Kagaku to Seibutsu 54(3): 221-222 (2016)
追悼
田村三郎先生を悼む
Published: 2016-02-20
© 2016 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2016 公益社団法人日本農芸化学会
日本学士院会員,東京大学名誉教授 田村三郎先生は平成27年12月4日に日付が変わって間もなくその98年11カ月の生涯を静かに閉じられました.田村先生は大正6(1917)年1月8日に群馬県で9人の兄弟姉妹の男性4人中3番目としてこの世に生を受けられました.ご両親は四万温泉田村旅館を経営され,お父様は慶応義塾大学で福沢諭吉の教えを受けられたと聞きました.9人の兄弟姉妹は全員が山を下り,東京で勉学に励まれました.ご両親が教育熱心であったことの証でありましょう.
先生は昭和4年4月に武蔵高等学校尋常科に入学され,同11年4月に東京帝国大学農学部農芸化学科に入学されました.同14年3月卒業後,ただちに鈴木梅太郎先生が院長をされていた大陸科学院に入所され,同年12月に兵役に就かれました.僅か8カ月間の大陸科学院生活でしたが,鈴木先生によく面倒を見ていただき,出征のときには鈴木先生自ら新京(現在の長春)の駅まで見送りにこられたそうです.杭州,上海等に駐屯された後,昭和19年には榛名山の麓にある陸軍士官学校の教官を務められました.
終戦後,昭和20年8月に復員され,同年11月に東京大学農学部副手に採用され,同24年5月当時住木諭介教授が担当されていた農産製造学講座の助教授に昇任されました.昭和29年4月,「油脂の酸化防止に関する研究」で農学博士の学位を取得されました.そして,昭和37年3月,住木教授のあとを継がれ,教授に昇任されました.
教授になられた後,先生の発想による新しい研究が展開されていきました.先々代の藪田貞治郎教授および先代の住木教授が主に微生物の代謝産物を中心に研究を展開されてこられたのに対して,田村先生は「生理活性」をもつ天然有機化合物の探索,精製,構造解析,いわゆる「生理活性物質化学」を強力に展開されることになりました.また,それに伴って講座名を「農産物利用学」から「生物有機化学」に変更されました.先生が定年後に執筆されました「現象の追跡―生理活性物質化学を拓く」(学会出版センター,昭和56年11月)には,15年間の在任中に行われた研究の成果が14項目にまとめられています.また,この本には,研究に対する姿勢や考え方,いかに研究室の伝統を引き継ぎ,新しい研究分野の創成に心血を注いでこられたか,またそれぞれのテーマに対する研究の動機や展開方法など先生独自のお考えが詳細に綴られています.すべてが独創性に富み,まねをしない,またまねのできない手作りの研究ばかりです.先生はよく「在るものはいつか必ず取れる」と言われていましたが,「在るものは必ず取る」という気構えで取り組まれ,われわれを叱咤激励されました.
生命現象を直視し,それに合わせた生物検定法を作り上げ,その検定法を用いて生物材料から生理活性物質を精製するという方法論が定着し,研究室に入ってくるすべての学生が新規の生理活性物質の精製と構造解析に取り組みました.対象には,きわめて微量で生理活性を示すホルモンやフェロモンから微生物や植物の代謝産物まで広範な化合物群が含まれていました.植物,昆虫,微生物における,特に重要かつ興味深い生命現象を対象に選ばれ,それを制御している化合物を追究されました.それまでは脂溶性の低分子生理活性物質に限られていた対象を水溶性の生理活性物質にも広げられました.先生は常に個人個人の能力を最大限に発揮できるように指導され,厳しさの中にも常に教育者としての温かさをもって数多くのすぐれた人材を育成されました.
大学での教育研究に加えて,昭和45年5月から理化学研究所農薬合成第三研究室の主任を兼任され,企業からの派遣研究者と除草剤や植物成長調節剤の開発も手掛けられました.
先生は昭和58年から2年間日本農芸化学会長を務められ,その間学会創立60周年記念事業を中心になって推進されました.また,昭和65年10月に植物化学調節研究会(現・植物化学調節学会)を設立され,この分野の礎を築かれ,さらなる発展に尽力されました.
定年を前にしてこれまでの成果を基に,いずれ到来するであろう世界的食料不足を念頭に,わが国の広範な研究者を組織されて特定研究「生物の生産機能の開発」および「生物生産の場における生理的・化学的制御」を実施され,代表者としてけん引されました.また,定年になられた翌年(昭和53年)の10月から平成2年3月まで富山県立短期大学長を,さらに昭和56年4月から同62年3月まで東京農業大学教授を務められました.
先生は,当時まだ両国間の交流がまれであった昭和57年から中国科学院との交流を続けられていましたが,定年後には中国科学院から農業の近代化のための支援を要請され,湖南省桃源県で日中共同での水稲の栽培試験を実施されました.日本側から適材の専門家を選ばれ,動員されました.この試験においても先生のリーダーとしての資質をいかんなく発揮され,試験も成功裏に終了しました.この試験を契機にして,先生は農業問題から環境問題に研究対象を広げられました.「黄土高原の緑化に関する基礎的研究」の課題のもとで科研費を取得され,農業の専門家を組織されて,砂漠化防止に向けて現地で奮闘されました.先生がこのように中国に深くかかわられた理由は,日中戦争にかかわられた自責の念から,ささやかでも中国の人たちを支援できればとの思いからでありました.
先生は深刻化する地球規模の環境変化に対して早急な対応の必要性を強く意識され,活動範囲をさらに広げられました.すなわち,文部科学省の創成的基礎研究(新プロ)で「地球環境変動研究(略称)」を平成2年から5年間にわたって展開され,外国人研究者21名を含む総計91名から成るチームを作り上げ,気候変動と陸域生態系変動の研究に取り組まれました.定年後の先生の活動はご著書「地球環境再生への試み」(研成社,平成10年2月)に詳しく述べられています.
以上の研究業績により,昭和43年に日本農学賞・読売農学賞を,昭和51年に日本学士院賞を,昭和60年に国際植物成長物質学会賞を受賞され,平成4年に文化功労者に顕彰され,平成7年に中国政府から友誼奨を,平成11年に文化勲章を授与されました.なお,逝去に際し従3位に叙せられました.
先生ご自身の話によりますと,サッカーをするために東大に入られたそうで,それほどサッカーがお好きでした.当時の東大サッカー部は全盛期であり,先生のポジションはセンターフォワードでした.教授になられてからは昭和47, 48年にサッカー部の部長を務められました.その影響もあってか,サッカーを愛する学生が多数研究室に入ってきました.先生のサッカー好きは生涯続き,私が学生のころは先生も参加されてほかの研究室と,あるいは朝鮮大学の先生方と親善試合を行ったりしました.定年後もOBのチームに参加されてある会社の女子サッカー部と試合をされたことを楽しそうに話されました.
最愛の奥様に先立たれてからはお嬢様方のサポートを受けながらお一人で生活をされていましたが,6年ほど前から東大にほど近い根津にある介護付き有料老人ホームに入られ,悠々自適の生活を送られました.先生は施設職員の親切なお世話にいつも感謝されていました.大学時代の厳しさは感じられないやさしいおじいさんになられ,訪問者との会話を楽しまれました.
田村先生の足跡をたどりますと,先生は偉大な思想家でもあられたことを改めて強く感じています.常に困難なことに先頭に立って立ち向かわれ,その姿を多くの後輩に自ら示され,研究とはいかにあるべきかを身をもって示されました.心から先生のご冥福をお祈りいたします.