バイオサイエンススコープ

生物多様性条約と科学のかかわり(第5回)今後の生物多様性条約での合成生物学に対する規制のゆくへ

Hideyuki Shirae

白江 英之

一般財団法人バイオインダストリー協会

Published: 2016-02-20

はじめに

これまで4回の連載を通じて,生物多様性条約(CBD: The Convention on Biological Diversity)と科学のかかわりを,CBDでの合成生物学の議論を中心に説明してきた.日頃このような世界に接しない研究者には,実験室の外で行われているこのような国際会議での議論は当事者不在の寝耳に水の話に聞こえるであろう.

最終回では,2014年10月に韓国で開催されたCOP12終了後から2015年9月にCBDの事務局があるカナダのモントリオールで開催された専門家会議(AHTEG: Ad Hoc Technical Expert Group)までの約1年間にわたって行われた本件に係る国際間の議論の内容を中心に紹介したい.特に注目すべきは,本年9月に開催されたAHTEG会議にて,合成生物学で利用されるすべてのデジタル電子情報が途上国の利益を損ねているとして,その電子情報を名古屋議定書で定められた遺伝資源と関連づけ,その情報の利用から生じた利益を途上国へ公平かつ衡平に配分することを求めようとするケニアやフィリピン代表の提案に関しての議論である.今回は,それらの議論へ至った経緯を紹介し,本年12月5日よりメキシコで開催が予定されているCBDの締約国会議であるCOP13において,この「合成生物学」が今後どのような議論の方向に進むのかについても考察したい.

CBDでの合成生物学の議論の推移

本稿の第1回(「化学と生物」2015年10月号「バイオサイエンススコープ」の稿を参照)でも説明したように,CBDは1993年12月29日に発効した世界194の国および欧州委員会(EU)とパレスチナが参加する国際条約であり,日本も1993年5月に本条約を批准している.CBDの主目的は,生物多様性の保全と生物多様性の構成成分の持続可能な利用である.さらにこの条約の第19条には,「バイオテクノロジーによる利益の配分」が規定され,同条第3項にある「改変された生物」の項により,2000年1月に遺伝子改変生物に関する国際的な条約であるカルタヘナ議定書(CPB)が採択され,2003年に発効した.CPBは,遺伝子組換え技術により改変された生物(living modified organism; LMO)の規制と主に途上国でのリスク評価とリスク管理の確立を目指した国際条約であるため,その効力は,LMOから生じる生産物には及ばない.一方,2014年10月に発効した「名古屋議定書」は,各国に存在する遺伝資源と伝統的知識の取り扱いに関して,それら使用によって生じる利益の公平かつ衡平な配分をルール化し,各国内でのモニタリング制度と罰則規定の制定を促進させる目的で制定されたもので,CPBとはその取り扱う対象が異なる(図1図1■生物多様性条約およびそれから別れた各議定書の一覧図).

図1■生物多様性条約およびそれから別れた各議定書の一覧図

CPBでは,LMOがその提供国から利用国へ国境を越えて移動した際に,利用国で生じる生物多様性(ヒトの健康を考慮しつつ)への悪影響によって生じた損害と,利用国の地域社会の社会経済学的な配慮を,LMOの提供国に求めることができると規定されている.しかし実際は,植物を遺伝子改変して作製されたGMO(genetically modified organism)を除き,ほとんどのLMO(特に微生物)は,閉鎖系のタンクの中で培養されるのが一般的であるため,環境中に放出されることはまずありえない.主に国境を越えて取引されるのは,LMOによって製造された食品や医薬品,化学品などであって,CPBにはそれらの生産物を規制する条文はない.またCBDは,LMOの国境を越える移動に伴う損害発生の責任と救済を規定した「名古屋—クアランプール補足議定書」を2010年に採択し,CPBで定められた提供国の義務の履行を明確にしているが,2015年時点で加盟国はまだ32カ国と欧州連合にとどまり,国際条約としては発効していない.そしてこの補足議定書制定の議論の過程で,責任と救済の範囲をLMOに限らずLMOから生産された派生物(product thereof)まで広げるかどうかで,先進国と途上国の間で激しいやり取りがあった.結論としては,最終の合意文書では派生物(product thereof)という言葉は,その補足議定書から削除された経緯がある.

