Kagaku to Seibutsu 54(7): 522-526 (2016)
バイオサイエンススコープ
生産現場のイノベーションに向けた研究開発のあり方について
Published: 2016-06-20
© 2016 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2016 公益社団法人日本農芸化学会
TPPは大筋合意を迎えた.政府では関連政策大綱を策定し,農林水産業については「農政新時代」と題して,生産者の不安を払拭し,成長産業化に取り組む生産者がその力を最大限発揮できるよう支援するため施策を打ち出した.
一方,わが国農業は,TPP合意にかかわらず,さまざまな課題に直面している.担い手,人手不足が深刻化しているほか,地球温暖化による異常気象の頻発など生産者はこれまで経験のない環境変化などにもさらされている.
こうした現場の課題を解決するとともに,生産性の向上,差別化などを図り国際競争力を高めるため,生産現場にイノベーションを起こすことが求められている.そのイノベーションを起こす種を供給し,戦う武器を提供するのが,農業研究とその技術政策の使命である.本稿では,生産現場の新たな動きやニーズからスタートして,生産現場のイノベーションにつながる研究を目指してわれわれが最近進めている取り組みなどを紹介し,読者の皆さんと一緒に現場に役立つ研究を進めるにはどうすべきかを考えてみたい.
ここ数年を振り返ると農業を巡る情勢や農政課題は大きく変化してきている.こうした変化に伴い,現場にとって必要な研究課題も変化してきている.
生産サイドの課題としては,担い手・人手の不足が深刻化している.農業従事者の平均年齢は66.8歳に達し,65歳以上の割合は6割と人手不足は深刻化している.省力化を図るとともに,若者など新たな人材が農業にチャレンジできる環境づくりは重要な課題となっている.一方で,収量などを見ると,ここ数年横ばいの品目も多いほか,高温障害など新たな不安定要素が課題となっている品目も見られている.
需要サイドで見ると,食の外部化が進む中で,外食や中食など業務用の需要のシェアが増大している.たとえば,野菜では6割近くを加工・業務用が占める.国内産地は,いずれの品目も家計消費用向けの生産・出荷を主な仕向先とする場合が多く,加工・業務用需要に対応したマーケットイン型の生産を展開することが重要となっている.
また,農業の成長産業化に向けてさまざまな新たなアプローチが始まっている.平成25年12月に公表した農林水産業・地域の活力創造プランは,こうした新たな政策の枠組みを示すものとなっている.①輸出等による需要フロンティアの拡大,②6次産業化(1次産業としての農林漁業と,2次産業としての製造業,3次産業としての小売業等の事業との総合的・一体的な推進を図り,地域資源を活用した新たな付加価値を生み出す取組)等による需要と供給をつなぐ付加価値向上のための連鎖(バリューチェーン)の構築,③農地中間管理機構(農地の貸し手と借り手をつなぐ農地の中間的な受け皿となって,農業経営者による農地利用の集約化を促進する機関)の活用等が示されている.輸出をはじめとした新たな取り組みを進める中で,鮮度・品質保持技術,相手国の基準に対応した防除技術など新たな技術課題が生まれている.
こうした変化は読者の皆さんにどこまで知られているであろうか.農業を巡る情勢や農政課題の変化,これに伴う研究ニーズの変化などを研究関係の皆さんと共有していくことが重要となっている.
生産現場などの農業研究に対するニーズを具体的に見てみたい.農林水産省では,都道府県や研究法人などを通じて生産現場のニーズ・問題を毎年収集しており,今年からこうして収集した技術的課題を公表している.
平成27年度には446件のニーズ・問題が寄せられており,そのうち公表に同意した391課題を公表した.その技術分野別の内訳を図1図1■生産現場からの技術的課題の技術分野別の内訳に示す.栽培技術や防除技術に関するものが半数近くの44%を占めており,生産現場は,栽培や病害虫被害など今も生産の基礎的な技術課題に直面していることがわかる.
具体的には,①栽培技術については,温暖化などにより増加している高温による稲の白未熟粒や果実の内部障害などの問題,②防除技術については,ジャガイモシロシストセンチュウなどの新規重要病害虫,いもち病,アザミウマ類などの薬剤抵抗性病害虫,気候変動などの要因により発生が増加したり優占種の変化が確認されている病害虫などのほか,飼料用米の生産拡大に伴う病害虫管理などに関する問題が挙げられており,生産現場の環境変化の中で新たな問題が誘起される現状が示されている.
