巻頭言

昨今の農芸化学について考える

Makoto Nishiyama

西山

東京大学生物生産工学研究センター細胞機能工学研究室 ◇ 〒113-8657 東京都文京区弥生一丁目1番1号

Laboratory of Cell Biotechnology, Biotechnology Research Center, The University of Tokyo ◇ Yayoi 1-1-1, Bunkyo-ku, Tokyo 113-8657, Japan

Published: 2015-12-20

農芸化学科がほとんどの大学からなくなって30年近くが経過し,農芸化学は本会だけの名称になった感があった.そうしたなか,岡山大学で10年ほど前に農芸化学コースが復活し,さらに2016年度からは高知大学に農芸化学科が設置されると聞く.東京大学においても,数年前に学生実験書として「実験農芸化学」と農芸化学の名前が復活し,農芸化学概論という必修講義も行われるようになった.こうした農芸化学という名称の復興は単なる懐古主義ではなく,農芸化学が今でもわれわれの学問領域にとって魅力のある名称であることの表れであろうと思われる.

農芸化学は,生命現象の仕組みと制御を解析する基礎的な研究を進めるとともに,生物がもつ有用機能を利用した技術開発を行う応用的な研究を展開する学問であり,人類の福祉に大きな貢献を果たしてきた.農芸化学が最も得意とする研究の流れは,有用な生物機能,特異な生命現象を発見し,かかわる分子を化学的に同定することを通して,その作用機序を解明するということであったように思う.つまり,有用な生物機能という応用的な側面から研究に取り組み,機構解明という基礎へ向かう,「応用から基礎へ」というほかの学問ではあまり見られない方向で研究が展開するのが農芸化学的研究の特徴の一つであった.そして農芸化学研究者は,その生命現象や生命現象にかかわる「もの」にこだわりをもち,それに高い価値を見つけ出すことで,独創的な研究を展開してきた.

上述したようなやり方が農芸化学に伝統的なものだとすれば,昨今はそれも様変わりしつつある.生物の有用な機能の探索を行う研究は少なくなり,医学,理学,薬学などと同じ土俵での研究が多く見られるようになった.パブリックドメインに出されたゲノム,トランスクリプトームなどのビッグデータを,誰もが同じ指標,同じ手法で解析していては,研究はスピードだけの勝負になってしまい,オリジナリティーもなくなってしまう.こういうデータをどのようにさばいて調理するか,この点が農芸化学研究者の腕前が今試されているところかもしれない.それと同時に,生物,生命現象を観察する研究が減ってきているように思える.その観察にこそオリジナルな研究を展開する原点があるはずである.また,そうした研究の発端だけでなく,日々の研究活動においても,スピード優先の弊害か,実験成功の是非だけを重要視し,実験結果をよく見て,考えるということをつい怠りがちになっているかもしれない.思ったようなデータが出なかったときにこそ,結果をよく見ることが特に大事であるのは言うまでもない.実験結果は,生物あるいは研究材料がわれわれに何かを語ってきているのであり,それをしっかりと聞く必要がある.学生に正確な技術や知識を教えるだけでなく,データを見極める目を身につけさせることは,われわれの教員としての使命である.ひいては農芸化学らしい独創的な領域を切り開くことができる人材の養成につながるのではないだろうか.今一度,われわれも自分たちを戒めて,きちんとした視点から物事を観察する姿勢を大切にしなければいけないとつくづく感じる.

2015年のノーベル生理学・医学賞が本会名誉会員の大村智先生に授与されることが決定した.大村先生のご業績がこれまでも世界的に極めて高く評価されてきたことは周知の事実であるが,今回のご受賞によりそれがまた一段昇華したように感じられ,本会の会員として非常に嬉しく思う.インタビューで大村先生は,「私の仕事は微生物の力を借りているだけであって,自分自身が難しいことをやったわけではない.微生物がやってくれた仕事を整理しただけである」と話しておられる.大村先生のご研究は,微生物がもつ機能を観察し,その鍵となる有用な物質(抗生物質や生理活性物質などのいわゆる「もの」)を単離し,応用するという方法で進められたものであり,農芸化学的研究そのものと言える.また,先生のご受賞に付随して,「微生物」に重要な機能があるということ,そして微生物の機能を見つけ出す「スクリーニング」が人類に大いに貢献したことが広く日本の社会に知られたことは,同じ微生物を研究する者として非常に嬉しく思う次第である.大村先生の今回のご受賞が,われわれが「世界に冠たる農芸化学」を掲げ続けるための大きな起爆剤となっていくことを期待したい.