Kagaku to Seibutsu 54(9): 687-690 (2016)
バイオサイエンススコープ
育種革命をもたらすゲノム編集技術
Published: 2016-08-20
© 2016 Japan Society for Bioscience, Biotechnology, and Agrochemistry
© 2016 公益社団法人日本農芸化学会
昨今,温暖化の進行に伴う農産物の品質低下や新規病害虫の発生・まん延など生産現場ではさまざまな問題が生じており,これらの課題に対応するための技術対策の加速化が必要となっています.また,昨年のTPP大筋合意を受け,今後,一層進むであろうグローバル競争に立ち向かうためには,農薬使用量の削減などによる生産コストの大幅な縮減や単収の向上による国内農林水産業の国際競争力強化が不可避の状況にあります.一方,海外に目を転じれば,今後,アジア諸国を中心に食市場が確実に拡大すると見込まれるなかで,和食ブームに見られる日本の農林水産物・食品のおいしさや安全,健康的といった「強み」を活かした海外市場の開拓が大いに期待できる状況にもあります.
こうしたなかで,現在,農林水産省農林水産技術会議では,おいしさや安全,健康的などの品質に裏打ちされた国産農林水産物のブランド力のさらなる強化などを目標として,ICT・ロボットなどを活用したより精密かつ省力的な生産システムの開発・普及,育種改良のスピードを飛躍的に高める次世代育種技術体系の確立などに取り組んでいます.本稿では,最近話題となっているゲノム編集技術を農作物の育種に利用する取り組みを中心に,研究開発の動向や規制のあり方に関する国内外の情報などを紹介します.
次世代シーケンサーの開発や,それら解読された膨大なDNA情報などをコンピューターを用いて高速解析し,有用な遺伝子などを特定するバイオ・インフォマティクス技術,オミックス解析技術などが実用化され,生物の遺伝情報や生体内でのそれら遺伝情報の発現・代謝メカニズムが急速に解明されつつあります.
農業分野でも,イネをはじめとしてダイズ,トマト,カンキツ,ブドウなど,すでに36種の農作物についてゲノム情報が解読されており,それらDNA配列情報のうち農業上の有用な形質に関与する遺伝子はイネでは100以上にも上ると言われています.
こうしたゲノム情報を活用して,目的とする形質を効率良く改良するDNAマーカー選抜育種法(有用な形質の発現に関係する遺伝子のゲノム上の存在位置の目印となるDNA配列を「DNAマーカー」として用い,DNAを調べることにより交配で得られた複数の子の中から「DNAマーカー」をもつ個体を選抜することで効率的に品種改良を行う手法)がすでにイネや野菜などでは本格化しつつあり,最近では,ゲノム上のDNA配列情報を自在に書き換えることができるゲノム編集技術が脚光を浴びています.ゲノム編集技術とは,ゲノム上の特定の塩基配列に特異的に結合する領域とDNAを切断する制限酵素領域とで構成される人工制限酵素(図1図1■人工制限酵素を利用したゲノム編集技術(ZFNの例))であり,1996年にジンクフィンガーヌクレアーゼが開発されて以降,標的配列の選択自由度がより高く,作製が容易なTALEN(2010年)やCRISPR/Cas9(2013年)が開発され,遺伝子の発現解析などの基礎科学分野のほか,医療・医薬品の開発,農作物育種,有用物資生産などさまざまな産業分野における利用が進みつつあります.
農作物の育種分野では,現在,DNAの二本鎖切断による偶発的な塩基の欠失や挿入を誘導し,標的遺伝子を破壊することをねらった研究開発が主に進められており,突然変異育種法の一つとして実用化が検討されています.標的遺伝子をピンポイントで改良(変異誘導)することができるため,親となる異なる品種の交配と得られた複数の子の中から優良な個体の選抜を繰り返す従前の育種改良プロセスを劇的に効率化できるほか,特定の不良形質を部分的に改良するデザイン育種が可能になります.
このため,これらゲノム育種法の進展は,長年の育種家の経験や育種素材に依存していた育種ビジネスにも大きな影響をもたらす可能性があります.実際,昨年バイテク大手のデュポン社(米国)がCRISPR/Cas9の独占許諾を獲得するとともに,ダウ・ケミカル社(同)との合併を発表し,農業バイテク分野の強化を図ろうとしています.また,先日は中国化工集団(中国)がシンジェンタ社(スイス)の買収を発表したほか,わが国でも,自動車部品などを扱う豊田通商(株)がコメ育種やクロマグロの養殖ビジネスに参入するとの報道も見られ,今後,育種ビジネス分野における競争がますます激化する様相が伺えます.