ホームページには391件の課題がすべて掲載されている(1)1) 農林水産省:生産現場から寄せられた今後研究を進めるべき技術的課題(27年度に収集した現場ニーズ)の概要,http://www.maff.go.jp/j/kanbo/kihyo03/gityo/g_needs/pdf/gaiyou.pdf, 2016..現場の直面する課題の一端を示すものであり,是非今後の研究課題を考える参考としていただきたい.
それでは,農林水産省では,生産現場のイノベーションの実現に向けて,最近どのような取り組みを行っているかという話に移りたい.
まずは,現場ニーズに対応した研究を進めるための取り組みである.
現場ニーズは研究課題を考える原点であり,各都道府県や各研究機関,研究者でそれぞれ収集している.それぞれが集める努力をするだけではなく,全国でシェアして,我が国の研究勢力全体で対応することが理想である.このため,前述したように,今年からニーズを収集して公表し,全国の研究者で協力して研究課題化(プロジェクト形成,課題の優先採択など)や現場に対する助言解決などを進め,毎年対応状況を公表する取り組みをスタートした.図2図2■現場ニーズに対応した研究開発の推進(スキーム)に示すように,このサイクルを「見える化」して回し,現場の課題を着実に一つずつ解決していく仕組みにしたいと考えている.
このほか,国の研究開発法人(農研機構)では,生産者の声を直接反映させるため,各地域研究センターに農業者によるアドバイザリーボードを設置するとともに,ニーズと研究を結びつける産学連携室を設置するなどしている.
また,さまざまな研究成果が得られているが,優れた研究成果であっても必ずしも現場に普及するとは限らないのが実状である.研究成果の現場へのイノベーションにつながる「打率」を上げることは非常に重要な課題となっている.
こうした観点から,近年,農林水産省では,従来型の研究開発プロジェクトに加えて,技術の実用化や普及を進めるため,実証研究型のプロジェクトをスタートしている.一例としては,平成25年度補正予算でスタートした「攻めの農林水産業の実現に向けた革新的技術緊急展開事業」がある.最新の研究成果を生産現場で実際に導入して革新的な生産体系を実証するプロジェクトで,先進的な農業者・農業生産法人の参画を得つつ,産官学が連携するなどして全国で66のコンソーシアムで実証研究が行われた.
技術体系の現場実証を通じて,生産者が実際に使えるよう技術改良やマニュアル作成などを行うほか,技術の効果などを農業生産の現場で実証することで技術の普及にも役立つことが期待されている(2)2) 農林水産省:「攻めの農林水産業の実現に向けた革新的技術緊急展開事業」について,http://www.s.affrc.go.jp/docs/kakusin/index.htm, 2014..
このほか,現場のイノベーションにつながるよう研究の「打率」を上げる手段としては,実需者などのユーザーを研究や育種の段階から巻き込んだマーケットイン型の研究開発も重要である.
農林水産省では,こうした考え方を基に,「新品種・新技術の開発・保護・普及の方針」を平成25年12月に公表している(3)3) 農林水産省:新品種・新技術の開発・保護・普及の方針,http://www.maff.go.jp/j/kanbo/kihyo03/gityo/tuyomi/index.html, 2014..品目別の強みのある農産物づくりの戦略を示すとともに,実需者,生産者と育種・開発段階から参画を得て,新品種・新技術を活用して実需者と連携して「強み」のある農産物を生み出すスキームを打ち出した.
この考え方を体現している例が,超強力小麦の「ゆめちから」である.ゆめちからがデビューする前,パン用需要の小麦の国産比率は3%に過ぎなかった(平成21年).国産ではパン用小麦が難しいと考えられていた時期にパン用需要を念頭に「ゆめちから」は育種された.品種を世に出す以前から,生産者の協力を得て現地試験を行い,製粉業者,パン製造メーカーが研究機関と一体となって加工適性評価を実施し,これまでの国産秋まき小麦にないパン適性・縞萎縮病抵抗性に優れた小麦品種はデビューした.製パン企業と連携したマーケッティングにより「ゆめちから」は一つのブランドとなり,今やパンの世界では「ゆめちから」の使用は普通になりつつある.「ゆめちから」の面積は1万haを超えて拡大している.
こうした需要を起点とした取り組みは,産業界の研究では当然のことであろう.しかし,農業の世界では,研究開発,生産・製品化,販売などのプロセスが別々の者により担われるがゆえに,戦略が共有されず,残念ながら研究開発が現場のイノベーションに直結しないケースもあるのではないか.このため,各段階の主体が連携して研究開発段階から戦略的に取り組むアプローチは重要であろう.(このために農林水産省で現在推進している新たな連携の仕組みである「知の集積と活用の場」について,本シリーズにおいて近々にご紹介したい.)
