バイオサイエンススコープ

現地に赴く国際交流を通じた大学&研究者の貢献と交流についてきのこ研究から大学間交流へ

Tsutomu Morinaga

森永

県立広島大学国際交流センター

Published: 2016-05-20

私が初めて海外へ行ったのは「広島大学ヒマラヤ学術調査隊」に参加したときである.1973年12月25日に大阪空港を出発し,インドのカルカッタで1泊,26日ネパールの首都カトマンズに到着した.インドでは,道路沿いでの椅子だけの散髪屋さんや茶色く濁ったガンジス川での沐浴など,見るものすべてが別世界であった.インドでの汚さとは打って変わって,カトマンズに着いたときの空の青さは今でも忘れられない.広島大学ヒマラヤ学術調査隊は主に広島大学の山岳部を中心に組織されていて,ヒマラヤ登山が目的であった.しかし,私は当時,広島大学工学部発酵工学科の箕浦久兵衛教授と微生物の生態調査で参加していたので,山登りには参加せず,ネパール国内を散策し,土壌採取に専念した.われわれの行動には,東洋工業(現,マツダ)が車と運転手を提供してくれた.車は中古車だが,運転手は元国連のWHO職員で英語の話せるインテリであった.当時のネパールにはあまり職がなく,時々車の運転手のバイトをしているとのことであった.カトマンズに2日滞在して,保健所や大学を訪ねて微生物の聞き取り調査をした.いろいろな人に会って見聞を深めることができたが,左手を出し握手を求めて憮然とされた失敗もあった.ヒンズー教徒にとっては,左手は禁断の手であることをそのときはじめて知った.カトマンズをあとにして,ネパール第2の都市であるポカラに向かった.サンプリングしながらの移動で3日目だったか,車が急に止まり,クラッチ板が摩耗して滑るので車はこれ以上動かないと,運転手が言いだした.修理するから部品をもってカトマンズにバスで引き返すから,ここで待っていてくれと言い残し,彼は去ってしまった.まる2日間,図1図1■ネパール・村のホテルのホテルでお世話になり,お正月を迎えたのは一生の思い出になった.その後は,車も順調に動き,南はインド国境のバイラワ,北はヒマラヤ山脈の4,000 m地点まで,帰国する1月16日まで,ネパール国内をくまなく移動できた.帰国も同様,カルカッタを経由して,大阪空港に到着し,その後,広島の自宅でくつろいでいると,帰国のインド航空便に同乗していた東京,町田市に住む男性が天然痘を発症したとのテレビニュースが流れた.すぐに,パトカーとともに広島保健所所長がやってきて,軟禁状態となってしまった.町田市の男性は死亡したが,私は幸い何事もなく今を生きている.最初の海外出張は,本当に印象深いものであった.この旅行以来,海外での生活に自信がついたので,一人で香港,台湾,シンガポール,タイなどを旅行してきた.

図1■ネパール・村のホテル

図2■若い頃のビッチェン先生と研究室学生

仕事として,海外とかかわるようになったのは,永井史郎教授(現,広島大学名誉教授)が東京大学から広島大学工学部にこられてからである.当時の広島大学工学部には,ほとんど留学生はいなかったが,先生がこられてからはタイを中心に,留学生が増え始めた.広島大学工学部が広島市から現在の東広島市に移転したのは1982年3月だが,その前後に博士課程への留学生も増え始め,最初の学生はタイ国カセサート大学のビッチェン先生であった.彼は家族で来日しており,家庭で奥様お手製のタイ料理を食べさせてもらったこともある.1985年に永井先生が,大阪大学工学部附属生物工学国際交流センターの客員教授に就任されてからは,永井先生のお供で,よくタイのカセサート大学,チュラロンコン大学に出かけた.その頃は,上記のビッチェン先生もカセサート大学の先生として帰国されていたので,訪タイするたびに,彼のお世話になった.大阪大学工学部附属生物工学国際交流センターは1978年附属微生物工学国際交流センターとして設置され,微生物の研究を通じて,東南アジア諸国との学術交流を推進し,アジアでのバイオテクノロジー研究のハブとなることを目的としていた.その後,1985年に植物工学の研究を含めて生物工学国際交流センターと改称し,1995年には工学部だけでなく,学内共同利用施設の大阪大学生物工学国際交流センターとして発展し続けている.私も1995年には客員助教授をさせていただいた.本センターは,タイと日本との間で交互に1年に1度セミナーを開催していたが,私も毎回出席,発表させていただいた.セミナー開催の最初の頃,チェンマイ大学で開かれたときのことであるが,私の講演発表のとき突然会場内で停電が起こり,プロジェクターが使えなくなった.その頃のチェンマイは電力供給が非常に不安定で時々停電が起こるとのことであった.私は当然,しばらく休憩かなと思っていたら,突然座長が白板をひっぱり出してきて,これを使って講演を続けてくれと言い出した.まだ駆け出しの私はスライドの中にたくさんの英語をはめ込んでいたので,一向に英語が頭に浮かんでこず,おろおろしたのを今でもよく覚えている.あとの懇親会で,田口先生や永井先生に今回のセミナーで一番おもしろかったと話題にされてしまったが,このセミナーのおかげで,英語でのスピーチに戸惑いがなくなったような気がしている.交互に行われたタイでのセミナーは,バンコクやチェンマイで行われ,懇親会での花火の打ち上げなど楽しい思い出もたくさんある.

