Kagaku to Seibutsu 54(1): 27-31 (2016)
2015年ノーベル生理学・医学賞受賞記念特集
わが国における抗生物質探索の道標
Published: 2015-12-20
大村 智先生が2015年のノーベル医学生理学賞を受賞された.抗生物質生産菌の研究者としては,ペニシリンのフレミング(英,1945年),ストレプトマイシンのワクスマン(米,1952年)に次ぐ3人目の受賞であり,放線菌研究者としてはワクスマンに次ぐ2人目の受賞である.大村先生は,ペニシリンなどのβ-ラクタム抗生物質やストレプトマイシンなどのアミノグリコシドを研究対象としない方針を立て,ロイコマイシン研究に端を発するマクロライドを中心的研究対象として数々の科学的業績を上げられた.そして,「人類への偉大な貢献」と評価されたイベルメクチン開発につなげられた.本稿では,大村先生に先行したエポックメーキングな抗生物質探索研究からの道標を概略的に紹介する.
© 2016 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2016 公益社団法人日本農芸化学会
ペニシリン(Penicillin)は1928年に英国のフレミング(Fleming)によって発見され,1940年にフローリー(Florey)らによって再発見された.肺炎球菌に有効で,肺炎患者も治癒できることが確認され,それまでの薬剤では歯が立たなかった感染症原因微生物に突破口を開いた物質として高く評価され,フレミングはフローリーらとともにノーベル賞を受賞した(1945年).ペニシリンのニュース(キーゼ博士の総説)はドイツから潜水艦で1943年の秋に日本にもたらされた.それを受けて第二次世界大戦中の1944年2月に陸軍軍医学校内にペニシリン委員会(碧素委員会)を設置して,ペニシリン開発研究を開始したのがわが国における抗生物質研究の端緒である(表1表1■ペニシリン–ストレプトマイシン–カナマイシン:発見・開発の道標参照).同委員会には軍医学校長名の招集により基礎医学・物理・臨床・化学・農芸化学・薬学・植物などの研究者が参加した.そして,その年のうちに和製ペニシリンをものしたのであるが,同委員会を組織した稲垣克彦少佐および研究のリーダー役を務めた梅澤浜夫博士の貢献に負うところが大きかった.
1929 | 40 | 44 | 45 | 46 | 52 | 57 | 58 | 62 | 67 | ||
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ペニシリン(PC) | 英国 | PC発見(Fleming) | 再発見(Floreyら) | ノーベル賞(45) | 耐性菌メチシリン(半合成) | ||||||
米国 | 量産(Merck) | Foster派遣(46) | |||||||||
Q176, タンク培養 | |||||||||||
セファマイシン(第一世代) | |||||||||||
日本(稲垣克彦) | 璧素委員会(44) | ||||||||||
生産菌探索→量産(製薬企業) | |||||||||||
ストレプトマイシン(SM) | 米国(Waksman) | 放線菌探索開始 | SM発見(44) | ノーベル賞(52) | |||||||
来日(52) | ワックスマン財団設立(日本;57) | ||||||||||
日本(梅澤浜夫) | 予防衛生研究所設立(46) | ||||||||||
日本抗生物質学術協議会設立(46) | |||||||||||
SM生産菌(GHQサムス提供) | |||||||||||
量産研究(製薬企業) | |||||||||||
カナマイシン(KM) | 日本(梅澤浜夫) | 放線菌探索開始 | KM発見(57) | ||||||||
認可発売(58) | 微生物化学研究所設立(62) | ||||||||||
文化勲章受章(62) | |||||||||||
(製薬企業) | 量産 | ||||||||||
米国 | 発売(Bristol Myers; 58) | ||||||||||
KMシンポ(NY; 58および67) |
最初の委員会(2月1日)で,キーゼ報告(梅澤博士が翻訳)などを基に議論が行われた.その結果,日本中のカビを集めて培養し,梅澤博士らがその培養液の試験管内抗菌作用ならびに動物実験での有効性を調べることになった.稲垣少佐は,全国各地からの菌株収集,必要な研究資材の調達と配給,各研究機関との連絡,研究進捗状況の調査,文献および資料の収集と配布,委員会等の開催などの役割を担うことになった.稲垣少佐は,“軍”だけが学問を推進できる状況を把握し,ペニシリン研究の責任を深く認識して“縁の下の力持ち”に徹して公正な協力をすることを軍医学校のとるべき姿勢として事に臨んだ.