一方,CBDの第15条「遺伝資源の取得の機会」ならびに第19条第2項には,「締約国は,他の締約国(特に開発途上国)が提供する遺伝資源を基礎とするバイオテクノロジーから生ずる成果および利益について,当該他の締約国が公正かつ衡平な条件で優先的に取得する機会を与えられることを促進しおよび推進するため,あらゆる実行可能な措置をとる.」という記載があり,これらの条文が名古屋議定書の制定を促し,途上国が先進国にその利益配分を求める根拠となっている(1)1) 環境省「みんなで学ぶ,みんなで守る生物多様性」条約本文:http://www.biodic.go.jp/biolaw/jo_hon.html

途上国としては,先進国が途上国に存在する遺伝資源の情報を基に,モダンバイオテクノロジーを活用して,安価で大量に農作物や加工品,バイオ関連医薬品などを生産し,利益をあげていることを快く思っていない.何としても,その利益の分配を求めたいと考えていた.その格好の材料として合成生物学という,その科学領域が明確でなく,またあらゆる分野にまたがる広い領域をカバーする学問分野に目をつけたのであろう.

CBDで合成生物学の議論に至る経緯

第1回の本稿で示したように,2010年のJ Craig Venter研究所による人工合成したゲノム遺伝子をマイコプラズマという微生物の中に組み入れ,新たな人工生物の創生に成功したという発表を機に,合成生物学もCPBで定めたLMOとは別の新たな規制の対象にすべきという国際的な動きが生まれた.そして2014年10月に開催されたCOP12(韓国)では,議題24にいきなり「合成生物学」という議題が掲げられ,その議論の冒頭から検討すべき構成要素として,“生物”,“成分”,“生産物”という定義のない3つの要素がCBD事務局によって設定されていた.そして合成生物学に係るこれら3つの要素に関し,新たな規制を制定して,各国,地域あるいは国際的に規制していくべきという強い主張が,途上国や各国の非政府団体(NGO)からCOP12の本会議上で執拗に繰り返された.そのCOP12の結論は,以下のとおりである.

今後合成生物学の専門家,生態学者,社会経済学者,各国の環境リスク管理者などを交えた専門家によるオンライン会議を開催し,上記の3つの要素と合成生物学の議論を進めるために必要な操作的な定義(operational definition)について議論を深める.そしてオンライン会議の議論をもとに,さらにメンバーを絞り込んだ専門家会議(AHTEG)を2015年9月にCBDの事務局があるモントリオールで開催し,合成生物学や3要素の定義の設定とそれに基づく合成生物学の技術範囲,そして合成生物学が生物多様性にどのような正および負の効果をもたらすのかについて議論することとなった.

合成生物学に関するオンライン会議

CBDのオンライン会議は,2015年4月27日から7月6日までの間に断続的に3回開催された.主な議題は7つである.第1回の会議(4月27日~5月11日)では議題1~3を,第2回(5月25日~6月8日)は議題4と5を,第3回(6月22日~7月6日)は議題6と7に関して,締約国,非締約国の代表とアカデミアや企業,科学団体,NGOの代表が参加して,活発な意見交換が行われた(2, 3)2) CBDオンラインフォーラム:https://bch.cbd.int/synbio/open-ended/discussion.shtml3) CBDオンラインフォーラムの参加登録メンバーリスト:https://bch.cbd.int/synbio/participants/表1表1■CBD 合成生物学に関するオンライン会議の議題一覧).

