巻頭言

サイエンスコミュニケーション

Masao Fukuda

福田 雅夫

長岡技術科学大学技学研究院生物機能工学専攻

Published: 2016-06-20

10年ほど前に上越の北陸センターで実施された遺伝子組換えイネの隔離ほ場試験の説明会の司会を引き受けたことがあった.説明をする農林水産省の担当者と会場の聴衆の意見はかみ合わず,最後は時間切れで議論を打ち切らざるをえなくなり,罵声を浴びながら閉会を宣言したことを覚えている.その後,隔離ほ場試験は周辺のイネとの交雑を避けるために緩衝地帯を設けたり栽培時期をずらすなどの工夫をして実施され,無事に終了した.遺伝子組換え反対派は,隔離ほ場試験の差し止め訴訟を起こしたり,損害賠償を求めた裁判を続けて起こしたがいずれも敗訴した.先日,北陸センターを訪問した際に驚愕の後日談を聞かされた.反対派は,10年の間に手を変え品を変えて裁判を起こしては敗訴しながら訴訟を起こし続けているとのことであった.現在は,隔離ほ場試験にかかわる実験ノートの開示を求めた裁判を起こしているそうである.

この話を妻にしたところ,日常生活に遺伝子組換えが使われていないのに遺伝子組換え反対にこだわるのは不思議だねと言われ,またもや愕然とした.経済産業省で審査した遺伝子組換え案件は1,800件近くにおよび,多数の遺伝子組換え技術を活用した製品が市場に出ている.実験や検査用の試薬などが多いが,洗剤用酵素など身近な商品も含まれている.食品の製造に遺伝子組換え酵素が使用されている場合もある.厚生労働省の管轄では遺伝子組換えワクチンも使用されている.私自身は,現在の日常生活に遺伝子組換え技術が大きくかかわっており,遺伝子組換え体や遺伝子組換えDNA自体はないものの遺伝子組換え産物が身近に少なからずあることを実感しており,学生にも話してきた.灯台もと暗しだったと反省しつつ,遺伝子組換えナタネから食用油が製造されていることなどを説明したところ,妻は「組換え食用油は気持ち悪い」と言い出した.食用油には遺伝子組換えDNAやタンパク質は含まれていないのだから非組換え食用油と違いがないと説明したのだが,未知のモノに対する違和感が妻を捉えて放さず,結局,説得することはできなかった.サイエンスコミュニケーションとは別次元の妻の根拠のない感覚を説得すること自体に無理があり,新しい技術の宿命なのかと諦めざるをえなかった.自分の妻も説得できないとは,科学者の端くれとして恥ずかしい限りである.

このことを悔やんでいて10年前の市民講座での記憶がよみがえった.遺伝子組換えにかかわる市民講座を担当し,輸入された遺伝子組換えダイズから製造された乾燥納豆を出したときである.実は私は納豆嫌いであるが,その素振りを見せずに乾燥納豆を食べたところ,多くの参加者が興味深げに口にしたのである.高齢の市民が多くを占めていたが,小学生の子どもとその母親も食べた.前述の隔離ほ場試験の説明会に反対派として参加された農家の方が一人参加されていたが,この方も乾燥納豆を食べた.この方は,遺伝子組換え作物が地域で栽培されることによる風評被害を懸念しており,遺伝子組換え作物自体に反対しているわけではなかった.私の妻を含め,どうも多くの人が遺伝子組換え産物を得体のしれない未知のものと想像して不安や気味悪さを感じているようである.遺伝子組換え技術に限らず,具体的に見て触れることにより新技術を理解する体験型サイエンスコミュニケーションの重要性を認識した次第である.