バイオサイエンススコープ

生物多様性条約と科学のかかわり(第2回)合成生物学の技術分野とその社会経済学的な課題とは

Hideyuki Shirae

白江 英之

一般財団法人バイオインダストリー協会 ◇ 〒104-0032 東京都中央区八丁堀二丁目26番9号 グランデビル8階

Japan Bioindustry Association ◇ Grande Building 8F, 2-26-9 Hacchobori, Chuo-ku, Tokyo 104-0032, Japan

Published: 2015-10-20

第1回の報告では,生物多様性条約(CBD: Convention on Biological Diversity)の締約国会議であるCOP(the Conference of the Parties to the CBD)にて,最近著しい発展を見せる「合成生物学」という学問領域に関して今どのような議論がなされ,何が問題となっているのかを紹介した.今回はCOPの議論から,「合成生物学」というのはどのような学問領域として捉えられているのか,どの技術まで「合成生物学」に含まれていると想定されているのか,そしてその議論に潜む,途上国やNGO(非政府)団体が要求する社会経済的な補償の問題についてもご紹介したい.

「合成生物学」の技術分野

CBD事務局が提出した文書では,「合成生物学」は以下の5つの技術分野からなる学問領域であるとし,それぞれの技術をCBDが独自に定義づけしている(1)1) CBDホームページ:“New & Emerging Issues,”https://www.cbd.int/emerging/

  1. 1. 人工遺伝子回路(DNA-based genetic circuits)
  2. 2. 合成代謝経路工学(synthetic metabolic pathway engineering)
  3. 3. ゲノム細胞工学(genome-level engineering)(トップダウン型とボトムアップ型)
  4. 4. 人工細胞(protocell construction)
  5. 5. 非天然生物学(xenobiology)

各技術分野の具体的な内容は,経産省のホームページに掲載された「平成26年度環境対応技術開発等(遺伝子組換え微生物等の産業活用促進基礎整備事業)報告書 第Ⅱ編 平成27年3月 一般財団法人バイオインダストリー協会編」を参照されたい(2)2) 一般財団法人バイオインダストリー協会:経済産業省委託事業 平成26年度環境対応技術開発等(遺伝子組換え微生物等の産業活用促進基盤整備事業) 報告書 第II編 平成27年3月,http://www.meti.go.jp/meti_lib/report/2015fy/000358.pdf

さて上記の5つの技術分野は,これまでの遺伝子組換え技術(GMT: genetically modified technology)を基本技術とする一方で,ヒトゲノムの解析研究以降に発展したDNA/RNAの核酸合成技術や細胞工学技術,あるいは情報工学,コンピューター化学やゲノム解析技術等などのあらゆるサイエンスの分野を抱合しており,これらをすべてまとめて「合成生物学」とCBD事務局は定義した.しかしこの定義に従うと,「合成生物学」の学問領域の範囲があまりにも広すぎて,各技術の利点とリスクを抽出して議論し,最終的に統一された単一のリスク評価方法と管理システムを構築して,国際的な合意を得るというCBDの目的を達成するのは困難と言わざるをえない.また明確な技術分野が定まっていない「合成生物学」をすべて包括しうる定義の設定への試みは,結局従来の古典的なGMTをもその定義のなかに抱合してしまい,GMTと「合成生物学」の区別をかえって難しくさせてしまうように思える.さらに今回のCBDでの議論では,「合成生物学」の実験に必要なツール(試薬,ライブラリー,DNA合成機器,遺伝子情報データベース,遺伝子解析コンピューターソフト,合成DNA/RNAなど)を,「成分“Components”」という語句で統一して,この「成分」の国境を超えた移動(インターネットによる情報伝達なども含む)までにも,新たな規制を設定するべきだと主張する国やNGO団体もでてきている.ここまでくるとCBDの議論の目的を逸脱していると考える.

