巻頭言

「化学と生物」と国際協力研究企画

Shigeo Yoshida

吉田 茂男

理化学研究所名誉研究員

Published: 2016-09-20

研究現場を離れたためか,あるいは高齢化のせいか,最近になって本誌を手にすると懐かしい事柄を思い出すことが多い.筆者が最初に「化学と生物」の存在を知ったのは1967年の春,東京大学大学院農学系研究科において本格的な学術研究に取り組むという緊張感に浸っていた時期であった.当時は1964年の東京オリンピック以降好景気が続いたこともあって,一流企業に就職するための修士課程進学希望者が増え始めていた.筆者は学部時代の4年間をサッカー部活動に没頭していたため,専門知識の修得に自信がなかった.そこで,卒業論文研究の指導教官であった田村三郎先生にお願いし,大学院で不勉強の遅れを取り戻すという理由で推薦入学枠に入れていただいた.今の感覚では到底考えられない懐かしい時代の大学制度運用であった.

当時,田村先生は農産物利用学講座を担当されており,講座の名称と実際の研究対象とのギャップを解消しようと努力されていた.その頃の事情については後のご著書『現象の追跡—生理活性物質化学を拓く』に詳しく記しておられるが,新米大学院生であった筆者も自分の研究課題と講座名との関係が気になり始めていた.そうした疑問を抱えながらも大学院生活に馴染んできた頃,「東大紛争」として知られる過激な学生運動が勃発したため,落ち着いて研究生活に没頭する雰囲気は失われていった.せめて文献で農芸化学の精神を探れないかと考えた筆者は,5年前に創刊された「化学と生物」が日本農芸化学会発行の学術情報誌であることに気づき改めて読み直したのである.創刊号では住木諭介先生が農芸化学者への熱き想いを書かれていて,門下生の末端に属する筆者にもその情熱が伝わり大きな感銘を受けた.こうして筆者は折々に「化学と生物」に目を通す習慣を身につけた.

1979年4月から1981年3月まで筆者はオーストラリア国立大学(ANU)でユーカリの成長調節物質に関する研究に従事していたが,幸運にも1980年10月に日豪科学技術協力協定が締結された.そこで筆者は植物・微生物に関する総合研究を本格的な国際協力プロジェクトとするためRIKEN–ANU機関間協定の締結を提案した.このときに苦労したのは農芸化学的学術用語の英訳であったが,筆者の良き理解者であったANUのW. D. Crow教授とともに「化学と生物」を開きながら熱心に議論した日々を思い出す.

次に手掛けた国際協力協定は1985年に締結された日韓科学技術協力協定に基づいて筆者の上司であった高橋信孝教授とともに韓国の発展に寄与する体制を作ろうとするものであった.韓国側の責任者は韓国化学研究所(KRICT)の趙匡衍博士で筆者とは同門の義兄弟のような間柄であった.この頃の韓国は自前の農薬開発研究基盤を確立すべく政府民間一体となって懸命に努力していた.その中核は米国で教育を受けた有能な研究者たちであったが,彼らのほとんどは農芸化学流研究の展開を理解できなかった.そこで筆者は頻繁に「化学と生物」の記事を引用して彼らと懇談を重ね,最終的には非常に良好な協力体制が出来上がった.この頃の韓国では漢字教育が軽視されたため「化学と生物」を英語訳で伝えようとしたが意のままにならず,趙博士がハングルで説明すると正確に理解されたことからアジア共通の情緒を実感した.

1997年にわが国の科学技術会議政策委員会は「21世紀に向けた我が国の科学技術政策の国際的展開について」という報告書を取りまとめ,地球規模問題の解決に向けた科学技術上の課題として,「環境負荷を増大させることなく食料を増産,確保するための課題」や「生物機能を活用して環境の維持,修復を図るための課題」などを例示した.このことから筆者は政府の報告を「化学と生物」的な視点で捉え,直ちに国内外の研究者たちに植物研究を軸にした国際的研究機関の企画を呼びかけた.その結果,多くの研究者の協力によって2000年4月に理化学研究所に植物科学研究センターが開設され,遺伝子科学,生物有機化学,情報科学,環境科学などを融合的に取り入れたインパクトの高い研究を展開し,国際的に極めて高い評価を得ている.

以上のように「化学と生物」は筆者にとって最強の研究企画ツールであったが,今日の学術領域で異分野連携の重要性はますます高まっているので,若い方々も本誌を通じて農芸化学の面白さを再発見するようお願いしたい.