研究はいろいろな紆余曲折を経たが,10月に至って大きな成果が得られた.9日に東大の坂口謹一郎研究室で開かれた小委員会で梅澤博士は,薮田貞治郎研究室の2菌株の培養ろ液からキーゼ博士の総説に従って抽出・濃縮して得た黄色濃縮液が1,600~3,200倍でブドウ球菌の発育を完全に阻止し,廿日ネズミの肺炎球菌の感染に強い阻止作用を示すことを報告した.そして,30日の第6回委員会で,梅澤純夫教授(慶大)が,梅澤浜夫博士の作製した濃縮液から抗菌物質をバリウム塩およびカルシウム塩として精製し,その理化学的性状はキーゼ博士総説中に記載されていた精製ペニシリンの性状と合致したことを報告した.
こうして8月が目標であった所期の目的は2カ月遅れで達成された.神林浩陸軍省医務局長は,「従来わが国の研究体制は余りにも割拠的で,学者は狭い殻の中にとじこもり,ときには排他的の弊なきにしもあらずのきらいがありました.然るにこのペニシリン研究においては,医,薬,農,理学等関係各部門の一流の学者が渾然一体となり,知識の交流,新研究への合議を重ね,相助け相励まし,幾多の難関を突破して遂に一大成果を獲得したのであります.これはわが国研究体制の一新機軸であり,将来日本の学界に一つの暗示を与えると確信しております」とお礼の言葉を述べた.研究者らは,研究資材不足,睡眠不足,過労,栄養失調に悩まされながらも研究に没頭し,事をなし遂げたわけだが,それは科学的興味と情熱と同時に病原菌によって命を失う人を一人でも多く救わねばならぬという使命感に支えられていたからであった.
次に大量生産研究が行われた.各種の培地・培養条件が検討される一方で,稲垣少佐はある国のペニシリン工場の写真が牛乳工場のように見えたことから,伯父が関係していた森永乳業の協力を得て同社三島工場で瓶培養を毎日100 L行うことになった.稲垣少佐の4名のブレーン(相沢 憲,梅澤浜夫,増山元三郎,佐藤弘一)が指導に当った結果,1カ月でペニシリン精製液を作ることに成功した.この精製液の成果については,第7回委員会(12月23日)で報告された.一方,梅澤博士の指導下でペニシリン製造に取り組んでいた萬有製薬も同委員会にペニシリンのアンプルを提出した.この委員会で,井深健次軍医学校長(軍医中将)は,「ペニシリン委員会はこれまで軍医学校が中心だったが,今回の成果を契機に国家的事業として運営する.そのため従来のペニシリン委員会を発展解消し,海軍と協力して陸海合同委員会として続ける.第二に,大量生産によるペニシリンは,とりあえず民需より軍需を優先する.第三に,ペニシリンという名称について,本邦で得られたものが必ずしもフレミングの発見したペニシリンとは限らないので,“碧素”という和名に改める.」という提案を行い,委員の賛成を得て決まった.
梅澤浜夫博士はペニシリン委員会の成果を以下のように述懐している.「研究に供された2千株ものカビの中からペニシリン生産有力株が選定され,昭和19年10月頃には褐色無定形ペニシリンの生産の目処がつき,12月には碧素という和名が決定した.11月からは大量生産に向けて,萬有製薬,森永乳業,山形合同食品(明治製菓,明治乳業)および北海道興農公社に生産委託・指導が行われた.菌の培養に関しては,わが国の伝統発酵技術である表面静置培養技術に頼らざるを得なかった.抽出・精製法も資材の不足や停電問題を抱えながら研究された.いずれも専門情報が乏しく,試行錯誤の繰り返しであったが,そうした苦労が戦後の米国による先端知識の開示と技術指導を受け入れ,こなしていくうえで大きな基盤となった.さらに,委員会を学際的構成とし,すべての研究報告を委員会で行うという運営方針は戦後のペニシリン生産プロジェクトに引継がれたと思われる」.
終戦とともに碧素委員会は消滅した.GHQ(連合軍総司令部)の命令で,井深軍医学校長と梅澤浜夫博士の二人が和製ペニシリンとともにペニシリン研究の業績を提出した.
