを訪ねたときに,知人で親日家のセカルディ教授(フランス国立高等研究院名誉教授)が,現在のホテルテルミヌスが昔のスプランディッドだと教えてくれた.それは,セントチャールス鉄道駅に近く,港に向かう長い階段を下った右手の角にあった.
マイヤーホッフ夫妻は,ウオーターと三人でツールーズへ行って,そこからポルトガル経由でアメリカへ行きたいと考えたが,そこでは誰も彼らを助けることができないことを知り,マルセイユへ戻った.このとき,一家の脱出を助けたのは,ジャン・ロッシュであった.ロッシュはユダヤ人ではなかったが,困っている人を人道的な立場から助けた(筆者への手紙).マイヤーホッフはナチスが彼を捕まえて,アウシュヴィッツのような強制収容所へ送ろうとしていることを想像もしていなかったので,ロッシュが彼に危険な状態を避けなければならないことをいくら説明しても,「私は正直者で嘘がつけない」と繰り返すばかりで,危険な状況を理解しなかった.幸い,夫人と息子(ウオーター)が付き添っていて,彼らは実情をよく理解していたという.ロッシュは,重要なことはマイヤーホッフにスペイン国境を越えさせることだと考えた.それには,フランスを脱出するための出国ビザと,スペイン政府が発行するスペインの通過ビザが必要だった.息子のウオーターは,ユダヤ人を示す“J”の入った自分のパスポートをあえて捨ててしまっていたので,しばらくフランスに滞在する決心をしていた.そのため,ビザはマイヤーホッフ夫妻の二人分でよかった.
マイヤーホッフは,知人の薬学部長が,ヴィシー政権に個人的な友人をもっていたので,自分らの出国ビザを頼むように提案したが,ロッシュはそれは不可能なので,しないほうがいいと忠告した.しかし,夫妻は納得しなかった.果たして,ビザ申請後,数日で返事が来たが,それは,「マイヤーホッフ教授にビザは発給できない.彼は,ナチの権威筋からペタン政権に出された200人リストの一人であり,フランスを去る許可を受ける権利はない」というものだった.
マイヤーホッフは,ヴィシー政権に出国ビザの発給を拒否されたが,すでにマルセイユの科学アカデミー会長に頼んで,フランス国境に近いバニュルス・シュラ・メールの海洋生物研究所に彼を移してくれるよう要請したことを述べ,ロッシュに国外脱出を助けてくれるように頼んだ.ロッシュは夫人がノルウェー人で,スペイン領事の夫人もノルウェーの出身ということもあり良好な関係にあったので,マイヤーホッフ夫妻のためにビザを取得することを決意した.しかし,マイヤーホッフは,スペイン領事に「私はドイツ市民ではなくて,無国籍者だ」と宣言することをたいへん嫌がった.ロッシュは何度も「今は緊急事態で,そんな呑気なことを言っているときではない」と言ってマイヤーホッフを説得したという.結果的に1カ月間有効のビザを取得できたので,ロッシュはそれを次の依頼書とともにマイヤーホッフに渡した.「マイヤーホッフ教授は,バニュルス・シュラ・メールにある海洋生物研究所で研究をしなければならない.ここは,スペイン国境に近く,バルセロナへの道路上にあるから,マイヤーホッフ夫妻が到着したら,研究所長の援助と,彼らをピレネー山脈を越えてスペインへ連れて行ける男の援助をお願いしたい」.
こうして,マイヤーホッフ夫妻は国境の町バニュルスに向かったが,20日かそれ以上経ってから,こともあろうにマルセイユに戻ってきた.マイヤーホッフは,真面目というかナイーブな人で,スペインとの国境まで行ったが「ギャングか盗賊のような形でフランスを出国したくない」ということで,もたもたしている間にビザの有効期限を切らしてしまった.そこで,もう一度フランコ政権から,1カ月以上有効なビザを取って欲しいとロッシュに頼んできたのだった.ロッシュはマイヤーホッフ夫妻に直ちにバニュルスへ引き返して,一刻も早く国境を越えるように言った.なぜなら,スペイン領事もこのような危険なことを二度と引き受けることはないだろうと考えたからだった.誰もがユダヤ人の味方をして身を危険にさらすことを嫌がっていた.マイヤーホッフ夫人は夫にロッシュの提案を受け入れることを決心させて,二人はバニュルスへ戻って行った.