このようななか,現在,政府では,安倍総理の「イノベーションに最も適した国」を創り上げるとの方針の下,総合科学技術・イノベーション会議を司令塔として,国内産業の競争力強化に必要な重要課題を選定し,それら課題の解決に資する研究開発を府省・分野横断的に重点的に進めるため,「戦略的イノベーション創造プログラム(SIP;平成26~30年度)」を推進しています.
農林水産分野においても,このSIPの枠組みのなかでICT・ロボット技術の応用や植物工場などの高度環境制御技術の開発,次世代機能性食品の開発など次世代の農林水産業・食品を創造するための画期的な新技術の開発に取り組んでおり,ゲノム編集技術などを活用した新たな育種技術体系の確立もその一つとして推し進めています.
具体的には,
といった形で機能的な分担を図り,研究成果の獲得とそれら社会実装までの一連の取り組みを体系的に進めることとしています(図2図2■内閣府SIP「新たな育種体系の確立」の推進体制).
1系では,特に,農作物種の違いなどによってゲノム編集による変異の誘導効率などが課題となっていることから,CRISPR/Cas9タンパク質をより小型化・高性能化した改良型CRISPR/Cas9の開発を進め,将来,基本特許を有する米国MITとのクロスライセンスを目指すこととしています(東大グループ).また,動物では,通常,これらタンパク質を直接細胞中に取り込みゲノム編集を行うのに対して,植物では一旦,植物体のゲノム上にそれら発現遺伝子を組み込み(遺伝子組換え体を作製したうえで),ゲノム上の標的遺伝子を編集することになります.このため,できあがった新品種は,その後,戻し交雑を行い,後代集団の中から当該発現遺伝子が残っていない個体を選び出す必要があるなど,いまだ技術的な課題が残されています.
こうしたことから,1系グループでは,植物体のゲノム上に発現遺伝子を組み込むことなくゲノム編集が可能となるよう,ウイルスベクターを用いたCRISPR/Cas9などの発現方法の開発(農業生物研グループ)や,細胞漠透過ペプチドを利用したTALENの直接導入法の開発(理研グループ)などに取り組んでいます.今後,これら研究成果を速やかに知財化し,国産ゲノム編集技術のプラットフォームづくりを目指して参りたいと考えています.
2系では,画期的な新品種を作出するための有用遺伝子のリソース化に取り組んでいます.理化学研究所および日本原子力研究開発機構が保有する重イオンビーム照射施設を活用させていただき,イネや花き類の重イオンビーム照射変異体を作出し,それら変異体のDNA解析などの結果から有用な遺伝子を特定し,国内の種苗メーカーや地方自治体などに公開することとしています.
3系では,ゲノム編集技術を利用して,実際にイネやトマト,バレイショ,マグロなどの新品種開発を進めています.イネでは,コメの単収ポテンシャルを現行の2~3倍に高めることを目標として,籾数や粒重,糖の転流に関与するさまざまな遺伝子の改変による超多収系統の作出を進めています(農研機構作物研究所).また,野菜類では,天然毒素ソラニンの産生を抑制させたバレイショ(阪大),日持ち性や単為結実性,高糖度の三拍子がそろったトマト(筑波大)の育成が進められています.水産分野では,完全養殖向けの性質のおとなしいマグロ品種の作出に取り組んでいます(水産総合研究所).
4系では,これら研究開発と並行して,研究成果の種苗産業界への橋渡しや,GM規制上の取扱い判断に資するレギュラトリー・データの収集,一般消費者の受容促進のためのサイエンス・コミュニケーションなどに取り組んでいます.特に,一般消費者の受容については,依然として遺伝子組換え農作物に対する不安や懸念が根強い中で,このゲノム編集技術が従来の遺伝子組換え技術とどのように異なるのか,また,この技術を利用することによって国民生活にどのようなメリットがもたらされるのかなどをわかりやすく伝えることが重要です.3系の新品種が育成されるまでの間,消費者団体との学習会や全国各地で開催されているサイエンス・カフェへの出前講座,科学館などと連携した研究成果の巡回展示などの取り組みを着実に進め,一般の方々の理解醸成に努めていく考えです.
社会心理学の分野では,一般市民が科学技術の受容判断を行う際に,「リスク認知」,「ベネフィット認知」,「信頼」の3つの要素を用いると言われています.すなわち,ヒトを含む動物はみな危険(リスク)を回避しようとする本能があり,それを上回るようなベネフィットが目の前に存在しない限りリスクを取ることはないと言われます.また,現代社会においては,高度に発達した科学技術のリスクを各人が相対化して捉え,理解することは不可能であり,多くの場合,信頼のおける他者の発言や行動に依存すると言われています.