また,今後,生産現場に新たなイノベーションを起こすためには,異分野の技術を農業に応用することも重要である.特に,わが国の強みであるロボット技術やICTは,人手不足が深刻化している農業の現場にこれまでにない省力化・自動化を実現する可能性があるほか,IoTやAIなどの技術は従来技術だけでは足踏みしている生産性について飛躍的に向上させる可能性も期待されている.
農林水産省では,平成25年11月からロボットやICT企業,大学,生産者などの参画を得て「スマート農業の実現に向けた研究会」を開催し,スマート農業の将来像や推進方策などを検討することで,推進方向を定め,新たな施策を展開してきた.
当初は,ロボットやICTが農業現場で何ができるのか自体が明確でなかったため,どのような農業が展開できるかを将来像として整理した.5つの方向性として整理し,①GPS自動走行システムなどによる農機の夜間走行・複数走行・自動走行などでの超省力・大規模生産の実現,②センシング技術や過去のデータなどに基づくきめ細かな栽培により作物のポテンシャルを最大限発揮し多収・高品質の実現,③アシストスーツなどのロボット技術によるきつい作業,危険な作業からの解放,④農機のアシスト装置やICTによる匠の技のデータ化などにより経験の浅い者でも作業が可能になるなど誰でも取り組みやすい農業の実現,⑤クラウドシステムによる生産情報の実需者や消費者への提供,として整理した(4)4) 農林水産省:スマート農業の実現に向けた研究会の中間とりまとめ,http://www.maff.go.jp/j/kanbo/kihyo03/gityo/g_smart_nougyo/pdf/cmatome.pdf, 2014..
研究開発や導入実証などの施策を展開しており,農機の運転アシスト装置をはじめとしてさまざまなロボットが開発され,現場導入なども進んでいる.
こうした中で読者の皆さんに特にお話をしたいのが,農業×ICTの取り組みである.ほかの産業分野ではAI, IoTなどが次の生産性向上の鍵として具体化しつつある.農業分野でも,施設園芸での複合環境制御など進んでいる分野もあるものの,まだまだ取り組みは緒に着いたところである.メタボローム解析などの新たな解析手法は従来にない新品種の開発やそのスピードアップを可能にするほか,作物,土壌や環境のセンシングデータなどを活用して作物のポテンシャルをもっと引き出す生産管理手法や環境変化に強い生産管理手法を生み出すことなども期待される.AIやデータサイエンスなどをこれまでの農業関係の研究蓄積と融合させることで新たなイノベーションが生まれることを期待したい.
生産現場のイノベーションというテーマの下で,生産現場や農政の変化に伴う研究ニーズの変化,新たな技術開発・技術施策など,新たな取り組みを中心に説明してきた.雑多な紹介となった感はあるが,わが国農業の生産現場のイノベーションを実現するために何をすべきか,皆さんが少しでも考える機会になれれば幸いである.
本誌の読者には,農業の生産現場とは距離のある研究に取り組んでいる方も多いかもしれない.しかし,現場に近い改良や実証などの実用化研究だけでは大きなイノベーションは生まれない.現場から距離があっても次のイノベーションの種を生み出す基礎的研究も重要であることは言うまでもない.ただし,その場合であっても,現場へのつながりを失い,「研究のための研究」となることなく,現場のニーズを知り現場のイノベーションにつながるロードマップをもって取り組むことが重要だと考える.
私は,原発事故以来,農業分野の放射性物質対策に携わってきた.その際,本誌の読者となる分野の多くの研究者の協力によってさまざまな実態や知見が明らかになり対策につながった.研究成果が現場の課題解決に直結した事例であったと考えている.今回お話ししたとおり,現場はさまざまな課題に直面している.現場の課題を共有しつつ,今後とも読者の方々の協力を得て,一つずつ課題解決やイノベーションの創出につなげていきたい.
Reference
1) 農林水産省:生産現場から寄せられた今後研究を進めるべき技術的課題(27年度に収集した現場ニーズ)の概要,http://www.maff.go.jp/j/kanbo/kihyo03/gityo/g_needs/pdf/gaiyou.pdf, 2016.
2) 農林水産省:「攻めの農林水産業の実現に向けた革新的技術緊急展開事業」について,http://www.s.affrc.go.jp/docs/kakusin/index.htm, 2014.
3) 農林水産省:新品種・新技術の開発・保護・普及の方針,http://www.maff.go.jp/j/kanbo/kihyo03/gityo/tuyomi/index.html, 2014.
4) 農林水産省:スマート農業の実現に向けた研究会の中間とりまとめ,http://www.maff.go.jp/j/kanbo/kihyo03/gityo/g_smart_nougyo/pdf/cmatome.pdf, 2014.