ロッシュは,筆者への手紙の中で次のように言っている「この偉大な科学者の常識のなさは信じられないほどで,ドイツの占領下に置かれているわれわれに多大のトラブルを引き起こした」.というのは,マイヤーホッフは,フランス脱出後,ポルトガルからロッシュにお礼の電報を打ってきた「Well arrived in Portugal. Will leave soon. Meyerhof」.この電報がフランス警察の手に渡ったため,ロッシュは警察の尋問を受ける羽目になった.ある日,その電報をもった検察官がロッシュの研究室へ訪ねてきた.検察官はロッシュに「私は警察から来た検察官です.あなたは,マイヤーホッフ教授を知っていますか」と聞いてきた.ロッシュは,「もちろん.世界的に有名な生化学者だから知っている」と答えたという.「あなたは,リスボンからのこの人物の電報を受け取りましたね.彼はフランスから出国する権利をもっていないことをご存知でしたか?」.もちろん,「NO」とロッシュは答えた.ただし,この検察官もなかなか味のある人物で,「それが,私がほかの人々に断言したいすべてです」と言って,それ以上の事情は追及せずに去って行ったという.
マイヤーホッフは,たいへん真面目で律儀な人で,アメリカへ渡ってからも,2カ月に一度,現状報告の手紙を送ってきて,ロッシュをたいへん困らせたという.マイヤーホッフは彼自身のことのみならず,ソ連でパルナスが活動していることも書いてきた.この手紙は,警察で開封されたが読まれずに届けられた.戦時中はこんなことがよくあったという.ただ,この手紙の中で,マイヤーホッフが,パルナスと連絡があることを語っている点が筆者には興味深かった.パルナスはポーランドの生化学者で,解糖系代謝経路が“エムデン・マイヤーホッフ・パルナス経路”とも呼ばれるときの,ヤクプ・カルロ・パルナスである.
筆者が,ロッシュからもらったこの手紙を,マイヤーホッフの息子ウオーターに見せたところ,彼は次のように言った.「このロッシュの手紙は,父親(マイヤーホッフ)のマイナス面を示しているが,最も興味深いものである.私は父の旅行記録を調べて,フランスの出国ビザは,1940年の8月12日にマルセイユで発行されていて,有効期日は30日になっている.ところが,父の日記から両親がフランスを去ったのは,1940年10月4日になっている.彼らは,バリアン・フライ組織の誰か(実は,レオン・ボールという男)の案内で,国境まで案内されたとなっている.しかし,スペインの国境警察は彼らが国境を越えることを望まなかった.ところが全くの偶然から,アメリカ領事の,ジョン・ハーレイが居合わせて,彼らにマイヤーホッフ夫妻をスペイン国境を通過させるように強要した.お陰で,彼らは国境を通過することができたが,ビザの期限が切れていたので,国境警察は彼らの旅行記録に入国スタンプを押さなかった.両親がビザを期限切れにしてしまったのは,彼らがマルセイユまで戻って来たために起こったことだったのだ」と.
以上がマイヤーホッフ夫妻のピレネー山脈越えの真相である.ただ不思議なことにウオーターはロッシュのことは全く覚えていないという.若かった(当時18歳)ためなのか,フロイトのいうように,「人間は不幸な出来事は思い出したくないので,忘れてしまうようになる」のか筆者にはわからない.実際,ウオーターは自伝の中で,「フランスでのことはすべて忘れてしまいたい」と述べている.