戦後,厚生省は米国のように良質有効なペニシリン製品を製造させ,日本人の健康を守ることを目的とし,ペニシリンを重要産業といち早く位置づけて生産再開に向け最優先で資金・資材・石炭・電力の割当,陸軍の衛生材料の放出などを実施した.そして,「製造会社の協調連絡を図る協会」と「総合研究と技術指導に当たり,厚生省の諮問に応ずる研究者の団体」の設立が指示された.この指示に基づき,社団法人日本ペニシリン協会(1946年8月15日)と社団法人日本ペニシリン学術協議会(1946年8月26日;後の財団法人日本抗生物質学術協議会)が設立された.
産官学連繋のプロジェクト体制によって始まったペニシリン生産研究は,戦後のGHQの政策に基づいて招聘したフォスター(Foster)博士による米国の最先端科学情報の開示と技術指導や生産菌株提供によって飛躍的に高まった.やがて企業によるペニシリン大量生産・供給体制が整う一方で,ペニシリン学術協議会の専門部会での検討に基づいてペニシリンの規格基準・検定法・臨床使用に関する基準が定められていった.
以上のように,戦中の荒廃した劣悪な諸環境の中で新しい種としてまかれたペニシリン研究は,戦後の僅か3, 4年のうちにペニシリン製造業を輸出産業にまで発展させた基盤となったのであった.
ペニシリンに続いてGHQのサムス准将は,ワクスマンが1944年に発見したストレプトマイシン(SM)を第2の国家プロジェクトとすることを提案し,その生産菌株を日本にもたらした.SMは,ペニシリンが無効な結核菌に対して有効性を示した抗生物質で,水溶性で塩基性の性質をもち,その構造はアミノグリコシドと呼称されることになった化合物であった.ワクスマン博士は,SM発見の功績により1952年にノーベル賞を受賞した(表1表1■ペニシリン–ストレプトマイシン–カナマイシン:発見・開発の道標参照).日本では結核は白い悪魔と呼ばれるほどの国民病であったので,SMの導入はすばらしい福音であった.SMプロジェクトにおいても梅澤浜夫博士は研究を陣頭指揮され,大量生産という所期の目標を達成した.
SMの生産菌はStreptomyces griseusという放線菌であったが,日本に導入されたとき,放線菌に馴染みのある研究者は抗生物質研究者の中には皆無であった.1947年に梅澤浜夫先生の研究室に加わった岡見吉郎研究員は,日本で放線菌のことを経験している数少ない研究者の一人である北海道大学の佐々木酉二教授の研究室(農学部応用菌学講座)の出身であったが,学生のときに放線菌のことを学ぶ機会がなかった.放線菌の分離・研究を手探りでやり始めた岡見研究員は,同様の研究を行っている大学や製薬企業などの研究者に呼びかけて自由に放談(意見交換)する会を始めた(この会が,現在の日本放線菌学会の種となった)(3)3) 日本放線菌学会:“放線菌と生きる”,みみずく舎,2011..
そうしたなか,ワクスマン博士が1952年12月にノーベル賞受賞後の米国への帰途に日本を訪れた(4)4) 飯島 衛(訳):セルマン・ワクスマン自叙伝“微生物とともに”,新評論社,1955年..これはかねて招請を受けていた北里柴三郎生誕百年祭への出席が目的であったが,来日したワクスマン博士は日本各地の抗生物質研究者を訪問し,意見交換するとともに激励した.ワクスマン博士には,やがてマイトマイシン(Mitomycin)やロイコマイシン(Leucomycin)を放線菌から発見する北里研究所の秦 藤樹先生が同行された.ワクスマン博士は,日本各地を訪問後,日本の微生物研究者の奨励のために日本のSM特許料を免除し提供することを決断された(5)5) 八木澤守正:最新医学,68,418 (2013)..これを基に,三笠宮崇仁殿下を名誉総裁に載いて1957年にワックスマン財団が設立された.同財団は,微生物学および医学に関する学術研究を援助,奨励し,わが国の学術,文化の向上発展に寄与することを目的として現在も活動を続けている.また,ワクスマン博士のもと(米国ニュージャージー州ラトガース大学)に,秦 藤樹博士や岡見吉郎博士が1950年代半ばに留学された.