しかし昨年12月に,欧州委員会の下部にある3つの科学技術専門委員会(3)3) SCHER (Scientific Committee on Health and Environmental Risks), SCENIHR (Scientific Committee on Emerging and Newly Identified Health Risks), and SCCS(Scientific Committee on Consumer Safety)のエキスパートリスト,http://ec.europa.eu/health/scientific_committees/emerging/members_wg/index_en.htm#から合同で提出された「合成生物学Ⅱ―リスク評価方法と安全性の側面―」という報告書には,これまでのCBDの議論に加えて,さらにゲノム編集技術(ZFN,TALEN,CRISPR-Cas9など)までもが将来「合成生物学」の技術分野で使用される可能性が高いという理由で,今回のCBDでの「合成生物学」の議論の中に組み入れられている(4)4) 欧州委員会科学委員会:“Preliminary opinion on Synthetic Biology II Risk assessment methodologies and safety aspects,” http://ec.europa.eu/health/scientific_committees/emerging/docs/scenihr_o_048.pdf

この3つの科学技術専門委員会が提案している合成生物学の定義は次のとおりである.

「合成生物学とは,生物の遺伝素材のデザイン,作成,および(または)加工を促進し,加速するための科学,技術および工学の応用である」(5)5) 欧州委員会科学委員会:“Opinion on Synthetic Biology I Definition,” http://ec.europa.eu/health/scientific_committees/emerging/docs/scenihr_o_044.pdf

“SynBio is the application of science, technology and engineering to facilitate and accelerate the design, manufacture and/or modification of genetic materials in living organisms.”

上記の報告書では,「2005年から現在に至るまでの報文等で発表された「合成生物学」の各定義が網羅的にレビューされており,今後のリスク評価を目的として考えた場合には,このような概念的な定義ではなく,実際のリスク評価に役立つ実務的な“operational”定義が必要である」としている.また,「現在実際に使われている技術等を包含すると同時に,現在は想定されていない新しい技術等にも対応できるものでなければならない」と説明している.

しかし同科学専門委員会からは,「合成生物学」と従来のGMTとを区別するための明確な基準が示されなかったことから,「合成生物学」を従来のGMTを包含するさらに広義の概念と捉えた解釈をすることも可能となる.したがって今後,これまでのカルタヘナ議定書(6)6) 日本では,「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律—通称「カルタヘナ法」」として施行,http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H15/H15HO097.html下での遺伝子組換え生物(GMO: genetically modified organisms 欧州では,LMO(living modified organisms)ではなく,GMOという略称を使用している)の定義に当てはまらないゲノム編集技術などで作成された植物などが増えてきた場合に,従来のGMOをも包含する形で,「合成生物学」全体をカバーする新たな規制やリスク評価の枠組みが必要,との主張に結びつく可能性もある.その場合には,カルタヘナ議定書などの過去の国際交渉ですでに解決済みの問題,たとえばカルタヘナ議定書にある“modern biotechnology”の定義,“product thereof(生産物の派生物)”の扱い,社会経済的影響などに関する議論を再び惹起する可能性があり,また,永年の経験に基づいて築き上げてきたLMOのリスク評価の枠組みを覆す事態にもなりかねない.元々GMTを快く思っていない各国のNGO団体などは,これを機に,GMTの規制法であるカルタヘナ議定書でカバーされているLMO(欧州ではGMO)によって生産される各種の「生産物“products”」に対して新たな国際的な規制の枠組みを求める主張を繰り返しているし,またゲノム編集技術で作製されたLMO(GMO)にはカルタヘナ議定書の規制が及ばないとして,カルタヘナ議定書に代わる新たなGMTを規制する法律の制定を強く求めている.

このような状況を鑑み,今後のCBDでの「合成生物学」に対する国際交渉に関して,わが国としては慎重な対応が求められるであろう.特に次の章に記載する,「合成生物学」によって生じる「生産物」の商業活動による社会経済的な損失の補償を求める動きは,わが国バイオ産業の根幹を揺るがしかねない重大な問題として捉えられるべきである.