何故,マイヤーホッフが地中海の小さな港町バニュルスに滞在したのかが,筆者の長年の謎だった.その疑問を解くために,筆者は2013年3月バニュルスの海洋生物研究所を訪問した.案内をしてくれた,イーブス・デスデーヴィセス博士の部屋から,美しいピレネー山脈が一望できた.彼は,研究所の歴史から現在どんな研究が進行中かを説明してくれた.彼の説明の中で,アンドレ・ルヴォフが若いときにこの研究所にいたことが明らかになった.彼はマイヤーホッフの弟子でノーベル賞を受けた一人である.これでマイヤーホッフが,バニュルスの海洋生物研究所に滞在した理由(筆者の疑問)が少し解けた.
ドイツでは,20世紀の終わりになって,関係者が死に絶えるまで,ナチスに協力した者とナチスに抵抗した者との確執があった.特にマイヤーホッフの後任でカイザー・ヴィルヘルム研究所(KWI)の所長だったリチャード・クーン(1938年ノーベル賞)がナチスの協力者だったのではないかと言われる.クーンは戦後日本に来て,京都でも講演したので,筆者も聴きに行った.たいへん大柄かつ恰幅のいい人物で,ドイツ訛りの英語を喋った印象がある.友人として世話をされた武居三吉先生(京大名誉教授)の話では,講演に先立ちウイスキーを1瓶空けたということで,みんな吃驚,感心した.マイヤーホッフのことを調べていくなかで,クーンがナチスの協力者だったという話が出てきたので,クーンの弟子で,マイヤーホッフの研究室にいた,カール・マイヤーにそのことを聞いた.彼の話では,クーンがナチスの協力者と言われるのは,彼がKWI所長としてドイツ化学協会で講演したとき,ヒトラーを礼賛したためで,その講演内容がベリヒテ(Chemische Berichte)に掲載されたからだろうということだった.両研究室で助手をしていたシュルツの話では,クーンはナチ党員ではなかったという.マイヤーの考えでは,クーンは党員になるほど馬鹿ではなかったし,当時の多くのドイツ人と同様に,日和見主義者だったのではないかということである.そういえば,音楽家のカラヤンなども少なくとも三度はナチスに入党している.
ここに,1945年11月1日付けのマイヤーホッフからクーンに宛てた返事の手紙がある.それによると「ナチの恐怖支配の終焉後にハイデルベルグに戻る事ができるように,私の研究グループを維持し,以前の研究所のポストを空けておいてくださった事に,私は深く感謝しております.このような感謝の念を抱きつつも,それだけで済ます事はできません.私は,以前の職場と全財産を失い,また一時的ではありましたが生命の危機に瀕しました.(中略)私は地位と職場を維持するために妥協したからといって誰かを非難したりはしません.しかし,貴方はそれをはるかに超えてしまっていました.私は,連合国の仲間があなたに対して下した非難,『筆舌に尽くしがたい忌まわしさと邪悪さを十分に承知していた政権の中で,尊敬に値する科学的能力と化学的に熟練された技術を,あなた自身の自由意思で使用した』という非難を否定する事はできません.(以下略)」(水上浩子訳)と,はっきりとクーンの戦争中の行動を非難する彼の気持ちを表明している.
1944年6月末にマイヤーホッフは,ウッズホールにある海洋生物学研究所(米国マサチューセッツ州)に滞在中,テニスの後で心臓発作を起こした.幸い,彼の親しいニューヨークの医師(グレヴィッチ)がいて,発作を鎮める注射をして,近くの病院に入院させた.しかしマイヤーホッフは,手足を動かすことができず,ただ目をパチクリさせるだけだったという.