また,大阪大学の木下晋一先生(のち北海道大学農学部教授)の紹介でチェンマイ大学農学部のレヌー先生のシイタケづくりもお手伝いした.当時,彼女は多額の日立ファンドを獲得していて,ミャンマーやラオスとの国境付近でシイタケ栽培を試みていたが,うまく栽培できていなかったので,レヌー先生や研究室の学生と国境の山岳地帯までよく出かけて行った.もともと国境付近は,山岳少数民族がけしの栽培をしていたが,プミポン国王が焼き払い,シイタケやイチゴなど農業への転換を奨励していた.王様のマークの付いたジープで軍に守られながら山の中を駆け回り,夜はむしろを敷いただけのVIPルームで寝起きし,蚊やダニに悩まされたが,なぜかビールだけは用意されていた.シンハービールの味が今でも忘れられない.その後タイでは,山口大学とカセサート大学との共同プロジェクトにも参画させていただき,カセサート大学創立60周年記念として,タイのきのこ図鑑作成にも携わった.カセサート大学理学部微生物学科のプーンピライ先生や森林学部のウタイワン先生にはよく山へきのこ狩に連れていっていただいた.カセサート大学の車をチャーターして,先生や研究室学生と1泊あるいは2泊旅行に出かけた.所々の道端で少数民族が山から採集してきたきのこを売っているのを見かけた.車を止めて,きのこを眺め,鑑定すると中には毒きのこも含まれていた.これは毒きのこじゃないのと話しかけると,時々お腹が痛くなることもあるよと笑いながら言ったので,驚いたこともある.きのこ採集では,ビッチェン先生にもたいへんお世話になった.彼の研究室では,採集品から菌糸やDNAを分離したり,標本を作ったりして,さまざまな面でサポートしていただき,たいへん感謝している.彼は今では,私の親友の一人であり,今なお,カセサート大学で活躍されている.きのこ研究を通して,北東のコンケン大学ソーフォン先生,南はソンクラ大学のワッサン・ペチラート先生,東はウボン・ラチャタニ大学のチャリダ先生にもたいへんお世話になった.これらの長い個人的つながりから,現在,カセサート大学とコンケン大学,キンモンクット工科大学との間で,学生交流も含めた学術交流協定を結んでいる.

図3■韓国農村振興庁菌茸科研究員(真ん中私の隣が車科長)

韓国との交流もきのこを通じてである.韓国政府派遣の研究員として来日した姜安易氏を当時勤務していた広島大学工学部で指導したのが始まりである.彼は韓国水源市にある韓国農村振興庁菌茸科の研究員であった.当時韓国はヒラタケ栽培が盛んで,菌茸科で作った種菌を韓国全土に販売していたので,優良菌株の開発,維持が政府からの大命題であった.毎年2週間程度,きのこの遺伝や生理,細胞融合手順などを教えていた.毎日,異なる研究員の家に招待を受けて,オンドルの床に座り,真露を飲み交わし,きのこ談義に明け暮れていたのが懐かしい.数年前,菌茸科の所長であった車車烈氏の悲しい知らせを受けたとき,胸が熱くなった.こころからのご冥福を祈る.

きのこ研究を通じて,たくさんの中国の研究者と交流することができた.シイタケのCHEFを用いた研究で染色体数を明らかにしたり,プロトプラスト化や細胞融合の研究をしていたので,1994年11月,中国,慶元市で行われたシイタケ国際シンポジュウムに,実行委員の一人である華中農業大学の羅信昌教授が招待してくれた,ペンシルバニア州立大学のロイス教授とともに.上海で乗り換え,温州の空港に降りると滑走路に中国公安のパトカーが停まっていて,いきなりそれに乗せられて8時間,舗装されていない道路の反対車線を強引に走り,夜8時ごろ慶元市のホテルに着いた.ホテル全面に「熱烈歓迎」の赤い垂れ幕が下がり,市の力の入れようが感じられた.翌日,参加者は近くの寺院に案内され,ここがシイタケ栽培発祥の地であるとの説明を受けた.なるほど仏像の左手にはシイタケが載せられていた.シイタケ栽培は日本人が考案したと聞いていたのだが.シンポジウム終了後,羅先生から華中農業大学への訪問と講演の依頼を受けたので,そのまま武漢市へバスで移動することになった.途中で1泊する長旅であった.それ以来,毎年夏休みには華中農業大学の食用菌研究所(羅先生が所長)を訪れ,所員にきのこの生理や栽培を教えてきた.5年間ぐらい通い続けたが,ときにはイギリスの著名な放線菌学者,Dr. Hopwoodにも会うことができた.寮の食堂で,放線菌のことをいろいろと教えていただいたのはラッキーであった.日本菌学会との国際シンポジウムを華中農業大学で開き,エクスカーションで建設中の三峡ダムや西遊記に出てくる白帝城へ行ったのも思い出となった.