「合成生物学」を取り巻く社会経済学上の課題

先に述べたように「合成生物学」の基本技術は,従来のGMTがベースであることに変わりはない.1973年コーエン・ボイヤーが大腸菌を用いて最初の遺伝子組換え実験に成功して以来,すでに40年以上経過している.そして,このGMTによって非常に多くの製品(食品,医薬品,化学品など)が,安価に大量に生産できるようになった.一方で,この技術による生物多様性への重大なるリスクの報告は,筆者の知る限りこれまで報告されていないように思う.

「合成生物学」と従来のGMTの大きな違いは,扱う遺伝子のスクリーニング法と遺伝子数およびその操作性にある.GMTは,ほとんどの場合単一の遺伝子に焦点を絞り,その遺伝子のみの改変を行うことで,ある特定の物質の生産性を高める手法であるのに対して,合成生物学は,遺伝子データベースにある物質の生合成(代謝経路)上にあるすべての遺伝子を網羅的に調べて,複数の遺伝子が組み合わさって成り立つ代謝経路を一括して扱い,遺伝子を改変する技術である.その場合,宿主での発現に最適なコドンの選択や,複数にまたがる代謝系上の遺伝子間の連携を最適化して新たな生産経路を設計し,本来その宿主が生産できない自然界の産物の生産を可能にさせたり,ときには自然界にない分子,たとえば非天然のアミノ酸などを,組換えタンパク質の配列の中に導入させたりして,新しい機能を付与したりすることも可能にさせる.加えて,数学的な予測に基づいた改変(遺伝子の設計)がなされる点も合成生物学の特徴であろう.

このように急速に発展する「合成生物学」に対して,各国で伝統的に営んできた産業や植物から抽出される天然物を取り扱う地域産業が大打撃を受け,地域経済のみならず,その地域の生物多様性をも脅かされる恐れがあるとする懸念が途上国中心に広まっている.そして,そのリスク懸念が解消されるまで「合成生物学」の研究や商業的な販売を一時的に停止(モラトリアム)させるか,あるいは新たな国際基準の規制を設定して国際承認が得られない場合はその製品の販売を許可すべきでないとの主張がなされている.あるいは仮に「合成生物学」よって製造された製品が市場で販売され,各国の伝統産業に損害を与えた場合には,その損害に対する金銭的な補償をすべきであるという主張が,途上国やNGOを中心に,CBDのCOPの場で執拗に繰り返されている.

カルタヘナ議定書では,その第26条に「締約国は,この議定書またはこの議定書を実施するための国内措置に従い輸入について決定するに当たり,特に原住民の社会および地域社会にとっての生物の多様性の価値との関連において,改変された生物が生物の多様性の保全および持続可能な利用に及ぼす影響に関する社会経済上の配慮を自国の国際的な義務に即して考慮することができる.」とあり,「社会経済上の配慮」が明文化されている.しかし,カルタヘナ議定書の対象はあくまでもLMO(生きた遺伝子組換え生物)のみであって,LMO由来の「生産物」までその対象は及ばない.このため,本件の議論は専らCBDのCOPで議論され,その議論の対象も先に述べた「生物“organisms”」のみにとどまらず,「成分」,「生産物」の範囲にまで拡大している.

さらに2014年10月12日付で発効された名古屋議定書にある「遺伝資源の活用により損害を被る国や地域に対する利益配分」の規定をこの合成生物学によって生じる“成分”や“生産物”にも活用して,「社会経済的な補償」を求めようとする動きもある.なお,名古屋議定書では,その対象範囲やどのくらい前までさかのぼって対象の遺伝資源を取り扱うかなどはまだ不明瞭のままである.また,これまでのGMTと「合成生物学」の境界が不明確なため,カルタヘナ議定書で対処しているGMTに関しても新たな規制が覆いかぶさるという二重規制になりかねない.さすがにこれには先進国を中心に反発が強まっている.