梅澤研究室(国立予防衛生研究所抗生物質部)では,ペニシリン生産菌やSM生産菌の研究を通じて確立したスクリーニングシステムを基に,微生物の生産する抗生物質の探索研究が精力的に行われた.そして,1957年に放線菌が作る水溶性塩基性の新抗生物質カナマイシン(Kanamycin; KM)が発見された.生産菌を分離したのは岡見博士であった.KMは,SM耐性の結核菌にも著効を示し,翌年抗結核薬として認可され発売された.そして,国内はもとより米国でもニューヨーク科学アカデミーが特別シンポジウムを組むなど高い評価を獲得し,日本生まれの最初の国際医薬としてのステータスを獲得した.KMは世界中で結核治療のために使用され,数知れないほど多くの命を救った.
梅澤博士はKMの特許料をもとに財団法人微生物化学研究会を設立し,1962年には財団附属の微生物化学研究所(微化研)を開設して,世界をリードする抗生物質研究を展開された.抗生物質研究の功績により文化勲章を受章された(1962年;48歳).生涯(1986年,72歳で逝去)に,アミノグリコシド抗生物質耐性菌の耐性機構の解明,耐性機構に基づく理論的半合成アミノグリコシド抗生物質(ジベカシンやアルベカシンなど)の創製,ブレオマイシンなどの抗がん抗生物質,農薬抗生物質(カスガマイシン),酵素阻害剤,プラスミドなど世界に先駆けた研究領域を切り開き,カリスマ的指導者として抗生物質の学界ならびに産業界をリードされた.生涯に150を超える新物質,十数個の医・農薬,1千を超える論文を世に出され,1970年代半ばから逝去されるまでノーベル賞候補として名前が挙がっていた.
筆者は,1972~85年の13年間にわたり,梅澤先生の微化研に在籍し,岡見先生の研究室で放線菌研究に携わった経験があるが,以下に印象深く記憶している3つのことを記しておきたい.梅澤先生は,基礎医学者であったが,化学などについても高い知識と見識をおもちであった.日曜になると微化研の図書室で新着雑誌すべてに眼を通され,眼についた論文には付箋を付けて関係する研究者に配られ,研究者は速やかに読んで内容を報告することになっていた.教育効果の高い慣習であった.2つ目は,化合物の不変性を重視されて「物質を単離精製し,構造決定する」ことを貫き通していたこと,3つ目は,生物学のファジー性を理解しつつ,その排除を強く意識されており,ときに抗生物質産生プラスミド説など大胆な仮説を発表されることであった.梅澤先生が亡くなられた翌年(1987年)に開かれたある国際会議において米国の製薬企業の研究者が,「10年ほど前,“Hamao Umezawa”が来社して講演し,抗生物質生産にプラスミドが関与しているという話をした.自分はその話に触発されて抗生物質生産菌の遺伝子の研究を始めた」と講演の冒頭で述べた.出席していた筆者は,梅澤先生の影響力の大きさと広さを感慨深く感じた次第であった.
大村先生は,ペニシリンなどのβ-ラクタム抗生物質やストレプトマイシンなどのアミノグリコシドを研究対象としない方針を立て,自身のロイコマイシン研究に端を発するマクロライドを中心的研究対象として数々の科学的業績を上げられた.そして,「人類への偉大な貢献」と評価された抗寄生虫薬のイベルメクチン開発につなげられた.筆者は,日本放線菌学会が主催した第7回国際放線菌学会議(ISBA’88)のために1985年に立ち上げられた準備委員会のメンバーとして加わり,そこで募金委員長の重責を担われた大村先生の知己を得ることとなった.以来今日まで,30年にわたって陰に陽にご指導を賜ってきた.数年前には,イベルメクチン開発の素であるエバーメクチンを生産する放線菌の電顕像をエッチングして作成された美術作品をご恵与いただき,職場の会議室に飾っている.それは,大村先生の生きる姿勢を思い浮べるためである.
大村先生の業績についてはそれにふさわしい方々にお願いするとして,筆者は,大村先生が北里研究所の所長となられ,学士院賞を受賞された1990年に,ある雑誌社の企画で大村先生にインタビューしたときのことについて述べたい.その内容は,当該雑誌Cell Scienceに掲載され,その後まとめられた本(6)7) サイエンティストライブラリー特別編:大村 智「新しい微生物創薬の世界を切り開く」,http://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no84/にも収載されたが,後に大村先生の著書「ロードデンドロンの咲く街」に収載されるという光栄に浴した.