微生物の研究を通して,ベトナムとのつながりもできた.私の博士論文は「鹿糞における真菌類の遷移とその有効利用」で,研究期間中は研究室の学生とよく鹿の糞を集めに日本三景の一つ,安芸の宮島に出かけた.白衣を着て鹿の糞を拾っていると変人に見られたのか,よく観光客に話しかけられた,何をしているのですかと.その中の一人に週刊ポストの記者がいて,その後のお付き合いから連載もの「ほっとけ森からの報告—生命の支え“菌は金なり”」を書いたこともある.草食動物の糞には,土壌中には見られない美しい菌類が棲んでいる.また,それぞれが役割をもっていて,糞の分解に寄与している.それら微生物を木片という担体に閉じ込めて介護用バイオトイレを開発した.当時,NHKでも全国放送され,それを見た東京の美術商がベトナム日本大使館を通じて,ベトナムに普及を図りたいとのことで接触してきた.丁度そのころ,きのこ栽培で出てくる廃菌床の中の酵素がダイオキシンを分解するということを発表していたので,その実験も一緒にベトナムで研究することになった.ハノイにある国立科学・新技術育成協会(NEWTECSPRO)と5年間共同研究を行った.研究所の所長は,キューバ危機のときのベトナムの首相,ファン・バンドンの息子で,ファン・ソンドン氏であった.彼は,今も大地に残る枯葉剤(ダイオキシン)を何としても取り除きたいと願っていたが,政府にあまりお金がないので,私の方法に期待を寄せていた.私は,研究員に竹やゴムの木あるいはヤシの実の殻などをおが粉にして,米ぬかと混ぜ,オートクレーブ後,ヒラタケを植える実験を教えた.当時,ベトナムではあまりきのこを食してなく,スーパーでも高いものであった.私は農産廃棄物を用いて,きのこ栽培を普及させ,きのこを販売したあとの廃菌床を畑に埋めるよう農民も指導した.そのとき,きのこ栽培を教えていた一人が起業し,ハノイできのこ栽培会社を作っているのはうれしい限りである.

図4■アンダラス大学でのワークショップ

現在は,しばしばインドネシアを訪ねている.私の勤めている県立広島大学は以前より,スマトラ島のパダン市にあるアンダラス大学と学術交流協定を結んでいる.アンダラス大学はジャワ島以外ではインドネシアで最も古い大学である.メイン・キャンパスはパダンの中心から約12 kmのリマウマニスに位置している.創立は1956年で,9学部,修士課程は11コース,博士課程は5分野からなり,学生数は約23,000人,教員数は約3,000人の大学である.交流を結ぶきっかけは,ある大学の先生から紹介を受けた本学の教員が,アンダラス大学の教員を1年間,本学で指導したのが始まりである.指導した教員はすでに退職しているが,その後,学術交流は他学部へも広がりを見せ,本学で修士号や博士号を取得してインドネシアに帰り,アンダラス大学で教鞭をとっている教員も数人いる.私も学生を指導したり,アンダラス大学で実験講習のワークショップを開催したりして,学生とのより親密なコミュニケーションを通じて,本校への留学を図っている.また,一昨年はアンダラス大学学部長や学生,ジャワ島ジェンバー市にあるジェンバー大学の学部長や学生,そしてタイからの先生を含めて,本学でミニシンポジュウムを開催した.それをきっかけに,ジェンバー大学とも学術交流協定を結ぶことができた.ジェンバー大学は,インドネシア東ジャワ州にある州立の総合大学で,文・理工系15学部を有し,学生数は20,000名にのぼる.また,大学のビジョンとして「科学技術,環境芸術,ビジネス,農業,産業の発展に優れた大学」を掲げており,本学と同様,国際的な視野を有し,地域産業を支える人材育成に取り組んでいる.ジェンバー大学からは,本年度3人の交換留学生が本学へ来て,学ぶことになっている.インドネシアとの交流をきっかけに,本年度はマレーシアの大学との交流が始まろうとしている.きのこの研究を通じて,東南アジアのみならず,イギリス,ドイツ,アメリカ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドなどのたくさんの研究者とも交流できたことは,この上ない幸せであった.これからの若い人には,積極的に世界に飛び出し,未知の世界に触れ合い,何かをつかみ取っていただきたい.一人一人のそのような経験が日本を大きく発展させる原動力になると信じている.