現在議論されている3つの項目「生物」,「成分」,「生産物」もいったい何を指しているのか,その定義すらまだ決まっていない.今後2016年12月にメキシコで開催予定のCOP13に向けて,2015年4月末から7月初旬にかけて開催された合成生物学の専門家を交えたオンラインフォーラムでも,途上国や各国のNGO団体から社会経済学的な補償を求める発言が執拗に繰り返された.これに嫌気をさした先進国のオンラインフォーラムの参加者からは,合成生物学から生じる「生物」,「成分」,「生産物」のリスク評価の議論とリスクマネジメントの議論(社会経済学的措置を含む)をわけるべきである,という提言もなされた.今後,この社会経済学的措置の議論がどのように進められるのかは未定だが,わが国としてどのような主張とポリシーをもってこの議論に参加していくのか,十分に検討する必要がある.

「合成生物学」における社会経済学上の課題の実例

現在,途上国から「合成生物学」の登場によって社会経済学的な損害が被るとされている地域伝統産業への補償を求める主張内容は千差万別であって,まだ統一したスタンスはない.先のオンラインフォーラムでは,主にスイスに本社のあるEvolva社が開発し,米国のIFF(International Flavors and Fragrances)社が販売しているバニリンに議論が集中した.なぜなら,OECDが昨年発刊した「Emerging Policy Issues in Synthetic Biology」(7)7) OECD: “Emerging Policy Issues in Synthetic Biology,”2014.には,このバニリンが世界最初の合成生物学による製品と記載されたからであろう.しかし,世界のバニリンの需要は16,500 T(2011年)であり,その99%は石油由来の原料から化学合成法により製造され,販売されている.今回NGOが社会経済学的補償として求める天然のバニリンのシェアーは全体の流通量の僅か1%以下であり,またその60%がマダガスカルで生産されている.マダガスカルには,2013年ごろから日本の高砂香料やハーゲンダッツ社などが現地にバニラフレーバーの生産工場を建て,地域に入り込んで天然バニリンの保存と利用可能な維持に貢献している.しかし,Friend of the Earthを中心に7つのNGO団体が,Evolva社のバニリンを“天然”由来とする宣伝に反発して,2013年8月27日付で世界中のアイスクリーム製造会社に公開質問状を送付し,合成生物学由来のEvolva社のバニリンを使用しないように求めた(8)8) Friends of the Earthによるハーゲンダッツ社への公開質問状,2013年8月27日付,http://libcloud.s3.amazonaws.com/93/56/6/4828/Letter_to_Haagen-Dazs_Synbio_Vanilla_Nestle.pdf.そしてこの抗議活動に,世界116の市民団体が同調した(NGOがWEBに掲載した市民団体の数).元々天然バニリンしか利用していないハーゲンダッツ社は,この質問状に対して,「われわれはこれまで天然バニリンしか利用していないし,今後も天然のものしか使用するつもりはない」と声明を出した.これを受けて,NGO各組織は,われわれの主張が受け入れられたとして,インターネット上に声明を出した(8)8) Friends of the Earthによるハーゲンダッツ社への公開質問状,2013年8月27日付,http://libcloud.s3.amazonaws.com/93/56/6/4828/Letter_to_Haagen-Dazs_Synbio_Vanilla_Nestle.pdf

また米国のSolazyme社は,ブラジルで微細藻類を用いて各種脂肪酸を製造し,そのうちC12とC14の中鎖脂肪酸を家庭用洗剤の原料として,ベルギーのエコバール社に供給した.そしてエコバール社は,その原料をもとに世界初の藻類由来の原料を用いた洗剤として売り出した.しかし,2014年春に24のNGO団体が,エコバール社に公開質問状を送付して,明確な規制の枠組みのない合成生物学由来の製品の利用は,生物多様性の減少の潜在的なリスクにつながるサトウキビ由来の糖源の使用も合わせて,社会正義への挑戦であると主張し,合成生物学由来製品の使用のとりやめを求めた.また同団体は,同年10月に韓国で開催されたCOP12の場で,合成生物学由来の製品の商業使用や環境への放出の禁止を各国政府代表者に求めた.しかし,Solazyme社の脂肪酸生産用の微細藻類に導入された遺伝子は,特許から類推するにfatty acyl-ACP(acyl carrier protein)thioesteraseの遺伝子1個のみであり,従来のModern Biotechnologyの技術範囲に留まり,とても合成生物学によって生じた製品とは思えない(9)9) 米国特許US7935515 B2(2011年5月3日公告)「新規の油を作る組換え微細藻類」,http://www.google.com/patents/US7935515.NGOの主張に根拠はない.