筆者は,1978年にニューヨークでこの医師夫人(マリンカ)に会ってそのときの様子を聞くことができた.彼女はウッズホールのレストランの床に懐中時計(腕時計ではない)が落ちているのを見つけた.それはいつもマイヤーホッフがもっているものだったので,彼の部屋に届けたところ,彼は一人で胸を押さえて苦しんでいた.しかし,彼はあくまで冷静で静かだった.叫んだり,大げさな様子は見せなかったという.彼女の夫が,応急手当をして,近くの病院に入院させた.マイヤーホッフ夫人は健康が優れずウッズホールに来られなかったので,マイヤーホッフの娘ベチナとナハマンゾーン夫人とマリンカの三人でマイヤーホッフの面倒を見たという.2~3カ月後にマイヤーホッフは,友人の医師が治療を続けやすいようにニューヨークのシナイ病院に移された.病院ではマリンカがマイヤーホッフの看病をして,毎日3~4時間いろいろな本を読んであげたという.それはリルケの詩集とか,アルダス・ハクスリやトーマス・ウルフの本だったという.その後もマイヤーホッフは小さな心臓発作を何度か起こし,結局10カ月以上病院を出ることができなかった.マイヤーホッフ夫人もニューヨークに泊まるところを見つけて毎日介抱したが,最後にフィラデルフィアの自宅に帰ったときは,マイヤーホッフはたいへん,老けて見えたという.
第二次大戦後(1949年夏)に,戦乱のヨーロッパで活躍していた当時の仲間たちが米国マサチューセッツ州のウッズホール海洋生物学研究所に集まって撮った写真が残されている.左から右へ.コーレイ(S. Corey),ナハマンゾーン(D. Nachmansohn,自らマイヤーホッフの息子を名乗る),バーク(D. Burk),セント=ジェルジ(A. Szent-Györgyi,ビタミンC,Pの発見で,1937年ノーベル賞),ワールブルグ(O. Warburg,呼吸酵素で,1931年ノーベル賞),マイヤーホッフ(O. Meyerhof,筋肉の乳酸学説で,1922年ノーベル賞),ノイベルグ(C. Neuberg,メチルグリオキサール説その他で発酵化学に大貢献),ウォルド(G. Wald,マイヤーホッフの弟子で,目のビタミンAの研究で,1967年ノーベル賞).この写真は,筆者が1978年8月29日にカナダのハリファックスに住むゴットフリード・マイヤーホッフ博士(オットー・マイヤーホッフの長男)を訪ねた際にいただいた写真の中の1枚である.
マイヤーホッフは退院後も仕事を続け,1951年10月6日に二度目の心臓発作で亡くなった.それは,就眠中に起こり,彼はそのまま帰らぬ人となった.苦しみは全くなく,67年の生涯だった.本稿を執筆するにあたって文献にあげている資料を参照した(1~8)1) W. Meyerhof: “In the Shadow of Love, Stories From My Life,” Fithian Press, Canada, 2002.2) D. Nachmansohn: “German-Jewish Pioneers in Science, 1900–1933,” Springer-Verlag, Berlin–Heidelberg–New York, 1979.3) H. Krebs: “OTTO WARBURG,” Wissenschaftliche Verlagsgesellschaft mbH, Stuttgart, 1979.4) A. D. Beyerchen: “Scientists under Hitler,” Yale University Press, 1977.5) 丸山工作:“生命現象を探る”,中央公論社,1972.6) 丸山工作:“生化学の黄金時代”,岩波書店,1990.7) 丸山工作:“生化学の夜明け”,中公新書,1993.8) その他(関係者の書簡類多数)..
Note
本論文の内容に加筆したもの(英文)は,ドイツ,ベルリン(ダーレム)にあるマックスプランク研究所(旧カイザーヴィルヘルム研究所)の公文書保管館に永久保存されることになっている.
Reference
1) W. Meyerhof: “In the Shadow of Love, Stories From My Life,” Fithian Press, Canada, 2002.
2) D. Nachmansohn: “German-Jewish Pioneers in Science, 1900–1933,” Springer-Verlag, Berlin–Heidelberg–New York, 1979.
3) H. Krebs: “OTTO WARBURG,” Wissenschaftliche Verlagsgesellschaft mbH, Stuttgart, 1979.
4) A. D. Beyerchen: “Scientists under Hitler,” Yale University Press, 1977.
5) 丸山工作:“生命現象を探る”,中央公論社,1972.
6) 丸山工作:“生化学の黄金時代”,岩波書店,1990.
7) 丸山工作:“生化学の夜明け”,中公新書,1993.
8) その他(関係者の書簡類多数).