表1■CBD 合成生物学に関するオンライン会議の議題一覧
第1回オンラインフォーラム(2015年4月27日~5月11日)
議題1. 合成生物学とCBDとの関係【座長:香坂玲(日本)】
議題2. CPBの”LMO”と合成生物学から生じる3要素(“生物”,“成分”,“生産物”)との類似点/相違点【座長:Ms. Restrepo(メキシコ)】
議題3. 合成生物学の操作性定義:基準内/外の技術【座長:Mr. Loog(エストニア)】
第2回オンラインフォーラム(2015年5月25日~6月8日)
議題4. 合成生物学から生じる3要素の生物多様性の維持に及ぼす潜在的利益とリスク,ヒトへの健康と社会経済的影響【座長:Mr. Linnestad(ノルウェー)】
議題5. 締約国やその他の国で利用しているリスク評価法とモニタリングの最良の方法【座長:Ms. Schnell(カナダ)】
第3回オンラインフォーラム(2015年6月22日~7月6日)
議題6. 合成生物学由来の“生物”,“成分”,“生産物”を規制する各国,地域,国際的手法の妥当性【座長:Mr. Kinyagia(ケニア)】
議題7. 合成生物学由来の“生物”,“成分”,“生産物”への影響を規定するための包括的なフレームワークの既存の準備状況.特に生物多様性の減少と過度の損失の脅威について【座長:Ms. Torres(エクアドル)】

この会議の参加者の内訳は,40の締約国から68名が参加し,計245の発言(日本からは6名,発言数32)を,非締約国である米国からは2名参加し,計8の発言を,オブザーバーは49名参加し,計147の発言がなされた.この会議で提言された意見は,それぞれの立場を踏まえたものであるため,その内容や範囲,分野はさまざまであり,簡単にまとめることは困難だが,筆者もこの会議に参加し,各意見に接して感じた会議の方向性は以下のように考える.

1. 合成生物学の定義

EUの3つの科学委員会が提供した操作的な定義の案(「化学と生物」2015年10月号に掲載の第1回の記述を参照)をベースに,さまざまな意見が出されたが,誰もが納得する統一した定義の設定はできなかった.いずれの提案もこれまでの現代バイオテクノロジーの技術を包括的に含む定義であって,CPBとの二重規制の議論に発展する可能性がある.一方,曖昧な定義を決めずとも,CPBでカバーされない範囲を特定して,その技術領域のみを議論するのはどうかという提案もあった.この場合,既存のCPBに含まれない技術として,ゲノム編集やエピゲノムが挙げられた.

2. “生物”,“成分”,“生産物”という定義

合成生物学から生じる3要素のうち“生物”は,CPBの“LMO”と同義であるという意見が大半を占めた.一方,“生産物”は低分子であるとの主張が多かった.一方で,ドイツの研究者からは,非天然核酸を含む新生物体や非生物であるプロト細胞が合成生物学によって生じるまさに“生産物”であって,これまでの遺伝子組換えの技術による生産物は合成生物学から生じる“生産物”には含まれないという意見も出された.“成分”については,そのコンセプトが不明で,会議参加者から特に意見はでてこなかった.

3. 合成生物学および3つの構成要素が与える生物多様性への具体的な例

この議論が,議題1として最初に掲げられ,合成生物学の定義も“生物”,“成分”,“生産物”の議論もないまま,オンライン会議の運営上わずか1週間という短時間で意見提出が求められたため,参加者はたいへん混乱した.特にNGO中心に,代謝工学手法で製造されたバニリンなどの生産物が,地域住民の生活を脅かしているので,社会経済学的な措置を求める意見が繰り返し提出され,本来の議論の目的から大きく議論の方向が逸れていった.

4. リスク評価とリスク管理

欧州のリスク評価の審査官から,合成生物学の操作的な定義がなくても,その元となる生物種(宿主)があれば,これまでどおりのCPB下での個別対応でリスク評価の実施は可能であり,新しい規制法も新評価法も必要ないという発言があり,先進国を中心に同調者が多かった.また“生産物”も低分子である限り,既存の各国の薬事法(薬)や化学物質(欧州のREACH),CODEX Alimentarius(食品)などで適応可能という意見も出された.一方,途上国やNGOからの意見は,社会経済学的措置を求めることに終始したため,一部の参加者から,合成生物学のリスク評価と利益配分の議論はグループを分けて実施すべきであるという意見も出された.