インタビューでは,大村先生が学士院賞受賞講演で,「研究者としての若き日の写真を示されたこと,エバーメクチンのことを通じてアフリカのオンコセルカ症の撲滅に取り組んでいること,浮世絵を示されて物事の考え方や哲学について触れられたこと.そして,筆者が抗生物質の未来を暗示すると感じた,ラットのPC12細胞に対してNGFと同様の作用を示すラクタシスチンという化合物のこと」を題材としてQ&Aを行った.インタビューが進むにつれて,北里研究所において秦 藤樹先生の後を継いで大村研究室を立ち上げたとき(1973年,38歳)の覚悟,β-ラクタム系やアミノグリコシドは研究しないとした理由,研究推進に必要なインフラストラクチャーとその構築,一歩一歩高い山に登るように研究を高いところへもっていくことの重要性,若手の研究者を育てるためのフィロソフィー,研究に取り組むに当たっての使命感の重要性などが語られている.
いずれも今回のノーベル賞受賞決定の際に大村先生が語られた内容と一致しており,終始一貫貫いてこられた姿勢であることに改めて深い感銘を受けた次第である.なお,大村先生の生い立ちや研究業績,生き方については文献7と8に詳しい.大村先生には,「ロードデンドロンの咲く街」のほかに,「芝白金三光町」,「夕暮れ」,「植林」などの自著があり,いずれも全人教育的効果の高い内容である.多くの人に一読を勧めたい.また,筆者にとっては,大村先生から最初にいただいた「魯山人と影の名工 陶工松見宏明の生涯(佳川文乃緒)」(9)9) 佳川文乃緒:“魯山人と影の名工 陶工松見宏明の生涯”,1990.が大村先生の心情と信条がとても強く伝わってきた内容であった.
大村先生の生き方は,科学者としてのフロンティア精神,チャレンジ精神のほか,実学の重視,国際性の重視,全人教育,そして平和の希求という事柄をすべて具現されている.そして,創造の火を燃やし続けるとともに,それらすべてを生き方の矜持としている凛とした徳の高い姿がある.これほどの研究者人生の見本に接し,学ぶことができることの幸運に感謝するばかりである.
わが国の抗生物質研究は,戦時中(1944年)のペニシリン委員会における研究を嚆矢として稲垣克彦陸軍少佐や梅澤浜夫先生のリーダーシップにより開始された.8歳の大村少年は山梨の野山を駆け回っていた頃である.また,大村博士が北里研究所で抗生物質研究を開始され,1973年に大村研究室を立ち上げた頃は梅澤先生のノーベル賞受賞の期待が高まっていたときであった.残念ながら梅澤先生に栄冠は輝かなかったが,約40年のときを経て大村先生が受賞されたことは放線菌研究者の一人として,また,放線菌学会はじめ多くの学会が手放しで喜びとしているところである.
図1図1■わが国における道標的抗生物質の流れは和製ペニシリンからストレプトマイシン,カナマイシン,エバーメクチンをわが国における抗生物質開発研究の道標として並べてみたものである.和製ペニシリンからカナマイシンまでの開発研究の主役は梅澤先生によって担われ,抗生物質開発に必要な研究分野の基盤が整えられてきたが,梅澤先生が逝去された後はその松明を大村先生が担い,さらに発展されている観がある.
梅澤先生や大村先生に共通していることは,30代の頃から哲学と信念・使命感をもち,基礎研究,応用開発・産業化に向かって,知恵を絞り,プランを立て,進む方向を見失わずに指導的役割を果たしてきたことと言える.そして,創造の松明を燃やし続けていることも共通していると感ずる.以って,範とすべしであろう.
Reference
1) 堀田国元:Japanese J. Antibiotics, 63, 179 (2010).
2) 角田房子:“碧素・日本ペニシリン物語”,新潮社,1978.
3) 日本放線菌学会:“放線菌と生きる”,みみずく舎,2011.
4) 飯島 衛(訳):セルマン・ワクスマン自叙伝“微生物とともに”,新評論社,1955年.
5) 八木澤守正:最新医学,68,418 (2013).
6) 永井和夫監修:“生命に魅せられた研究者たち”,医学主版センター,1995, pp. 16–29.
7) サイエンティストライブラリー特別編:大村 智「新しい微生物創薬の世界を切り開く」,http://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no84/
8) 馬場錬成:“大村智2億人を病魔から守った化学者”,中央公論新社,2012.
9) 佳川文乃緒:“魯山人と影の名工 陶工松見宏明の生涯”,1990.