上記2製品以外に,NGOが合成生物学由来の生産物であると主張する製品には,ココナッツ油,サフラン,バニラ,ココアバター,天然ゴム(イソプレーン),パチョリ(ファルネセン)などの農作物や,甘味料のステビアなどがある.また,医薬品の原料であるアルテミシニン酸(抗マラリア薬の原料:フランスのサノフィー社が販売予定)などに対して,合成生物学による商業生産のアプローチがあり,それらの生物資源をもつ各生産国から合成生物学に対する国際規制を求める要求が高まっていると,NGOはCOPの場で訴えているのである.各品目の一覧表を別紙にまとめた(10)10) ETC group: Case Studies in the Impact of Synthetic Biology: Coconut oil, palm kernel oil and babassu, http://www.etcgroup.org/content/case-studies-impact-synthetic-biology-coconut-oil-palm-kernel-oil-and-babassu表1表1■合成生物学の発展で影響を受けると途上国が主張する地域産業の一覧表).

表1■合成生物学の発展で影響を受けると途上国が主張する地域産業の一覧表
品目ぺチバ油(Vetiver)サフラン(Saffron)バニラ(Vanilla)ココアバター (Cocoa butter)ココナッツ油(Coconut oil)イソプレン(ゴム)アルテミシニン酸(Artemisinic acid)
代表的な生産国インドネシア,ハイチイラン,ギリシャ,モロッコマダガスカル,レユニオンコートジボアール,ガーナ,インドネシアフィリピン,インド,インドネシアタイ,インドネシア,ベトナム,インド,中国中国,ケニア,タンザニア
年間生産高(推定)250 T300 T2,000~3,000 T(バニラ豆)394万T(ココア豆)345万T (2013/2014)6億T163 T (2011)
従事者(人)(栽培面積(ha))ハイチ:6万(1万ha)イラン:20万人(3万ha)20万人(推定)500~600万人フィリピン:350万人(356万ha)2,000万人以上(推定)10万人
原産インド西南アジア中央アメリカ熱帯アメリカタイ(?)ブラジル中国
生物種Chrysopogon zizanioidesCrocus sativusVanilla planifoliaTheobroma cacaoCocos nuciferaHevea brasiliensisArtemisia annua
用途フレグランス香辛料・添加物香辛料・添加物チョコレートの原料食品,界面活性剤ゴム 加工品マラリヤ薬の原料
開発企業AllylixEvolvaEvolvaSolazymeCodexis, LS9Du PontなどAmyris
宿主酵母酵母酵母微細藻類大腸菌/藻類大腸菌酵母

この一覧表にある地域伝統産物には,これまでも化学合成や旧来の微生物を用いた発酵法,酵素法,あるいは化学合成法と酵素法の組み合わせなどによって新しい製造法が生み出されてきたものばかりである.前述のEvolva社も,そのターゲット市場は合成品のバニリンが使用されている食材市場であって,高級アイスクリームなどに使用される天然由来のバニリンの市場ではないと言っている.最終的には,製品の価格やその特性,機能によって,おのずと使用される市場領域決められるのであって,途上国の言うような,「地域の伝統産業がすべて衰退してしまう」ということも考えられない.

まとめ

CBDで議論が開始された「合成生物学」の技術分野は,上記に示したように極めて多岐にわたる.その学問領域の定義も範囲も,そして3つのキーワード(「生物」,「成分」,「生産物」)の定義も不明瞭なまま,CBDでの「合成生物学」に対する国際的な規制の必要性の有無の議論が進んでいる.すでに欧州委員会では,合成生物学によって起こる社会経済学的影響を評価する指標(Indicator)の検討に入っていて,近々公表されるという話もある(CBDの「合成生物学」に関するオンラインフォーラムでの英国代表からの発言).