5. 社会経済学的措置

あまりに執拗に途上国やNGOが社会経済学的措置を求める提案を繰り返したので,非締約国である米国から,CPBで定められた第26.1条にある「社会経済上の範囲」の規定を逸脱しているのではないかと,途上国やNGOを牽制する意見が出された.本来なら,“LMO”が国境を越えた場合の生物多様性に与える損害に対する補償であるべきはずであり,またもし“生産物”が低分子の場合は,たとえばCBDで議論となったバニリンなどは,世界流通の99%が化学合成由来の“生産物”である例も存在している.

一方,フィリピン代表からは,GMコーンを栽培するようになって自国の貧しい小作農民の収入が安定したというコメントがあり,さらにホンジュラスの小作農出身のオブザーバーからも,社会経済学措置でお金を得ることでその職業に縛りつけられるより教育を受けてその生活から脱出することを強く希望している,という発言があった.経済的な補償を途上国に実施しても,その対価が貧しい農民まで届くという保証は全くないのだ.

最終的に,CBD事務局からのオンライン会議の要約も今後の議論の方針も提出されないまま,本フォーラムは終了した.

合成生物学に関するAHTEG会議開催

AHTEG会議のメンバーは,オンライン会議の参加者からCBD事務局が選出して,地域と専門性と性別が偏らないように選別するとの事務局の方針が示されたが,実際選出された30名のメンバーを見ると,CBD事務局にかかわりの深い人物が多く,合成生物学の専門家が必ずしも十分に選出されているとは言えないものであった(4)4) CBDの合成生物学の専門家委員会(AHTEG)メンバーリスト:https://bch.cbd.int/synbio/ahteg/participants/.日本からは,元CBD事務局の勤務の経歴をもつ金沢大学の香坂玲准教授(社会科学者)が参加した.同氏は,先のオンライン会議の議題1のコーディネーターであり,合成生物学と生物多様性の関係についての最初のセッションを担当した.

AHTEG会議では,まずスロベニア代表が議長に選出され,次に合成生物学の定義に関する議論がなされた(5)5) AHTEG会議の最終報告書:https://www.cbd.int/doc/meetings/synbio/synbioahteg-2015-01/official/synbioahteg-2015-01-03-en.pdf.本稿第2回(「化学と生物」2015年11月号「バイオサイエンススコープ」の稿を参照)に記載した欧州委員会が提案した定義(6)6) 欧州委員会科学委員会「Opinion on Synthetic Biology I Definition」:http://ec.europa.eu/health/scientific_committees/emerging/docs/scenihr_o_044.pdfを基に,各参加メンバーから意見を求める形で議論が進められたがやはり意見の一致が見られず,最終的に法的拘束力にない暫定案として,下記の定義を決めて,会議を前に進めることとなった.

“Synthetic biology is a further development and new dimension of modern biotechnology that combines science, technology engineering to facilitate and accelerate the understanding, design, redesign, production and/or modification of genetic materials, living organisms and biological systems.”

この定義の中で,元々欧州案にあった“genetic materials in living organisms”が,“genetic materials”と“living organisms”それぞれ独立した単語として用いられ,さらに定義が定まらない“biological systems”が追加された.さらにCPBでは,LMOにしか規制が及ばないことから,合成生物学では,名古屋議定書にリンクさせて,合成生物学で使用されるデジタル遺伝情報を,名古屋議定書の遺伝資源に含まれると主張して,その利用から生じる利益の公平かつ衡平な分配を行うように,ケニアやフィリピンなどが強く求めた.最終案では,「合成生物学への特許に基づく,あるいはオープンソースへのアプローチは,アクセスと利益配分の内容について異なる意味合いを持つ.」とし,遺伝子配列データの起源国や提供国,その情報の取得方法などの特許への記載の義務化を求めて,その利用によって生じる利益の配分について,名古屋議定書に基づく方法を採用することを求めている(7)7) CBDのAHTEG会議報告書(UNEP/CBD/SYNBIO/AHTEG/2015/1/3 7 October 2015)https://www.cbd.int/doc/?meeting=SYNBIOAHTEG-2015-01