したがって,ゲノム編集技術の社会受容を進めるためには,上記サイエンス・コミュニケーションに加え,実際にこの技術を使って国民にどのようなベネフィットを提供できるのかのビジネス・アイデアが重要であり,具体的な商品・サービスを提供する民間企業の方々と連携した取り組みが不可欠です.
現在,農林水産省では,「知」の集積と活用の場産学官連携協議会(準備会)を組織し,さまざまなビジネス領域から民間の方々にお集まりいただき,各種セミナーなどを通じてSIPの成果をアピールするとともに,28年度からはこれら研究成果を活用したビジネスにチャレンジされる民間企業などの方々と産学連携研究を推進することとしています.
こうした取り組みと合わせ,知財や規制対応の問題も避けて通れない課題であり,今後,海外の動向も踏まえつつ,関係府省と連携して検討を進めていくこととします.
現在最も注目されているCRISPR/Cas9については,米国のMITブロード研究所とカリフォルニア大学などとの特許紛争が起きていると伝えられます.米国では昨年MIT側の特許が成立していますが,日本ではいずれも未成立の状況にあり,現状では国内で産業利用する場合に許諾を求めるべき特許権者が確定していない状況にあります.また,それらCRISPR/Cas9などの方法特許の権利が育成された新品種に及ぶのか,さらには育成された新品種を交配用の母本として用いた場合はどうかなど,特許権者との権利関係の調整や法的解釈の明確化が今後の課題として存在します.
他方,SIPにおける国産ゲノム編集技術の開発(1系)においては,それら米国における出願内容などを十分に精査し,新たな特許として権利化が可能なより「強み」のある技術の開発を目指す必要があります.
遺伝子組換え生物の環境放出などを規制するカルタヘナ法では,「細胞外で加工された核酸又はその複製物を有する生物」を規制対象生物としているため,現状では,導入遺伝子が残存しないゲノム編集作物などがこの規制を受けるのか否かが不明確な状況にあります.また,ゲノム編集の標的遺伝子は,基本的に当該作物種に存在する既知の遺伝子に変異(核酸の欠失など)を誘導しているため,それら変異は慣行の交雑育種法や突然変異育種法によっても育成された既存品種にも同様に存在するものであったり,将来同様のことが慣行の育種技術でも起こりうる可能性があります.さらに,動物などでは,遺伝子組換え技術を用いることなく,あらかじめ設計されたタンパク質を直接作用させてゲノム編集を行うため,そのような過程で生み出された生物は,現行の遺伝子組換え規制の外にあると考えられます.
このため,こうして育成されたゲノム編集作物などに関して,遺伝子組換え規制上の取扱いが国際的にも議論となっており,今後,この取扱いの明確化と国際的な規制調和が重要な課題です.
農林水産技術会議では,ゲノム編集技術がいまだ使用経験の少ない技術であり,変異を誘導する遺伝子に関しても安全性などに関する知見が必ずしも十分に備わっていないケースも想定されること,また,この新しい技術に対する社会受容を促すうえでは一定のガバナンスが不可欠であることから,SIPなどで得られた新品種などはすべてカルタヘナ法や食品衛生法などを所管する規制当局に事前相談を行い,必要に応じて専門家による評価を受けることとしています.また,SIPの4系グループでは,これら規制当局者の判断や専門家の評価に資するよう,導入遺伝子が残存していないことの立証方法の開発や自然突然変異に関するエビデンスの収集,安全性などに関する情報の充実にも取り組んでいます.今後,これらレギュラトリー・データの充実を図り,合わせてOECDなどの国際的な枠組みの下でそれら情報を共有することによって,遺伝子組換え規制上の取扱いに関する国際的な調和を推進して参りたいと考えています.
遺伝子組換え食品の導入普及に慎重なECでは,こうしたGM規制上の問題などに関して,早速,アカデミア・種苗業界と環境NGOなどとの論争が巻き起こされており,現行のGM指令における法的解釈を欧州委員会が見解を見合わすという状況が続いています.
確かに,新しい技術に対してより用心深く対処すべきことは当然であり,科学技術の発展を社会と調整させるためには一定の規制が必要かもしれません.ただし,規制があまりに過度なものになると,逆に科学技術の恩恵を国民にお届けすることができないといったジレンマも生まれます.
そうした観点から,米国やECでは,さまざまな利害関係者を巻き込み,この技術を利用することの社会経済的なメリット・デメリットなどに関して議論が始められているようです.わが国でも,そうした議論が不可避であり,今後,アカデミア側からの積極的な議論を期待したいと存じます.