これまでわが国のごく一部のものしか,このような国際的な議論が展開していることを知りえなかったが,すでに発効した名古屋議定書のときのように,その取り決めや規制が国際的に決定してからでは,わが国として何の手当ても打つことができない.本誌の第1回の報告で述べたように,米国はCBD加盟国ではないため,このCBDの合成生物学の議論には参加しているが,そこでの発言権は強くない.そして「合成生物学」に実際取り組んでいる先進国は,CBDの中では少数派であり,さらに欧州ではGMOを好まない一般人が多く,CBDでの議論に対して明確に反対を唱えられない事情もある.

一方,各国のNGOはその根拠が曖昧のまま,GMTによって製造された各種製品に対して,公開質問状をその製品を利用している販売企業に向けて送付するというやり方で,攻撃を繰り返している.その活動は,年々活発になっている.日本企業はまだその攻撃対象になっていないが,今後はこのようなNGOの動きに十分注意する必要がある.またその攻撃の対象は,企業だけとは限らない.アカデミアもその対象からは逃れられない.

この「合成生物学」のさらなる発展のために,是非わが国の科学者の間でも,今後このような国際論争の場での議論に興味をもっていただき,日本政府やCBD事務局に対して意見具申をしていただきたいと願う.また反合成生物学団体のWEB上に発せられる事実誤認の記事に惑わされないように十分に気をつけるべきであろう.

次回の報告では,各国が「合成生物学」をどう規制し,リスク評価とその管理を行っているかの現状について紹介したい.

Acknowledgments

本稿の内容は,経済産業省平成26年度環境対応技術開発等(遺伝子組換え微生物等の産業活用促進基盤整備事業)の「生物多様性関連の遺伝子組換え技術の国際交渉に係る調査検討委員会」での議論ならびに調査研究に基づいたものである.同調査検討委員会の委員の皆様および報告者の執筆にご協力をいただいた関係各位の皆様に,改めて御礼申し上げます.

Reference

1) CBDホームページ:“New & Emerging Issues,”https://www.cbd.int/emerging/

2) 一般財団法人バイオインダストリー協会:経済産業省委託事業 平成26年度環境対応技術開発等(遺伝子組換え微生物等の産業活用促進基盤整備事業) 報告書 第II編 平成27年3月,http://www.meti.go.jp/meti_lib/report/2015fy/000358.pdf

3) SCHER (Scientific Committee on Health and Environmental Risks), SCENIHR (Scientific Committee on Emerging and Newly Identified Health Risks), and SCCS(Scientific Committee on Consumer Safety)のエキスパートリスト,http://ec.europa.eu/health/scientific_committees/emerging/members_wg/index_en.htm#

4) 欧州委員会科学委員会:“Preliminary opinion on Synthetic Biology II Risk assessment methodologies and safety aspects,” http://ec.europa.eu/health/scientific_committees/emerging/docs/scenihr_o_048.pdf

5) 欧州委員会科学委員会:“Opinion on Synthetic Biology I Definition,” http://ec.europa.eu/health/scientific_committees/emerging/docs/scenihr_o_044.pdf

6) 日本では,「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律—通称「カルタヘナ法」」として施行,http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H15/H15HO097.html

7) OECD: “Emerging Policy Issues in Synthetic Biology,”2014.

8) Friends of the Earthによるハーゲンダッツ社への公開質問状,2013年8月27日付,http://libcloud.s3.amazonaws.com/93/56/6/4828/Letter_to_Haagen-Dazs_Synbio_Vanilla_Nestle.pdf

9) 米国特許US7935515 B2(2011年5月3日公告)「新規の油を作る組換え微細藻類」,http://www.google.com/patents/US7935515

10) ETC group: Case Studies in the Impact of Synthetic Biology: Coconut oil, palm kernel oil and babassu, http://www.etcgroup.org/content/case-studies-impact-synthetic-biology-coconut-oil-palm-kernel-oil-and-babassu