また今後の課題として,「各国の遺伝資源から生じる電子情報の流出」に対する言及もなされ,新たな規制へ発展する可能性も残された.合成生物学によって生じる“(生きた)生物”,“成分”,“生産物”のリスク評価に関しては,先進国を中心に個別評価を主張する一方で,ドイツの代表からは予防原則の重要性の提起が改めてなされた.合成生物学に含まれる技術領域に関して,議長案では個々の技術の特定を求める提案がなされたが,オブザーバー参加の米国が反対した.今回のAHTEGでは,非締約国である米国代表の意見が特に目立った会議だったようだ.

COP13に向けての議論の方向性

AHTEG会議の報告書は,11月16日にCBDのホームページ上に掲載された.その報告書を踏まえて,各国からの意見徴集の期間が2カ月間設定されている.その後,事務局で各国からの意見をまとめて総括文書を作り,2016年4月25~29日にモントリオールで開催される各国政府代表者からなる科学技術助言補助機関(SBSTTA)会議にその文書が提出され,締約国の代表者によって議論される予定である.その後,2016年12月にメキシコで開催予定のCOP13での正式議題にするかどうかが決まる.そして正式議題と認められれば,COP13での議論に進むこととなる.(今後の日程は,表2表2■CBDでの合成生物学に関係する今後のスケジュール予定を参照)もちろん日本政府の公式意見書も,そして所属するバイオインダストリー協会をはじめ,各国のバイオ関連団体やNGOからもAHTEG報告書に対する意見書が作成され,提出された(8)8) AHTEG報告書に関する各国,各団体からの意見:http://bch.cbd.int/synbio/peer-review/

表2■CBDでの合成生物学に関係する今後のスケジュール予定
日時項目
2015年9月21日~25日AHTEG会議(カナダ モントリオール)
2015年11月16日AHTEG会議の議論経過と結論に関する文書の提供(事務局から,締約国,非締約国,原住民,地域社会,その他関連する団体)
2015年11月~2016年1月末AHTEG会議の議論経過と結果の文書に関する意見徴集期間
2016年2月~3月締約国,非締約国,原住民,地域社会,その他関連する団体からの意見のまとめと文書化(事務局)
2016年4月25日~4月29日科学技術助言補助機関会議(SBSTTA)開催(カナダ モントリオール)
2016年12月4日~17日COP13開催(メキシコ カンクーン)

今回,特に合成生物学に係る電子情報を規制し,国をまたがってその電子情報のやり取りが行われた場合,その電子情報から生じる利益を,名古屋議定書の条項(遺伝資源)を基に,途上国が先進国に求めようとする方向に議論が発展したことに驚きを隠せない.これまで科学発展のために世界中でさまざまな情報がデーターベース化され,自由に無償でその情報を取得するシステムづくりに先進国は力を入れてきた.しかし,それが途上国の生物多様性に影響を与え,衡平な利益配分の機会を喪失させているというCBDでの議論内容にはただ驚くばかりである.この場合,利益配分を求める対象は,企業よりも公的研究機関や大学などである.日本の科学技術や産業の発展のためにも,今後も引き続きCBDでの合成生物学に関する議論の進展を注視していくことが重要であると筆者は考える.

