巻頭言

研究と組織の健康寿命

Teruo Kawada

河田 照雄

京都大学大学院農学研究科

Published: 2016-05-20

筆者は「脂肪細胞」と長年かかわってきた.はじめは肥満したラットの体脂肪量を計ることであった.ある時,脂肪細胞の写真を取ろうと,体脂肪を酵素で処理し細胞を分散させ,顕微鏡で見てみた.なんと,宇宙空間に浮かぶ惑星のような細胞が見えるではないか.その日から私は脂肪細胞に魅了された.体脂肪に対する世の中の反応とは対照的である.時により変容するその姿は,人々を大いに悩ませ,困惑させる.しかし,筆者は愛おしく思う極めて希な一人である.

筆者が脂肪細胞の基礎研究に携わって,三十数年の時が経つ.その間,飽食の時代への変遷とも相まって世界的にはいくつかの大きな発見があり,それらが節目,節目となり,またさらなる多くの発見を生み出してきた.研究を始めた当時,脂肪細胞を学ぶ機会を得たくてある医学系の学会に出入りするようになった.若かったこともあり,幸い,畑違いの筆者を暖かく受け入れていただいた.以来この領域に多くの朋友を得ることができ,異なる分野の考え方や価値観などを学ぶことができた.またこんなこともあった.医学系の国際学会のバンケットのバスの中で,たまたまお会いした当時肥満の基礎研究でたいへん著名であったロックフェラー大学の教授に,始終持ち歩いていた自分の論文をお渡しし,読んでくださいと請うた.教授は「Thank you」とおっしゃたが,今思うと汗が出る.

このような時の流れがあるが,筆者には,化学機械が専門であり日本農芸化学会が設立された年に生まれた父親が,面白い分野だと勧めてくれた「農芸化学」が原点にある.もうかれこれ50年近く前である.原点とは,「三つ子の魂」であり,筆者の教育・研究の基盤である.自分の原点を信じてきたからこそ,医学系の学会の中でも物怖じすることなく,これまでやってこられたのだと思っている.また,広範なスペクトルをもつ農芸化学であったからこそ,今の専門分野にたどり着くことができた.そのことはたいへん幸運であった.

さて,脂肪組織は新陳代謝が鈍いように思われがちだが,実は1日800万から1,000万個程度入れ換わっているのである.しかし細胞寿命はおよそ10年と驚くほど長い.また,脂肪組織は脂肪細胞のみならず,T細胞やM1・M2マクロファージ,マスト細胞などの免疫系の細胞や交感神経系の細胞,線維芽細胞など多様な細胞のバランスと相互作用のうえに成り立っていることもわかってきた.まるでジャングルである.それらが破綻すると糖尿病や動脈硬化症などの疾病につながり個体全体を危うくする.これはまさに研究分野やその組織でも当てはまることであり,そのような「柔軟性」と「多様性」がなければ,長い「健康寿命」は得られない.90年以上の世界に冠たる歴史を有する農芸化学の研究や学会組織も20年後,50年後の健康寿命のためには,愚直であり続ける一方,変革に対応できる不断の努力が求められる.自戒の意を込めてあえて今回記させていただいた.わが大学に「農芸化学系:Faculty consort of Agricultural Chemistry」という名の新たな組織が今年度から誕生した.農芸化学のますますの発展を心から願うものである.