総括にあたって

これまで5回の連載を通じて,CBDという国際会議の場で合成生物学に対して各国がどのような意見をもち,その学問分野を国際ルールの下でどのように取り扱っていこうとしているのかについての議論を紹介してきた.科学者の多くは,先端科学・技術が人類の幸福に貢献し,その希望を実現するものと信じて,日夜研究に励んでいると筆者は考えている.しかし,世の中には,その科学の内容を十分理解できないために,誤った知識や誤解によって,その科学分野に畏怖や嫌悪の念を抱くものも少なくない.また今回のテーマである合成生物学の発展は,途上国にとっては自国産業の浮沈にかかわる大きな問題として捉えられていて,その科学技術の発展に反発する国も少なくない.科学者は日夜研究に没頭していると思うが,いったん研究室を出るとその周りにはこれまで紹介してきた複雑な国際情勢があることもご理解していただきたいと思い,このテーマの特集を5回にわたって紹介してきた.

CBDの上記の議論を受けて,合成生物学が最も進んでいる米国では,10月15日にワシントンにあるウィルソンセンター(米国議会がスミソニアン学術協会の下に設置したシンクタンク)に米国の合成生物学を志向する企業やアカデミアのメンバーが集まり,AHTEG会議の報告とCBDの合成生物学への規制強化の動きに対する今後の対応方法の議論をスタートさせた.欧州でも,12月10日にルクセンブルグ大学で欧州委員会が主催する合成生物学ワークショップが開催され,生物多様性と合成生物学の関係について議論がなされた.

CBDのドイツの政府代表者は合成生物学の規制強化に積極的であり,AHTEGの結論を欧州連合の結論として推し進めようとしている.しかし,英国やオランダはCBDの動きに反対であると聞く.つまり必ずしも欧州連合内での意見統一が図られているわけではない.欧米と異なり,日本ではAHTEGの議論の内容を広く大学や公的機関,そして民間の会社に報告し,その対応を議論する場は設けられていない.このため,CBDでの合成生物学に対する新たな規制の枠組み作りの提案を知る者は,一部の政府関係者などまだ少数にとどまる.

CBDでの合成生物学にかかわる議論は,日本の科学技術の発展や日本のバイテクノロジーの産業の興隆にも大きくかかわるものと筆者は考える.是非,日本のアカデミアや企業の研究者の皆様も,この世界的な規制の動きを注視して,CBDの窓口である日本政府の各省庁の担当課に積極的に意見を述べ,国際社会での日本の立場を位置づけるべく,国としての意見形成にご協力していただきたく思う.(完)

Acknowledgments

本稿の内容は,経済産業省平成26年度環境対応技術開発等(遺伝子組換え微生物等の産業活用促進基盤整備事業)の「生物多様性関連の遺伝子組換え技術の国際交渉に係る調査検討委員会」での議論ならびに調査研究に基づいたものである.同調査検討委員会の委員の皆様および報告者の執筆にご協力をいただいた関係各位の皆様に,改めて御礼申し上げます.

Reference

1) 環境省「みんなで学ぶ,みんなで守る生物多様性」条約本文:http://www.biodic.go.jp/biolaw/jo_hon.html

2) CBDオンラインフォーラム:https://bch.cbd.int/synbio/open-ended/discussion.shtml

3) CBDオンラインフォーラムの参加登録メンバーリスト:https://bch.cbd.int/synbio/participants/

4) CBDの合成生物学の専門家委員会(AHTEG)メンバーリスト:https://bch.cbd.int/synbio/ahteg/participants/

5) AHTEG会議の最終報告書:https://www.cbd.int/doc/meetings/synbio/synbioahteg-2015-01/official/synbioahteg-2015-01-03-en.pdf

6) 欧州委員会科学委員会「Opinion on Synthetic Biology I Definition」:http://ec.europa.eu/health/scientific_committees/emerging/docs/scenihr_o_044.pdf

7) CBDのAHTEG会議報告書(UNEP/CBD/SYNBIO/AHTEG/2015/1/3 7 October 2015)https://www.cbd.int/doc/?meeting=SYNBIOAHTEG-2015-01

8) AHTEG報告書に関する各国,各団体からの意見:http://bch.cbd.int/synbio/peer-review/